第10話「薬師の隣人」
森の小屋で暮らし始めて二十日ほどが経った。
朝起きて、ルークにおはようと言う。ルークは尻尾を振る。朝食のパンを焼いて、端っこをルークにあげる。ルークは丸呑みにする。もう少し味わって食べてほしい。
そんな日々が、当たり前になりつつある。
今日の予定は薬草の補充。ルークの怪我に使った軟膏がそろそろ底をつく。前世の動物病院では薬が棚に並んでいたけれど、ここでは自分で調達しなければならない。
森の東側に薬草が群生している場所があることは、地図に書いてあった。追放されたとき、領主が最低限の生活物資と一緒にくれたもの。「二度と戻ってくるな」と言いながら地図を渡してくるあたり、この領主は根っからの悪人ではないのだろう。
ルークを連れて森の小道を歩く。銀色の毛並みが木漏れ日を受けて、ところどころ白く光って見える。狼というよりは大型犬のような足取りで、私の少し前を歩いては振り返る。
「待ってるから、そんなに急かさないで」
返事の代わりに鼻先で私の手を押してきた。湿った鼻の感触が手のひらに残る。
薬草の群生地に着いて、しゃがみ込んで葉を摘み始めた。すると、茂みの向こうから声がした。
「あら。お客さんかしら」
顔を上げると、籠を抱えた女性が立っている。
三十代くらいだろうか。赤みがかった茶色の髪を一つに束ねて、袖をまくった腕には擦り傷がいくつかある。足元は泥だらけの革靴。生活感がにじみ出ていて、どこか安心する佇まいだった。
「あなた、最近越してきた子ね? 領主様に追い出された伯爵令嬢って噂を聞いたわ」
噂が早い。
「はい。ローゼマリーです」
「私はミーナ。この森で薬師をやってるの。あなたの小屋から歩いて十五分くらいのところに住んでるから、隣人ってことになるわね」
十五分で隣人。都会の感覚とはだいぶ違う。でも、この森では確かに一番近い人間だった。
ミーナは私の籠を覗き込み、「あらあら」と声を上げる。
「この摘み方だと茎ごと抜いちゃってるわ。薬効があるのは葉だけよ、この品種は」
「え、そうなんですか」
「ほら、こうやって——」
ミーナが手本を見せてくれる。葉の付け根をつまんで、くるりとひねるようにして取る。断面から青臭い匂いが立ち上った。前世で嗅いだドクダミに似ている。
「ありがとうございます。薬草のこと、全然わからなくて」
「見よう見まねでやってたの? 度胸はあるわね」
褒められたのか呆れられたのか判断がつかない。
ミーナの手元を見ながら摘み方を覚えていると、ルークが茂みからのっそりと顔を出した。
一瞬、身構える。ミーナに狼がいることを説明していなかった。普通なら悲鳴を上げるか逃げるかだと思う。
ところが、ミーナは目を細めただけだった。
「ルークじゃない。元気にしてた?」
ルークの名前を知っている。
「え——ミーナさん、ルークをご存じなんですか」
「ご存じも何も、この子が子狼の頃から知ってるわよ。たまに怪我して私のところに来てたの。勝手に治って帰っていくから手がかからない子よね」
ミーナはルークの顎の下を撫でた。ルークは目を細めている。初対面の人間にはもっと警戒すると思っていたのに、完全にリラックスしている。
「あなた、この子が満月の夜にどうなるか、もう知ってるのよね?」
心臓が跳ねた。
「——知ってます」
「そう。なら話が早い」
ミーナは立ち上がり、スカートについた土を払う。
「狼族のことを知っている人間は、この森には私くらいしかいないの。困ったことがあったら相談しにいらっしゃい。ルークのことも、薬草のことも」
何か聞きたいことが山ほどあるはずなのに、すぐには言葉が出てこなかった。追放されてからずっと、ルークと二人きり——いや、一人と一匹きりだった。人間と普通に会話するのが、少しだけ久しぶりで。
「……ありがとうございます」
「お礼はいいわ。その代わり、今度うちに来るとき焼き菓子でも持ってきて。一人で食べるの飽きたのよ」
ミーナはひらひらと手を振って、茂みの向こうに消えていった。
残されたルークが、ミーナが去った方向をじっと見つめている。尻尾は穏やかに揺れていた。
「ルーク、ミーナさんのこと好きなの?」
返事はない。狼だから当然だけど。
でも、尻尾の揺れ方を見れば答えはわかる。
籠いっぱいに薬草を摘んで、小屋に帰る。ルークはまた私の少し前を歩いて、ときどき振り返る。
——この森には、味方がいる。
そのことが、薬草の青臭い匂いと一緒に胸の奥にしみ込んでいった。




