第12話「ピートは甘噛みする」
ピートが小屋に居着いて五日が経った。
結論から言うと、この子は甘噛みの天才だ。
朝、起きると足の指を噛まれている。痛くはない。歯を当てているだけ。でも起きる。確実に起きる。目覚まし時計より正確で、しかもスヌーズ機能がない。
「ピート、まだ暗いんだけど……」
噛む。やめない。尻尾を振りながら噛む。
仕方なく起き上がると、今度はスリッパを咥えて逃げていく。追いかけると喜ぶ。追いかけないと戻ってきてまた噛む。どちらにしても私の負けだ。
ルークはこの光景を暖炉の前から眺めている。助ける気はないらしい。むしろ、ぼんやり尻尾を揺らしていて——笑ってる。狼の顔で笑ってる。わかるのよ、もう一緒に暮らして長いんだから。
朝食の支度をしていると、ピートが足元にまとわりつく。動くたびに踏みそうになる。前世の動物病院でも、こういう子犬がいた。飼い主さんの足元から離れなくて、何度注意しても直らなくて、でもそれがかわいいからみんな怒れなかった。
「はいはい、おすわり」
試しに言ってみる。ピートはきょとんとしている。そりゃそうだ、人間の言葉を——
座った。
「え」
ぺたんと腰を下ろして、こちらを見上げている。目がきらきらしている。「褒めて」と全身で言っている。
「すごいね、おすわりできるの!?」
頭を撫でると、嬉しさのあまり跳ね上がって私の手を甘噛みした。褒めたら噛む。反射のような速さ。
ルークも「おすわり」と「お手」ができる。狼族は人間の言葉を理解しているのだと、満月の夜にルークが教えてくれた。狼の姿のときは喋れないだけで、聞こえているし意味もわかっている。
つまりピートも、私の言葉を全部聞いている。
「かわいいねえ」も「もう一匹ルークが欲しい」も「ルークの毛並みは最高級」も全部。
……恥ずかしいことを言った覚えはない。たぶん。おそらく。
昼過ぎ、ミーナが焼き菓子を持ってきてくれた。この前約束したのは私が焼き菓子を持っていくほうだったのに、逆になっている。
「あなた、お菓子作れるの?」
「……前世では電子レンジがあったので」
「でんしれんじ?」
「なんでもないです」
ミーナの焼き菓子はバターの香りが豊かで、生地がほろほろ崩れる。口に入れた瞬間の甘さが鼻に抜けて、追放後で一番幸せな瞬間かもしれない。
「おいしい……」
「でしょう。森のバターは街のより脂が濃いのよ」
ピートがミーナの膝に前脚を乗せて、菓子を狙っている。
「だめよ、ピート。これは人間の食べ物」
ミーナが軽く鼻先を押し返すと、ピートはミーナの指を甘噛みした。
「あいたた。この子、相変わらずね」
「甘噛み、昔からなんですか?」
「生まれたときからよ。群れの大人たちにも噛みついて、最初は怒られてたんだけど、途中からみんな諦めたの。噛まれてもちっとも痛くないし、この子なりの愛情表現みたいなものだから」
愛情表現。
言われてみれば、ピートが噛むのは好きな相手だけかもしれない。テーブルの脚は噛まない。椅子も噛まない。噛むのは私と、ルークと、ミーナ。
ルークがのっそり近づいてきて、ミーナの菓子の匂いを嗅いだ。
「あんたも食べたいの?」
ミーナが一欠片をルークの前に置く。ルークは一口で飲み込んだ。やっぱり味わっていない。
「ルークは昔からこうよ。食べ物に興味が薄いの。狼のときは特にね」
「人のときは違うんですか?」
「さあ。最近は私のところに人の姿で来ないから。あなたのところにしか行かないんでしょう?」
ミーナが意味ありげに笑う。何のことだかわからないふりをした。わかっている。わかっているけど、認めるのはまだ早い。
夕方、ミーナが帰った後。
ピートが私のスカートの裾を咥えて引っ張る。外に行きたいらしい。
「散歩?」
尻尾が回る。肯定。
三人——もとい一人と二匹で夕暮れの森を歩く。ピートは先頭を走り、立ち止まり、戻ってきて私の手を甘噛みし、また走っていく。ルークは私の横を静かに歩いている。
夕日が木々の間から射し込んで、足元の枯れ葉がオレンジ色に染まっている。風が吹くたびにルークの銀毛がふわりと揺れて、思わず手を伸ばしてしまう。
もふ。
ルークは何も言わない。言えない。でも歩調が少しだけゆっくりになる。
ピートが戻ってきて、私のもう片方の手を噛んだ。右手にルーク、左手にピート。
——これは、すごく贅沢なもふもふじゃないだろうか。
伯爵令嬢時代には得られなかった幸福がここにある。社交界の煌びやかなドレスより、銀と灰色の毛並みのほうがずっといい。
ピートが甘噛みの力をほんの少し強くした。「こっちも見て」と言われている気がする。
「はいはい、見てるよ」
見てる。ちゃんと見てるから、噛まなくていいんだよ。
——噛まれても、まあ、嫌じゃないけど。




