第22話「自分で決めなさい」
グリムが再び現れたのは、三日後の夕方だった。
私は小屋の前で薪を割っていた。前世では斧なんて握ったこともなかったけれど、辺境暮らしも数ヶ月になると、それなりに様になってくる。コツは振り下ろす瞬間に腰を入れることだ。ミーナに教わった。
薪が真っ二つに割れた瞬間、背後の茂みが揺れた。
振り返ると、巨大な黒い狼が立っている。ルークより一回り大きい。金色の目が、冷ややかに私を見据えていた。
グリム。
ルークは小屋の中にいる。昼寝中のはずだ。
「——グリム」
名前を呼ぶと、黒い狼が低く唸った。威嚇ではない。名前を呼ばれたことへの反応だ。前世の経験が、そう教えてくれる。
グリムの姿がぶれた。体の輪郭が揺らぎ、毛並みが溶けるように消えていく。
数秒後、黒髪の青年が立っていた。ルークより背が高く、肩幅も広い。整った顔立ちだが、表情は険しい。
「——服」
「あ、はい。ちょっと待って」
小屋の物置から、ルーク用に用意していた予備の服を引っ張り出した。サイズが合うか分からないが、裸で会話するよりはましだ。
グリムが服を受け取り、無言で袖を通す。ルークの服は少し小さかったらしく、肩のあたりが窮屈そうだ。
「弟はどこだ」
「中で寝てるわ。起こす?」
「いい。お前に話がある」
グリムの金色の目が真正面から私を射抜く。覚悟はしていた。むしろ、来てくれてよかったとさえ思う。ルークの咆哮であの夜は追い返したけれど、あのままでは何も解決しない。
「聞くわ」
「ルークを群れに戻せ」
直球だった。交渉も前置きもない。狼族の流儀なのだろうか。
「群れには掟がある。成人した狼は、群れの狩りに参加する義務がある。ルークはそれを放棄している」
「ルーク本人が、ここにいたいと言ってる」
「子どもの我儘だ」
「子どもじゃないでしょう。自分で考えて、自分で決めたことよ」
グリムの目が細くなる。
「お前に何が分かる。人間が、狼族の絆を語るな」
胸の奥がちくりと痛んだ。分からない。確かに、私には狼族の絆も、群れの掟も、本当の意味では分からない。
でも。
「分からないわよ。狼族のことは分からない」
斧を薪の上に立てかけて、グリムに向き直った。
「でもね、グリム。ルークがここにいるのは、私が引き留めたからじゃない。ルークが自分で選んだの」
「だから——」
「あなたが『戻れ』と言って、ルークが戻ったとして。それはルークの意志? それともあなたの?」
グリムが黙った。
風が吹いた。夕方の冷たい風に、薪の匂いが混ざっている。木を割ったばかりの断面から立ち上る、生っぽい樹液の香り。
「私が言えることは一つだけよ」
声が震えないように、腹に力を入れた。
「ルークに、自分で決めさせなさい」
グリムの金色の目が揺れた。初めて見る動揺だった。
「あなたが決めることじゃない。私が決めることでもない。ルークが、自分の足で立って、自分の口で言うべきことよ」
「……お前」
「何」
「お前は、弟を群れから奪っておいて、罪悪感はないのか」
その問いに、私は一瞬だけ息を吸い込んだ。
「あるわよ」
正直に答えた。
「あなたの弟をここに置いてることの重さは、分かってるつもり。群れでの居場所がなくなるかもしれないことも、ミーナから聞いた」
グリムの眉がわずかに動く。ミーナの名前に反応したのだ。
「でもね。それを含めて、ルークに決めさせるべきだと思ってる。私の罪悪感で追い出すのも、あなたの心配で連れ戻すのも、どっちもルークの意志じゃないでしょう」
長い沈黙が落ちた。
夕日が森の稜線に沈みかけている。グリムの黒髪が風に揺れる。ルークと同じように色素が薄い肌に、金色の目。美形の兄弟だ。狼族というのは皆こうなのだろうか。
小屋の戸が開いた。
銀色の狼が、のっそりと顔を出す。寝起きの顔。目が半分閉じている。
——その目が、グリムを捉えた瞬間に見開かれた。
ルークの体が一瞬で緊張する。毛が逆立ち、尻尾が下がり、低い唸り声が喉の奥から漏れる。
「ルーク」
私が名前を呼ぶと、唸り声がぴたりと止まった。琥珀の目が私を見て、それからグリムを見て、また私を見る。
「大丈夫。話してただけよ」
ルークが私とグリムの間にゆっくり歩み出て、座った。私を背にかばうように。
グリムがルークを見下ろしている。兄が弟を見る目。そこには怒りだけではない何かが滲んでいるのが、私にも分かった。
「……次の満月に来る」
グリムがそう言って、背を向けた。
「そのとき、ルーク。お前の口から聞かせろ」
服を脱ぎ捨てて、黒い狼に変わり、森の闇に消えていく。その背中は、前回よりも少しだけ小さく見えた。
ルークが私の手に鼻先を押しつけてきた。心臓が早く打っているのが、鼻先越しに伝わってくる。
「大丈夫だよ」
頭を撫でると、ルークが小さく息を吐いた。緊張がほどけていく音。
「次の満月に、あなたの言葉で伝えよう。ここにいたい理由を」
ルークの尻尾が、一度だけ大きく揺れた。
薪の山に寄りかかって、私は空を見上げる。細い三日月が、薄い雲の向こうに浮かんでいた。
満月まで、あと十日ほど。
それまでに、ルークと話すことが山ほどある。




