第23話「兄が折れた日」
満月の夜が来た。
空気が変わるのが分かる。夕暮れから夜へ移る境目で、ルークの毛並みがざわざわと波立つ。何度見ても不思議な光景だ。銀色の毛が一本一本光を帯びて、体の輪郭がぼやけていく。
目を閉じたルークの体から、ふわりと熱が立ち上った。
次に目を開けたとき、そこにいるのは銀髪の青年だ。
「……服」
「はいはい」
毎回これだ。渡しておいたシャツとズボンを放り投げると、ルークが慌てて受け取る。耳まで赤くなっている顔を、私は横を向いてやり過ごした。何度目だろう、この流れ。
「着た」
「よし」
振り返ると、シャツのボタンを一つずれて留めているルークがいた。
「ルーク。ボタン」
「……」
黙って直し始める。人間の服にまだ慣れない狼族の青年。指先がもたつく様子を見ていると、つい手が出そうになるけれど、堪える。ここは自分でやらせるべきだ。
——今夜は、大事な夜だから。
「グリムが来る」
ルークが低い声で言った。人間のときの声は、狼のときの唸りとは全然違う。落ち着いていて、少しかすれている。
「うん。来るって言ってた」
「……俺が話す」
「うん」
それ以上、何も言わなかった。ルークが自分で決めたことだ。私が口を挟む場面じゃない。
小屋の前に出た。月が昇っている。森の木々が銀色に照らされて、昼間とは別の場所みたいだ。
茂みが揺れた。
黒い影が、月光の中に踏み出してくる。巨大な黒狼。グリム。
グリムの体が変化を始めた。黒い毛並みが溶け、長身の青年が現れる。私が差し出した服を、今回は黙って受け取った。前回より、少しだけ動作が穏やかに見える。
「来たな」
グリムがルークを見る。
「ああ」
ルークがグリムの正面に立つ。兄弟が向き合っている。二人とも背が高いので、私は完全に蚊帳の外だ。身長差がすごい。
「話せ」
「……兄さん」
ルークが息を吸い込んだ。銀灰色の目が、月明かりの下で光っている。
「俺は、ここにいたい」
「理由を言え」
「——ローゼマリーの傍がいい」
心臓が跳ねた。え。今、なんて。
いや、待って。落ち着いて。これは「群れにいるよりここがいい」という意味であって、そういう意味じゃない。たぶん。おそらく。
「群れを捨てるのか」
「捨てない。群れは俺の家族だ。でも、俺の居場所はここにもある」
「両方は選べない」
「なぜ」
グリムが一瞬、言葉に詰まった。
「……掟だ」
「掟は変えられないのか」
沈黙。風が吹いて、グリムの黒髪が揺れる。月明かりが彼の横顔を照らし、その表情が——苦しそうだった。
掟を守る長としてのグリムと、弟を心配する兄としてのグリム。二つの顔が、一人の中でぶつかっている。
「グリム」
私は一歩前に出た。
「何だ」
「一つ、提案していい?」
グリムの金色の目が私を見る。警戒の色。でも、前ほどの敵意はない。
「ルークが群れの狩りに参加できないなら、別の形で群れに貢献すればいい」
「別の形?」
「私は前世で動物の看護師をしてたの。怪我や病気の手当てはできる。ミーナの薬草の知識もある。ルークがここと群れの橋渡しをすれば、群れにも利益がある」
グリムが眉をひそめる。
「人間の知恵で、狼族を治療すると?」
「実際、ルークの怪我も私が手当てしたでしょう。前脚の傷、綺麗に治ったじゃない」
グリムの目がルークの左前脚——今は左手に向いた。あの日、森で倒れていた狼の傷。包帯を巻いて、薬を塗って、毎日消毒して。傷跡はもうほとんど分からない。
「……」
「ルークは群れを捨てない。私も、ルークを独占するつもりはない。でも、ルークの居場所がここにもあることは——認めてほしい」
三人の間に沈黙が降りた。
虫の声が聞こえる。秋の夜の虫。鈴を転がすような、高くて細い音。
グリムが口を開いた。
「——ミーナの婆さんに聞いた」
「え?」
「お前がルークの傷を手当てしたとき、三日三晩寝ずに看病したと」
ミーナ。余計なことを。
「まあ……心配だったから」
「見ず知らずの狼を、か」
「見ず知らずっていうか……放っておけなかっただけよ。前世の職業病みたいなものだから」
グリムが長い息を吐いた。肩の力が抜けるのが、月明かりの下でもはっきりと見える。
「ルーク」
「……兄さん」
「群れの薬を、ここから届けろ。月に一度、群れに顔を出せ。それが条件だ」
ルークの目が見開かれた。銀灰色の瞳に、月の光が映っている。
「いいのか」
「お前が選んだ場所だ。——認める」
たった二文字。けれどその声が少し震えていたことを、私は聞き逃さなかった。
ルークの表情が崩れた。笑っているのか泣いているのか分からない、ぐちゃぐちゃな顔。人間形態でこんな表情を見るのは初めてだ。
「……ありがとう」
「礼を言うな。気持ち悪い」
グリムがぷいと顔を背けた。その横顔が赤いのは、月明かりのせいだけではない気がする。
「次の新月までに薬を届けろ。遅れたら許さん」
「分かった」
「——それから」
グリムが私を見た。
「人間。名前は」
「ローゼマリーよ」
「ローゼマリー。弟を頼む」
背を向けて、服を脱ぎ捨て、黒い狼に戻る。今度の背中は、小さくなかった。群れの長としての、堂々とした後ろ姿。
森の闇にその姿が溶けるのを見届けてから、私は隣に立つルークを見上げた。
「ルーク、泣いてる?」
「泣いてない」
泣いていた。目の縁が赤くて、銀灰色の目が潤んでいる。
「泣いてるじゃない」
「……目にゴミが入った」
嘘が下手だ。狼のときはポーカーフェイスなのに、人間になると途端にこれだ。
私は背伸びをして、ルークの頭にぽんと手を置いた。狼のときみたいに、耳の後ろを掻いてやる。
「よかったね」
ルークが目を閉じた。人間の姿でも、耳の後ろを掻かれると気持ちいいらしい。
月が、森の上で丸く輝いている。
今夜から、何かが変わる。確信めいたものが、胸の奥にある。




