第1話「もふもふが止まらない」
狼が居着いた。
翌朝目覚めたとき、暖炉の前の毛布の上に銀色の塊がいた。逃げていなかった。むしろ、こちらを見上げて尻尾を一振りした。
「おはよう、狼さん。……脚、どう?」
しゃがんで前脚を確認する。湿布がずれていないか、腫れが悪化していないか。昨日より腫れが引いている。良い兆候だ。
「順調だね。今日もおとなしくしててね」
狼が鼻先を私の手のひらに押し付けてきた。湿った鼻の感触。犬と同じだ。健康な動物の鼻は適度に湿っている。
「はいはい、元気そうで何より」
手のひらを舐められた。ざらりとした舌の感触に、前世の感覚が蘇る。犬に手を舐められるのは挨拶だ。好意の表現だ。
——待ってほしい。この子、野生の狼のはずなのに、なぜ犬みたいな反応をするのだ。
「あなた、人に飼われてた?」
狼が首を傾げる。その仕草がまた犬っぽい。いや、犬というよりもっと——知性を感じる。何かを理解しているような瞳。
昨日から気になっていたのだ。あの罠にかかったとき、唸りはしたが噛みつこうとしなかった。近づいても逃げなかった。処置中もじっとしていた。野生の獣にしては、人間に対する警戒が薄すぎる。
「まあいいか。とにかく治療に専念しよう」
朝食の準備をする。パンの残りは三日前に切れている。今は森で採った木の実と、干した肉の切れ端が頼り。
狼にも肉を分けてやる。皿に置いた瞬間、尻尾がぶんぶん振れた。速い。残像が見える。
「嬉しいのはわかったから、脚に響くよ」
食べ終わった狼が、毛布の上でごろんと横になった。腹を見せている。
……腹を見せている。
野生の狼が。出会って一日で。腹を。
「い、いいの? 触って」
金色の瞳がこちらを見ている。催促している。明らかに催促している。
私は手を伸ばした。銀色の腹の毛に指を沈める。
「もっふ……!」
声が出た。背中よりさらに柔らかい。冬毛なのか、指が根元まで沈む。密度が凄まじい。温かさが手のひらから腕を伝って全身に広がるような錯覚。
「あなた、毛並み良すぎない? 前世でトイプードルのシルクコートに感動したことあるけど、比じゃないんだけど」
狼の尻尾がゆっくり揺れている。気持ちいいのか、それとも褒められて満足しているのか。
そこからの記憶があまりない。
気がつくと、私は床に座り込んで狼の腹に両手を埋めていた。どれくらい経っただろう。太陽の位置が変わっている。
「……はっ」
我に返る。薬草を取りに行かなければならなかったのに。水も汲みに行くはずだった。
「あなたのせいだからね」
狼が「きゅうん」と鳴いた。高い声だ。この巨体から出る声じゃない。反則だ。
仕方なく——本当に仕方なく——もう五分だけ腹を撫でてから、私は立ち上がった。
薬草を摘みに行き、水を汲み、小屋に戻って狼の湿布を交換する。前脚を持ち上げると、狼は顎を毛布に乗せてじっとしている。おとなしい。信じられないほどおとなしい。
「動物病院に来る子でも、ここまで協力的な子は珍しかったよ」
交換が終わると、また腹を見せる。
「さっきやったでしょ」
じっと見つめてくる。
「……五分だけだよ」
結果、三十分が消えた。
夕方。暖炉に火を入れて、狼用の肉のスープを作る。骨を砕いて出汁を取り、細かく刻んだ肉を煮込む。栄養が必要だ。回復期の動物には高タンパク低脂肪の食事が基本。
スープを冷ましている間、ふと思った。
名前を付けなければ。
「ずっと『狼さん』じゃ呼びにくいし」
候補を考える。シルバー? 安直すぎる。ギン? 和風すぎる。この世界の名前っぽいものがいい。
狼が首を上げてこちらを見ている。暖炉の炎が金色の瞳に映り込んで、二つの小さな月みたいに見える。
月——ルナ? いや、男の子だし。ルーン? 悪くないけど。ルーク。
「ルーク」
呼んでみた。狼の耳がぴくっと動いた。
「ルーク。いい名前じゃない? 響きがいい」
もう一度呼ぶと、狼が立ち上がって三本の脚でこちらに歩いてきた。右前脚を浮かせたまま、鼻先を私の膝に押し付ける。
「気に入ってくれた?」
尻尾が振れる。
「よし、今日からあなたはルークね」
ルークが私の手のひらをぺろりと舐めた。前世で名前を付けた保護犬が最初に見せる反応と似ている。名前を呼ばれることで「自分はここにいていい」と感じるのだ。——動物にそこまでの認知があるかは議論が分かれるけれど、私はあると信じている。
スープをルークの前に置く。尻尾全開。がつがつ食べる。食欲があるのは良いことだ。
夜。毛布にくるまって天井を見上げる。隣で丸くなったルークの呼吸音が暗闇に溶けている。規則正しい呼吸。安心して眠れている証拠だ。
私も目を閉じる。
——おかしいな。追放されてから眠りが浅い日が続いていたのに、今夜はやけに瞼が重い。
隣の体温のせいだろうか。もふもふの残り香のせいだろうか。
明日も薬草を替えて、スープを作って、ルークの毛並みに指を沈めて——。
うとうとしながら、一つだけ気になることがあった。
ルークの金色の瞳。あれは獣の目じゃない。何かを考えて、何かを我慢している目だ。
まるで、言いたいことがあるのに言えないような——。
意識が沈んでいく。まあいい。明日考えよう。
今は、もふもふが隣にいる。それで充分だ。




