第13話「人のときの距離感」
満月が来た。
夕方から空が晴れ渡って、月の輪郭が東の空にくっきりと浮かんでいる。ルークは窓辺に座って、じっと月を見つめていた。ピートはルークの隣で丸くなって寝ている。この子には関係ないのだ、まだ。
日が沈む。月が昇る。
ルークの体が光を帯びた。銀色の毛並みが溶けるように変わっていく。何度見ても慣れない。四本の脚が二本になり、背が伸び、耳が丸くなる。
そこに、銀髪の青年が立っていた。
「——ローゼマリー」
低い声。狼のときは聞けない声。人間の言葉で名前を呼ばれると、胸の奥がざわつく。
「はい、服。前に洗っておいたやつ」
目を逸らしながら渡す。人化直後は裸だ。三回目なのにまだ慣れない。慣れてたまるか。
「……ありがとう」
衣擦れの音がして、振り向いていいかどうか迷っていると、ルークのほうから「もういい」と声がかかる。
振り向くと、白いシャツに茶色のズボンという姿のルークがいた。人間の服を着ると、本当にただのイケメンに見える。銀髪だけが人間離れしていて、月明かりの中でやけに目を引く。
ピートが目を覚ました。人間の姿のルークを見上げて、首を傾げている。それから匂いを嗅いで、尻尾を振った。姿が変わっても匂いでわかるらしい。
「ピートが来てたんだな」
「五日前から。どうして来たのか、ルークはわかる?」
ルークは少し黙って、窓の外を見た。
「群れで揉め事があった。大したことじゃない。ピートが怖がって逃げてきただけだ」
大したことじゃない、と言うわりに目が笑っていない。聞いていいのかどうか判断がつかなくて、私は話題を変えた。
「お腹空いてない? シチュー作ったんだけど」
「……食べる」
テーブルに向かい合って座る。狼のときは床で食べているルークが、椅子に座ってスプーンを持っている。その光景がどうにもおかしい。
ルークがシチューを口に運んだ。一口、二口。
「……うまい」
「本当?」
「ああ」
狼のときは丸呑みにするくせに、人間のときはちゃんと味がわかるらしい。ミーナが言っていた通りだ。
スプーンを置いたルークが、テーブルの上に手を伸ばしかけて——止めた。何かを取ろうとしたわけではない。私の手がそこにあって、無意識に伸ばしかけて、途中でやめる。そんな動き。
狼のときなら、鼻先を押しつけてくる。膝に頭を乗せてくる。お腹を見せる。触れることにためらいがない。
でも人間のルークは違う。
触れない。近づかない。目が合うと逸らす。声も小さくなる。一メートル以内に入ろうとしない。
距離がある。明確に。
「ルーク」
「何だ」
「狼のときと人のときで、そんなに違うものなの」
聞いてしまってから、失敗したと思った。答えにくいことを聞いた。
ルークは長い間黙っていた。スプーンでシチューの表面をなぞるような仕草をして、ようやく口を開く。
「——狼のときは、考えなくていい」
「考えなくていい?」
「触りたければ触る。眠ければ眠る。それだけだ。でも人の形になると、いろいろなことが——頭に浮かぶ」
ルークの銀色の目が、一瞬だけ私を捉えて、また逸れた。
「近づきすぎたら迷惑じゃないかとか。触れたら嫌がられないかとか。人間の距離感が、よくわからない」
正直で、不器用な言葉。
前世で動物の行動学を少しだけかじった。犬や狼は感情に素直で、好きなら近づくし嫌なら離れる。迷わない。でも人間は違う。好きでも離れるし、嫌でも笑う。感情と行動の間にワンクッションが入る。
ルークは今、そのワンクッションに戸惑っている。
「迷惑じゃないよ」
言葉が勝手に出ていた。
「狼のときに膝に頭乗せてくるの、私は好きだし。人のときだって、別に——」
途中で自分が何を言おうとしているか気づいて、口を閉じた。
沈黙。
ピートが足元でくうくう寝息を立てている。暖炉の薪が小さく爆ぜた。
「……別に?」
ルークが聞き返す。ずるい。そこを拾うな。
「なんでもない」
「なんでもなくないだろう」
「なんでもないの」
ルークが——笑った。人間の顔で笑うのを見たのは初めてかもしれない。口角がわずかに上がっただけの、控えめすぎる笑み。
「わかった。なんでもないなら、いい」
でもその声は、少しだけ柔らかくなっていた。
食事の後、ルークは窓辺に座って月を見ていた。私はテーブルで薬草の仕分けをしている。ピートは相変わらず寝ている。
同じ部屋にいるのに、一メートルの距離は縮まらない。
——でも、さっきよりは少しだけ近く感じる。
声のトーンが変わっただけで、空気が変わる。人間って面倒くさい生き物だなと、前世の記憶が苦笑している。
月が傾き始めた頃、ルークが静かに言った。
「明日の朝には戻る。狼に」
「うん、知ってる」
「戻ったら、たぶん——膝に頭を乗せる」
「……どうぞ」
「迷惑じゃないんだろう」
「——うん」
月明かりの中で、ルークの横顔がやけに綺麗に見えた。銀色の睫毛が光を受けて、瞬きのたびに影が揺れる。
明日になれば、この人はまたもふもふの狼に戻る。膝に頭を乗せてきて、お腹を見せて、尻尾を振る。距離感なんて考えずに。
どっちがいいんだろう、と思った。
答えは出ない。出さなくていい、今は。




