第16話「兄が来た」
その朝は、空気が違った。
いつもなら寝起きに甘えてくるルークが、窓の外をじっと見つめて動かない。耳は前方、尾は水平。警戒の姿勢だ。ピートはルークの後ろに隠れて、小刻みに震えている。
「どうしたの、二匹とも」
窓の外を覗く。
森の木々の間に、影がある。大きい。ルークよりさらに一回り大きな——狼。
毛色は黒に近い灰色。朝靄のなかに佇む姿は岩のようで、微動だにしない。金色の目だけがこちらをまっすぐ見ていた。
ルークが低く唸った。喉の奥から絞り出すような音。これまで聞いたことのない声。
「ルーク……あの狼、知り合い?」
ルークは答えない。答えられない。でも体の強張り方で十分にわかる。知り合いだ。しかも、会いたくない相手。
私は扉に手をかけた。
「出るよ。ルーク、一緒に来て」
ルークが私の前に出た。盾になるように。私の前を歩いて、扉の外に出る。
朝の冷たい空気が肌を刺す。露を含んだ草の匂いが鼻に届く。
大きな灰色の狼が、ゆっくりと近づいてきた。歩き方に威圧がある。一歩ごとに地面が軋むような重さ。
ルークとの距離が五メートルほどになったところで、灰色の狼は立ち止まった。
二匹が向き合う。銀色と灰色。弟と——兄。
グリムだ。ミーナが話していた。ルークの兄、狼族の長。
グリムがルークに向かって短く吠えた。低い、命令のような声。ルークは動かない。吠え返しもしない。私の前に、壁のように立ち塞がっている。
グリムの視線が、ルークの頭越しに私を捉えた。
金色の目に敵意はない。でも感情を読み取れない。底の深い水面を覗き込んでいるような、そんな目。
「こんにちは」
声が少し震えた。相手は狼族の長だ。礼儀がどうあるべきかわからない。でも、黙っているよりはいい。
「私はローゼマリーです。ルークとピートのお世話をさせてもらっています」
グリムは私の声に耳を傾けている。理解しているはずだ。ルークが言っていた。狼族は人間の言葉がわかると。
グリムが一歩前に出た。ルークの体が硬くなる。
もう一歩。
ルークが歯を剥いた。威嚇。兄に対して牙を見せている。
グリムが立ち止まった。ルークをじっと見つめてから、ゆっくりと後退した。今日のところは踏み込まない、という判断。
灰色の大きな体が、森の木々の間に溶けるように消えていく。最後まで、一度も吠えなかった。
ルークの体からようやく力が抜けた。振り返って、私の顔を見上げる。金色の目が揺れている。
「大丈夫だよ」
頭を撫でると、ルークは私の腰に頭を押しつけてきた。甘えているのとは違う。確かめるように。ここにいる、と確認するように。
小屋に戻って、ピートが隅っこで丸くなっているのを見つけた。震えが止まらない。
「ピート、怖かったね」
抱き上げると、胸にぎゅっとしがみついてくる。爪が服に引っかかるけれど構わない。小さな心臓がどくどくと脈打っているのが、手のひら越しに伝わってきた。
ルークが暖炉の前に座って、扉のほうを見ている。警戒が解けていない。
「ルーク、グリムさんは……何をしに来たの?」
狼のルークは答えられない。次の満月まで聞けない。
でも、予想はつく。
ミーナが言っていた。「ルークの兄。弟が人間と暮らしていることに複雑な感情」。
そしてミーナが以前口にしていた言葉。
「弟を返してもらいたい」。
ルークはここにいたいのだ。私の小屋に。ピートと一緒に。グリムはそれを連れ戻しに来たのだろう。
でもルークは兄の前に立ち塞がって、私を守った。牙まで見せて。
その重さが、じわじわと胸に広がっていく。
昼過ぎにミーナが来た。グリムの気配に気づいたらしい。
「来たのね、グリム」
「はい。朝、小屋の前に」
「何かされた?」
「いいえ。ルークが——守ってくれました」
ミーナが目を細めた。
「そう。ルークがねえ」
「ミーナさん、グリムはどういう狼なんですか」
「群れの長よ。責任感が強くて、仲間を守ることに全力を注ぐ子。悪い狼じゃないわ。でもね——」
「でも?」
「群れの外に出た弟を放っておけないだけ。グリムにとっては、ルークを連れ戻すことが『守る』ことなの」
守る形が違う。グリムは群れに戻すことで弟を守りたい。ルークはここにいることを選んでいる。
どちらも間違っていないから、ぶつかる。
「次の満月に、グリムも人の姿で来るかもしれないわ」
ミーナの言葉が頭に残った。
人の姿のグリムが何を言うのか。「返してもらいたい」を、人の言葉で言われたとき——私は何と答えるのだろう。
夕方、ルークがようやく警戒を解いて横になった。ピートもルークの横で落ち着いている。
暖炉に薪をくべながら、考える。
ルークは自分の意思でここにいる。私が引き留めているわけじゃない。でも、グリムから見れば、人間の女がルークを囲い込んでいるように見えるのかもしれない。
複雑だ。
ルークの寝息が聞こえる。穏やかな呼吸。安心しきった姿。
——この子がここにいたいと思う限り、私はここにいてもらいたい。
でも、それを兄に伝えるのは、私の役目なのか。ルーク自身の役目なのか。
答えは次の満月に持ち越される。




