第25話「ピートが人になる」
ピートが小屋に来たのは、朝ごはんの真っ最中だった。
窓の外から「きゅん」という甲高い鳴き声が聞こえて、扉を開けるとそこに小さな狼がいた。灰色がかった銀色の毛並み。まだ子どもで、ルークの半分もない。
「ピート!」
ピートが私の足に飛びついてきた。前脚で膝にしがみつき、尻尾を回転させている。プロペラみたいだ。このまま飛ぶのではないかと心配になるレベルの高速回転。
ルークが背後から「ふん」と鼻を鳴らした。やきもち。分かりやすい。
「ルーク、大人げないわよ。ピートはまだ子どもなんだから」
ルークがそっぽを向く。尻尾が下がっている。拗ねている。四十キロ超えの狼が拗ねている姿は、控えめに言ってもかなり可愛い。
ピートを抱き上げた。軽い。ルークと違って、片腕で持てる。前世で抱っこしていた柴犬くらいの重さだ。腕の中でぺろぺろと顔を舐めてくる。ざらざらした舌が頬に当たって、くすぐったい。
「ピート、ご飯食べた?」
「きゅん」
食べてない、の意味だと解釈して、干し肉を小さく刻んでやった。ピートが尻尾を振りながらがつがつ食べる。ルークも横から鼻先を伸ばしてきたので、追加で肉を出した。
——平和だ。
グリムに認めてもらってから、ピートの来訪頻度が上がった。以前は月に一回くらいだったのが、今では週に二回は顔を出す。群れの許可が出たのだろう。
午後、ミーナが来て薬草の調合を教えてくれた。ピートはミーナの膝の上で丸くなって眠っている。ミーナは「重い」と言いながらも、一度も下ろさなかった。
「このピートって子、何歳くらい?」
「狼族の年齢で言うと、人間の十二歳くらいかしらね」
「人化は?」
「まだできないわ。ルークが人化したのも十五歳相当になってからだったから、あと二、三年はかかるでしょうね」
ミーナがピートの頭を撫でながら言った。ピートの耳がぴくぴく動いている。寝ながら聞いているのかもしれない。
夕方になって、ミーナが帰った。
ルークとピートと三人——いや、三匹? 一人と二匹? ——とにかく、三つの生き物が小屋の中にいる。ルークは暖炉の前に陣取り、ピートは私の膝の上にいる。
夜が近づいて、空に月が昇り始めた。
今夜は満月ではない。半月。でも、かなり丸い。
ルークの毛並みがざわついた。いつもの変化の前兆とは違う。微かな波打ち。今夜は変化しないけれど、月の引力を感じているのだろうか。
そのとき。
膝の上のピートの体が、震え始めた。
「ピート?」
小さな狼が目を見開いている。瞳孔が開いて、呼吸が荒くなっている。毛並みが——波打っている。ルークのそれと同じように。
「え、ちょっと」
ルークが跳ね起きた。琥珀の目がピートを凝視している。
ピートの体から熱が溢れ出した。小さな体が光を帯びて、輪郭がぼやけていく。毛並みが溶けて、体の形が変わっていく。
——これは。
私の膝の上で、起きている。
「ルーク、ルーク、これって——」
ルークが私の横に来て、ピートをじっと見ている。尻尾が真横にぴんと伸びている。緊張しているのだ。
光が収まった。
私の膝の上に、子どもがいた。
銀色がかった灰色の髪。大きな青い目。ほっぺたがまるい。十二歳くらいの、男の子。
裸だった。
「——さ、さむい」
声が震えている。初めての人化だ。体の感覚が分からないのだろう。手が自分の腕を抱いて、がたがた震えている。
「ブランケット!」
ルークの寝床からブランケットを引っ張ってきて、ピートの肩にかけた。小さい。ルークの人間形態よりずっと小さい。子どもだから当然だけれど。
「ピート、大丈夫? 私の声、聞こえる?」
「……ろーぜまりー?」
舌足らずな声で、私の名前を呼んだ。
——ああ、この子、ちゃんと私の名前を知ってた。
「そうよ。ローゼマリー。分かる?」
「わかる。でも、からだが、へん。あしが、にほん」
「二本で合ってるわよ。人間は二本足なの」
「ぼく、ひとに、なった?」
「なったわ。すごいわよ、ピート」
ピートの大きな青い目がきらきら光っている。驚きと戸惑いと、それから——嬉しさ。
「るーく! ぼく、なったよ! ひとに!」
ルークを見上げるピート。ルークは銀色の狼のまま、ピートの顔をじっと見つめていた。
それから、ゆっくりと近づいて、ピートの頬を舐めた。
ピートが笑った。子どもの笑い声が小屋に響く。
「くすぐったい! るーく、べろ、ざらざら!」
ルークの尻尾が揺れている。誇らしげに。弟分が人の姿を得た夜を、言葉のない祝福で包んでいる。
私はブランケットからはみ出したピートの足を包み直しながら、涙を堪えた。泣いている場合ではない。この子に服を着せなければ。
「ルークの服、小さいのあったかな……」
棚を漁る。ルーク用の予備シャツが一枚だけあった。ピートに着せると、裾が膝下まで来る。完全にワンピースだ。
「ピート、歩ける?」
「やってみる」
ブランケットから抜け出したピートが、おぼつかない足取りで一歩を踏み出す。二歩目でよろけて、ルークの体にぶつかった。ルークが支えるように体を寄せる。
三歩目。四歩目。少しずつ、まっすぐ歩けるようになっていく。
「あるけた!」
ピートが両手を上げた。シャツの袖が長すぎて、手が見えない。袖をぶんぶん振り回している。
可愛い。圧倒的に可愛い。
「ピート、すごい。上手よ」
「ほんと?」
「本当。一回目とは思えないくらい上手」
ピートの顔がぱあっと輝いた。
——でも。
「あのね、ピート。人の姿でいられる時間は限られてるから。疲れたら無理しないで」
「うん」
案の定、十分もしないうちにピートの体が光り始めた。輪郭がぼやけて、毛並みが戻ってくる。
小さな狼が、シャツの中からぽとりと落ちた。
「きゅん」
疲れ切った顔で、私の足元にぺたりと伏せる。
「お疲れ様」
頭を撫でると、尻尾が一回だけ力なく揺れて、そのまま眠ってしまった。
ルークが私の横に来て、寝ているピートの横に並んで伏せた。弟分を守るように。
私はルークの背中に手を置いた。温かい毛並みの下で、心臓が規則正しく打っている。
「ピート、今日が最初の人化だったね」
ルークが小さく鼻を鳴らした。
「あなたもこうだった? 最初に人になったとき」
返事はない。でも、尻尾が一度だけ揺れたから、きっとそうだったのだろう。
月が窓から差し込んでいる。半月の柔らかい光の下で、大きい狼と小さい狼が並んで眠っている。
前世の動物病院でも、入院中の犬が子犬の世話をしていることがあった。あのときと同じような、穏やかな空気が小屋を満たしている。
私はそっと毛布をかけた。二匹の上に、一枚の毛布。はみ出すルークの尻尾を押し込んで、暖炉に薪を足す。
今夜は、良い夜だ。




