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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼


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第20話「ここにいたい、と」

ルークの咆哮が森の奥まで響き渡ってから、一晩が過ぎた。


 窓の向こうが白んでいる。私はベッドの端に腰掛けて、足元で丸くなっている銀色の狼を見下ろしていた。


 昨夜の満月は過ぎている。ルークは狼の姿に戻って、私のベッドの横で眠りについた。グリムに向かって吠えた、あの凄まじい声が嘘のように、今は穏やかな寝息を立てている。


 耳がぴくりと動く。私の視線に気づいたのか、片目だけ薄く開けた。


「おはよう」


 ルークは尻尾を一度だけ床に叩きつけるように振って、また目を閉じる。


 ——昨夜のこと、覚えているのだろうか。


 満月の夜。人の姿のルークがグリムの前に立ちはだかり、低く唸るような声で言い放った。「俺はここにいる」と。グリムの黄金の目が見開かれ、兄弟の間に張り詰めた空気が走り、そしてルークが——咆哮した。


 あんな声は初めて聞いた。前世で動物病院にいた頃、どんな大型犬の吠え声も聞いてきたけれど、あれは犬の声ではなかった。もっと深くて、地面から響くような、骨に届く振動。


 私は膝を抱えた。


「ルーク」


 名前を呼ぶと、今度は両目を開けてこちらを見上げる。琥珀色の瞳。人のときは銀灰色なのに、狼のときはこの深い琥珀になる。同じ人なのに、目の色が違う。不思議だ。


 ルークがのそりと起き上がり、私の膝に鼻先を押しつけてくる。冷たくて湿った感触。


「……くすぐったいってば」


 前脚を私の太ももに載せてくる。重い。この狼、体重がどう考えても普通じゃない。前世の知識で推定すると四十キロは超えている。


「ご飯にしようか」


 その言葉に反応して、ルークの耳がぴんと立つ。尻尾も立つ。全身で「ごはん」に応えている。


 さっきまでの深刻な空気が消し飛んだ。


 台所に立って干し肉を切り分けていると、ルークが足元にぴったりくっついてくる。前世で勤めていた動物病院でも、入院中の大型犬がこうやってスタッフの足元をうろうろしていた。懐かしい。でも、あの子たちは満月の夜に人にはならなかった。当たり前だけれど。


 干し肉を器に盛って床に置く。ルークが尻尾を振りながら食べ始める。


 私はパンを千切りながら、窓の外を眺めた。


 森は静かだ。グリムの気配はない。昨夜、ルークの咆哮のあと、グリムは何も言わずに森の闇に消えていった。その背中は大きくて、でもどこか寂しそうに見えた。


 ——弟を返してもらいたい。


 グリムの声が耳の奥に残っている。冷たい声だった。けれど、あれは怒りじゃない。私には分かる。動物を扱ってきたから、分かるのだ。


 あれは、心配の声だ。


 パンの耳を噛みちぎる。硬い。ミーナにもらった焼きたてのときは柔らかかったのに、二日経つとこうなる。


 食事を終えたルークが、私の椅子の横にどさりと伏せた。顎を私の足の甲に載せてくる。温かい。この重みにも、もうすっかり慣れてしまった。


「ルーク、あのね」


 狼が見上げる。


「昨夜、グリムに言ったこと。『ここにいる』って。——それ、本当?」


 ルークが私の足の甲から顎を上げた。琥珀の目が、まっすぐに私を見つめる。


 返事はない。狼だから、今は話せない。でも、その目が語っている。


 尻尾がゆっくりと揺れ始めた。左右に、大きく。


 ——ああ。


 本当なんだ。


 私は手を伸ばして、ルークの頭を撫でた。耳の後ろに指を滑り込ませると、目を細めて鼻を鳴らす。低い、甘えるような声。


「いていいよ」


 声が震えた。自分でも驚く。


「ここにいていいよ、ルーク。あなたがいたいなら」


 ルークが立ち上がった。大きな体で私の膝の上に顔を押しつけてくる。重い。苦しい。でも温かくて、毛並みが頬に触れるとふわふわで、泣きそうになった。


 前世で、動物病院を辞めた日のことを思い出す。


 大好きだった入院犬が退院していった日。嬉しいはずなのに、寂しくて、帰り道にコンビニのおにぎりを食べながら泣いた。あのときの気持ちに似ている。いや、違う。あのときは見送る側だった。今は——引き留める側だ。


「ちょっと、重い、重いってば」


 ルークは退かない。尻尾だけが忙しなく揺れている。


 仕方ないので、両手でもふもふの首回りに顔を埋めた。鼻の奥に、森の匂いと日向の匂いが混ざった、ルーク特有の香りが広がる。


 この匂いを嫌いになれる人間が、いるだろうか。


 ルークの心臓の音が聞こえる。規則正しくて、力強い拍動。この胸の中に、昨夜グリムに向かって吠えた覚悟が詰まっている。


 ——ここにいたい、と。


 彼は、そう言ったのだ。


 私は顔を上げて、鼻の頭を拭いた。


「よし。じゃあ今日も、一緒にいよう」


 ルークが一声、短く鳴いた。「了解」と言っているように聞こえた。


 前世の知識が正しければ、犬の短い一声は肯定のサインだ。狼族にも当てはまるかは分からないけれど、その尻尾の振り方を見れば、答えは明らかだった。


 窓の外で鳥が鳴いている。


 森の朝は、昨日と変わらず静かに始まる。変わったのは、私の胸の中にある温度だけだ。


 ——グリム。あなたの弟は、ここにいたいんです。


 その想いを、いつか伝えなければならない。言葉で。ちゃんと。狼の咆哮ではなく、人間の言葉で。


 でもそれは、今日じゃない。今日はまだ、このもふもふの温かさに甘えさせてほしい。


 ルークが私の手のひらをぺろりと舐めた。ざらりとした舌の感触に、思わず笑う。


「もう。それ、くすぐったいって言ってるでしょ」


 狼は知らん顔で、もう一度舐めた。

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