第18話「群れの掟」
グリムが去った翌朝、ルークは狼に戻っていた。
いつもなら甘えてくる朝だ。胸の上に乗ってきたり、膝に頭を押しつけてきたり。でも今日のルークは窓辺に座ったまま、外を見つめている。尻尾は垂れて動かない。
考えごとをしている。狼の姿でも、ルークの感情は読める。耳の角度、尻尾の位置、呼吸の深さ。前世で覚えた動物の観察が、こういうときに役に立つ。
「朝ごはん、食べる?」
耳だけがこちらに向いた。体は動かない。
パンを焼いて、皿に置く。ルークはしばらくしてからのっそりと近づいて、一口だけ食べて、また窓辺に戻った。食欲がないらしい。
ピートはいつも通り元気だ。私の足の指を甘噛みして起こし、スリッパを咥えて走り回り、朝食を完食した。この子は空気を読まない。でも、それに救われることもある。
昼前にミーナを訪ねた。ルークとピートは小屋に残した。
「グリムが来たんですよね。人の姿で」
「うん。ルークを連れ帰りたいって」
ミーナは薬草を紐で束ねながら聞いていた。手を止めずに、でも耳はこちらに向けて。
「群れの掟、って言ってたんだけど——ミーナさん、詳しく知ってますか?」
「少しだけね」
ミーナが椅子を勧めてくれた。乾燥したカモミールの匂いが漂ってくる。
「狼族には三つの掟がある、とグリムから聞いたことがあるわ」
「グリムから? ミーナさんもグリムと話したことがあるの?」
「ずっと昔にね。私がこの森に来たばかりの頃、薬草を探していてグリムに出くわしたの。追い出されるかと思ったけど、私が狼の怪我を治せるとわかったら態度が変わった。薬師は群れにとっても必要な存在だから」
だからミーナは狼族のことを知っているのか。利害関係で結ばれた信頼。
「それで、三つの掟は?」
「一つ目。群れを離れるな。群れの力は数にある。単独で生きる狼族は弱い」
「二つ目は?」
「人間に姿を見せるな。人化の秘密が外に漏れれば、群れが狩られる。百年前に一度、大きな事件があったらしいわ」
ルークも言っていた。百年前に滅びかけたと。
「三つ目」
ミーナが手を止めた。
「人間に心を許すな」
三つ目の掟が、一番重く響いた。
「ルークは三つとも破ってるってこと?」
「そうなるわね。群れを離れ、あなたに姿を見せ、あなたの傍にいることを選んでいる」
三つの掟。全部。破ったことの重さが、今さらのように胸に落ちてくる。
ルークは軽い気持ちでここにいるわけじゃない。群れの掟を全て破って、兄と対立してまで、この小屋に留まることを選んでいる。
「グリムの気持ちもわかるの」
ミーナが窓の外を見つめる。
「長として群れを守らなきゃいけない。弟が掟を破っているのを見逃せば、他の狼たちに示しがつかない。かといって力ずくで連れ戻せば、弟との関係は壊れる。板挟みよ」
「グリムさん、悪い人——悪い狼じゃないんですよね」
「全然。むしろ、群れの誰よりも優しい子よ。優しいから長をやれている。でも、優しさと責任が噛み合わないときがある。今がそうね」
グリムの背中を思い出す。月明かりの中で扉の外に消えていったあの後ろ姿。大きくて、でも、どこか寂しそうだった。
「私に、何かできることはありますか」
「直接は難しいわね。これはルークとグリムの問題だから。でも——」
ミーナが私の目を見た。
「あなたがルークの傍にいること。それ自体が、ルークの力になってるわよ。間違いなく」
小屋に帰ると、ルークがまだ窓辺にいた。ピートはルークの横で寝ている。
私はルークの隣に座った。床に腰を下ろして、狼の体に背中を預ける形で。銀色の毛並みの温もりが背中に伝わる。
「ミーナさんに聞いてきたよ。群れの掟のこと」
ルークの呼吸が一瞬止まった。すぐに戻る。聞いている。
「三つとも破ってるんだね、ルーク」
返事はない。
「重い選択だったんだね。私のところにいるって決めるの」
ルークが頭を動かして、私の肩に顎を乗せた。重い。温かい。毛先が首筋をくすぐる。
「次の満月に、グリムさんとちゃんと話すんでしょ」
小さく、鼻を鳴らした。肯定。
「私も——何か言わなきゃいけない気がする。グリムさんに。でも、何を言えばいいのかまだわからない」
ルークが体を寄せてきた。いつもの甘え方とは違う。寄り添うような、確かめるような。
窓の外では、月のない夜空が広がっている。星だけが光っている。次の満月まで、まだ時間がある。
その時間で、考えなければ。
ルークが群れに何を返せるのか。グリムが言った言葉。
そして私が——ルークに、何を返せるのか。
ピートが寝返りを打って、むにゃむにゃと小さな声を出した。この子も狼族だ。いつか人になったとき、同じ問題にぶつかるのだろうか。
ルークの体温を背中で感じながら、星を数える。一つ、二つ、三つ——数え切れない。
答えも、まだ数え切れないほど散らばっている。
でも、一つだけ確かなことがある。
この温もりを手放す気は、私にはない。




