第21話「人間と狼の間で」
ミーナが小屋にやってきたのは、昼過ぎのことだった。
「あら、元気そうね」
ルークの頭を撫でながら、ミーナが言う。ルークは尻尾を控えめに振っている。ミーナに対しては、いつもこの控えめな振り方をする。私のときは全力なのに。
「ミーナ、昨日の夜——」
「聞こえたわよ。あの咆哮」
ミーナは棚から薬草の束を取り出しながら、振り返りもせずに言った。
「グリムが来てたんでしょう。森中に響いてたもの、ルークの声」
さすが森の薬師。何でもお見通しだ。
「ルークがグリムに吠えたの。ここにいる、って」
「そう」
ミーナが乾燥させた薬草を紐で束ね直している。その手つきは淀みなく、まるで別のことを考えているように見える。
「ミーナは、どう思う?」
「何を?」
「ルークがここにいること。狼族の群れを離れて、人間の私と暮らしてること」
ミーナの手が止まった。薬草の束をテーブルに置いて、椅子に腰掛ける。
「ローゼマリー。私はね、ここで三十年暮らしてるの」
「うん」
「その間に、狼族とは何度もやり取りがあった。薬を届けたこともある。怪我を手当てしたこともある」
ミーナの目が遠くなる。薬草の匂いが鼻をくすぐった。乾いた緑の香り。この小屋に来ると、いつもこの匂いがする。
「狼族はね、群れの絆がとても強いの。家族と離れるということは、人間が思うよりずっと重い意味を持つ」
ルークが私の足元でぴくりと耳を動かした。聞いているのだ。
「グリムが怒っているのは、弟を取られたからじゃない。弟が傷つくのが怖いのよ」
「傷つく?」
「人間と暮らすということは、狼族の寿命を人間の時間に合わせるということ。群れの行事にも参加できない。狩りにも出ない。そのうち、群れの中での居場所がなくなる」
胸の奥がきゅっと締まる。
「——それは」
「ルークが選んだことよ。でも、選んだからといって、代償がないわけじゃない」
ミーナが立ち上がり、窓を開けた。午後の風が入ってきて、薬草の束が揺れる。
「あなたに問いたいのは一つだけ。ルークが群れの中での居場所を失っても、あなたはその分の居場所になれる?」
答えられなかった。
口を開きかけて、閉じた。簡単に「なれる」と言ってはいけない気がした。
ルークが私の手に鼻先を押しつけてくる。冷たい。
「……すぐには答えられない」
「それでいいのよ」
ミーナが微笑む。初めて見る、柔らかい笑みだった。普段はぶっきらぼうで、「あら、またルーク人になったの?」と軽口ばかり叩くのに。
「すぐ答える人間は信用できないもの。悩みなさい。悩んで、それでも一緒にいたいなら——そのときは、私も手を貸すわ」
「手を貸すって?」
「グリムとの橋渡し。あの子、私の薬がないと冬を越せないの。借りがあるのよ」
ミーナが悪戯っぽくウインクした。
「……ミーナ、それ脅しじゃない?」
「交渉術と言いなさい」
笑ってしまった。緊張で固まっていた肩から、力が抜けていく。
ミーナは帰り際に、棚の薬草の束を一つ私に押しつけた。
「これ、睡眠導入のお茶よ。考え事で眠れなくなったら煎れなさい」
「まだ眠れないとは言ってない」
「顔に書いてあるわ」
ミーナの背中が森の小道に消えるまで見送った。踏みしめる落ち葉が、乾いた音を立てている。秋が深まっている。
ミーナが帰ったあと、私はルークと二人きりの小屋で考え込んだ。
居場所になれるか。
前世のことを思い出す。動物病院で働いていたとき、飼い主さんに引き取られていく動物たちを何頭も見送った。あの子たちにとって、飼い主さんの家が居場所だった。
でも、ルークはペットじゃない。
満月の夜には人になる。言葉を話す。意思がある。自分で「ここにいる」と選んだ。
私がルークに提供できるのは、この小さな小屋と、毎日の食事と、もふもふを堪能する手のひらと——。
……それだけだろうか。
ルークが顎を私の膝に載せている。重い。温かい。琥珀の目が、何かを待つようにこちらを見つめている。
「ルーク。次の満月に、ちゃんと話そう」
耳がぴくりと動く。
「グリムのこと。群れのこと。あなたが何を手放して、ここにいるのか。私、ちゃんと知りたい」
ルークの尻尾が、ゆっくりと揺れ始めた。
「それで、私なりの答えを出すから」
鼻先が私の手のひらに押しつけられる。少し湿っていて、温かい息がかかる。
——人間と狼の間で、私たちは何になれるのだろう。
家族でもない。飼い主とペットでもない。恋人と呼ぶには、まだ早い。
名前のつかない関係が、この小屋の中でゆっくりと形を変えようとしている。
夕暮れが近づいて、窓の外が橙色に染まる。ルークの銀色の毛並みが夕日を受けて、淡く光った。
綺麗だと思った。
狼を綺麗だと思う自分に、もう驚かない。




