第17話「返してもらいたい」
満月の夜が来た。
月が昇り始めると同時に、ルークの体が光を帯びる。銀色の毛並みが人の肌に変わっていく。服を渡して、背を向けて、衣擦れの音を待つ。
「——もういい」
振り向くと、白いシャツのルークが窓辺に立っていた。月明かりを受けた銀髪が青白く光っている。
「ルーク。聞きたいことがあるの」
「グリムのことだろう」
わかっていたらしい。狼の姿のとき、私が考えていることは全部聞こえている。
「グリムは、何をしに来たの」
ルークはゆっくりと椅子に座った。テーブルに肘をついて、自分の手を見つめている。前回より少しだけ距離が近い。でもまだ手は届かない。
「俺を群れに戻したいんだ。ピートも」
「どうして?」
「狼族は群れで生きる。群れを離れた個体は、弱くなるし危険にもさらされる。兄は——群れの長として、全員を守る義務がある」
ルークの声は静かだった。怒りはない。むしろ、兄の立場を理解している声。
「それに、人間と暮らすことを群れは良しとしていない。狼族の存在を知る人間が増えれば、いずれ狩りの対象にされる。兄はそれを恐れている」
狩り。背筋が冷えた。この世界では、狼は害獣として駆除されることがある。狼族が人間に化けられることを知られたら——確かに、ただでは済まない。
「ルークは……どうしたいの」
「ここにいたい」
迷いのない声。前にもこの言葉を聞いた。「ここにいていいか」と聞かれたとき。あれは許可を求める声だったけれど、今のは違う。自分の意思を告げている。
「でも、グリムを無視はできない。兄だから。群れのことも——気にならないと言えば嘘になる」
ルークの手が、テーブルの上で握りしめられている。爪が白くなるほど。
私が何か言おうとしたとき、外から声がした。
低い、太い、人間の声。
「ルーク」
扉の向こうだ。
ルークが立ち上がった。顔から表情が消えている。
「——グリムだ」
扉を開けると、そこに男が立っていた。
大きい。ルークより頭半分は高い。黒に近い灰色の髪を後ろに流して、革の外套を羽織っている。顔立ちはルークと少し似ているけれど、もっと厳しい。眉間に刻まれた皺が、苦労の年月を物語っていた。
グリムの金色の目が、私を見た。
「お前が——ルークを匿っている人間か」
匿っている。その言い方にカチンときたけれど、飲み込んだ。
「匿っているんじゃありません。ルークが自分でここにいると決めたんです」
「弟は判断を誤っている」
グリムが一歩、小屋の中に入った。月明かりが背中を照らしていて、影が長く伸びる。
「ルーク。帰るぞ。ピートも連れて」
ルークは動かなかった。兄の目をまっすぐ見つめ返している。
「帰らない」
「群れを離れてどうする。満月の夜にしか人になれないお前が、人間の世界でどう生きていくつもりだ」
「俺は人間の世界で生きるつもりはない。この森で生きる。ローゼマリーの傍で」
私の名前が出た。グリムの目が鋭くなる。
「人間に情を移すな。百年前にもそうやって狼族が滅びかけた。歴史を忘れたか」
「忘れてない。でも、ローゼマリーは違う」
「何が違う。人間は人間だ」
空気が張り詰めている。二人の間に見えない壁がある。同じ血を分けた兄弟なのに、今この瞬間は敵同士のような緊張感。
ピートが私の足元に隠れている。震えている。この子は争いが苦手なのだ。
「グリムさん」
口を挟んだ。二人の視線が私に集まる。
「お気持ちはわかります。弟さんを心配されているんですよね」
「心配ではない。群れの長としての責任だ」
「それでも——ルークの意思を無視して連れ帰るのは、違うと思います」
グリムが一歩近づいた。見上げる形になる。圧がすごい。人間の姿でも、この人は群れの長なのだと体が理解する。
「人間の女。お前はルークのことを何も知らない。群れの掟も、狼族の歴史も、弟がどれほどの存在かも。知らないまま、傍にいてほしいと願うのは——傲慢だ」
言葉が刺さった。何も知らない。確かにそうかもしれない。私はルークのもふもふが好きで、人間の姿の不器用さが愛おしくて、でも——狼族としてのルークのことは、ほとんど知らない。
反論できなかった。
ルークが私の前に立った。兄と向き合う。
「兄さん。今日は帰ってくれ」
「ルーク」
「話し合う気はある。でも今夜じゃない。次の満月に——ちゃんと話す」
グリムは長い間、弟を見つめていた。何かを見定めるような目。
「……次の満月だ。それまでに考えろ。お前が群れに何を返せるのか」
グリムは踵を返した。扉の外に出て、月明かりの中に消えていく。その背中は大きくて、孤独で、重い責任を背負っている形をしていた。
扉が閉まった後、ルークが息を吐いた。長い、長い息。
「……ごめん」
「なんで謝るの」
「巻き込んだ」
「巻き込まれてないよ。私が勝手にここにいるだけ」
ルークが振り向いた。銀色の目が揺れている。人間の目は正直だ。狼の目より、ずっと。
「ローゼマリー」
「なに」
「——ありがとう」
ピートが私の足元から顔を出した。震えは止まっている。でも尻尾は股の間に巻き込んだまま。
三人で暖炉の前に座った。月が傾くまでの残り時間、誰も何も言わなかった。
でも、ルークの手が——今度は止まらなかった。テーブルの上で、私の手に、そっと触れた。
指先だけ。ほんの一瞬。
それでも——確かに、触れた。




