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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼


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第9話「夜は無口」

四度目の満月がきた。


月光がルークを包み、骨格が軋み、銀色の毛並みが消えて——人が現れる。回を重ねるたびに変身の時間が短くなっている。今回は二十秒ほどだった。


「服、棚の上」


「……ああ」


低い声。短い返事。服を取って、ボタンを一つずつ留める。今回の服は二着目に縫ったもので、袖の長さも肩幅もほぼ合っている。我ながら上達した。


「サイズどう?」


「いい」


「どこかきつくない?」


「ない」


「本当?」


「本当だ」


——会話が続かない。


三回目の満月でもそうだった。昼間あれだけ甘えて、枝を投げてもらって大喜びして、腹を見せて尻尾をぶんぶん振っていた同じ存在が、人になった途端これだ。


無口。ぶっきらぼう。目を合わせない。耳が赤い。


「ルーク。座って。スープ温めてあるから」


ルークが暖炉の前に座った。背筋が伸びている。正座に近い座り方。狼のときはだらしなく伸びていたのに。


器を渡す。両手で包んで、ふうと息を吹きかけてから一口。


「……美味い」


「ありがとう。今日は鹿の骨を長めに煮たの」


「わかる。深い」


「味の違いわかるんだ」


「人の舌は繊細だ」


これが限界だ。食べ物の話なら少しだけ饒舌になる。でも食べ物以外になると途端に黙る。


「ねえ、ルーク」


「何だ」


「昼間、枝投げ二十三回やったの覚えてる?」


ルークの手が止まった。器を持ったまま固まっている。耳の先が赤い。


「……覚えている」


「楽しかった?」


「…………」


長い沈黙。暖炉の薪がぱちりとはぜた。


「楽しかった」


消え入りそうな声。人のときのルークは、感情を言葉にするのが本当に苦手だ。


「腹を撫でてもらったのは?」


「——それは」


「四十分くらい撫でてたけど」


「やめろ」


「途中で寝てたよね。いびきかいてた」


「やめてくれ」


顔が真っ赤だ。銀髪の下で耳から首筋まで赤い。スープの器で顔を隠そうとしているが、器が小さくて隠れていない。


「可愛い」


「——可愛くない」


「可愛いよ。昼も夜も」


ルークが器を置いた。目を逸らして、壁の方を見ている。横顔が暖炉の光で影を作る。喉仏が動いた。何かを飲み込んだのか。


「昼の俺は——その。狼の本能が強く出る」


「知ってる」


「甘えるのは、群れの仲間にする行為で——」


「知ってるよ。犬もそうだもん」


「犬と一緒にするな」


「カニス・ルプスの——」


「やめろ」


お決まりのやりとり。でも今日のルークは、いつもより何か言いたそうだ。口を開きかけてはやめ、やめてはまた開きかける。


「……何?」


「昼の俺が甘えるのは」


「うん」


「本能だけじゃない」


暖炉の火がゆらりと揺れた。


ルークが膝の上で拳を握っている。爪が手のひらに食い込むくらい、きつく。


「人のときでも——甘えたいと思う。ときどき」


沈黙が落ちた。薪の燃える音と、窓の外の虫の声だけが聞こえる。


「でも、人の体では——どうしていいかわからない」


「どうって?」


「狼のときは——近づけばいい。顔を押し付ければいい。尻尾を振ればいい。でも人の体で同じことをしたら——おかしいだろう」


ルークがようやくこちらを見た。金色の瞳。真剣な、でも少し怯えたような目。


「人間は——どうやって甘えるんだ」


私の心臓が喉まで跳ね上がった。


この人は今、真面目に聞いている。狼として生きてきた存在が、人の体で感情を表す方法を知らなくて、私に尋ねている。


前世の記憶が走る。動物病院で、野良犬が人の手に触れたときの反応。最初は硬直して、次に恐る恐る尻尾を振って、最後にようやく体を預けてくる。信頼のプロセスは種が違っても同じだ。


「人間はね」


声が震えないように気をつけた。


「隣に座るの。今みたいに」


「座ってる」


「うん。それで——手を伸ばして」


自分の手を差し出した。手のひらを上にして。


ルークが見ている。手を。私の手を。


ゆっくりと、ぎこちなく、ルークの手が伸びてきた。大きな手だ。狼の前脚の力強さがそのまま人間の骨格に移っている。指が長い。


手のひらが、手のひらに触れた。


「……お手」


ルークが呆然とした顔をした。


「冗談。でも、こうやって手を重ねるのが、人間の甘え方の一つだよ」


ルークの手が熱い。狼のときの体温と同じだ。体の芯が温かい存在なのだ。


「もう一つは、隣に寄りかかること」


「寄りかかる」


「うん。肩とかに。重心を預けるの」


ルークが動かない。理解はしているが、実行に移せないでいる。人の体は自由度が高すぎて、狼のときのように本能に任せられないのだろう。


「無理しなくていいよ。ゆっくりで」


「…………」


ルークが視線を暖炉に戻した。手はまだ重なったままだ。


一分ほど経って——ほんの少しだけ、ルークの体が傾いた。肩が私の肩に触れた。体重の一割くらい。遠慮がちな寄りかかり。


「——重いか」


「全然」


「もう少し」


体重が二割に増えた。肩と肩が密着する。銀髪が私の頬の近くにある。ルークの匂いがする。森と、風と、焚き火の煙の匂い。


「こうか」


「そう。上手」


「……犬の訓練みたいに言うな」


「ルプスの——」


「やめろ」


二人で暖炉を見ている。肩が触れている。手が重なっている。


昼はもふもふの狼が全身で甘えてくる。夜はイケメンの青年が肩一つぶんの距離を縮めるのに一分かかる。


「ルーク」


「何だ」


「昼のあなたも、夜のあなたも、好きだよ」


ルークの肩に力が入った。一瞬だけ。そしてゆっくり抜けていく。


「……ありがとう」


「お礼はいらない。感想だから」


窓の外で月が傾き始めている。あと数時間で朝が来る。ルークは狼に戻って、また甘えん坊に戻る。


でも今夜のこの肩の温もりを、狼のルークも覚えているだろう。人の体で初めて甘えた夜を。


「ルーク。一つ聞いていい?」


「ああ」


「群れのこと。お兄さんはまだ怒ってる?」


ルークの肩が少し硬くなった。


「怒ってはいない。心配している。——俺が人間に騙されていると思っている」


「騙してないよ」


「わかっている。だが兄貴は——人間を信用していない。昔のことがある」


「昔のこと?」


「それは——次に話す」


「また先送り?」


「長い話だ。月が沈む前に全部は話せない」


「じゃあ次の満月ね。約束」


ルークが小さく頷いた。肩がまだ触れている。手がまだ重なっている。


夜が更けていく。暖炉の火が小さくなっていく。


「ローゼマリー」


「ん?」


「——いや、何でもない」


「何でもなくないでしょ。言いかけたなら言って」


「…………明日の朝、また甘えると思う」


「知ってる」


「嫌じゃないか」


「全然。もふもふ大好き」


「……もふもふじゃない方も、甘えていいか」


心臓がうるさい。狼の聴覚でも聞こえているかもしれない。いや、今は人だから聞こえないか。いや、待って。


「——いいよ」


声が裏返った。少しだけ。ルークは気づいただろうか。


ルークの肩の体重が三割に増えた。


窓の外の月が少しずつ西に傾いていく。朝が来れば、この不器用な青年はまた銀色のもふもふに戻る。全力で甘えて、枝を持ってきて、腹を見せて尻尾を振る。


でも今夜の「甘えていいか」は、尻尾では言えなかった言葉だ。


人の声でしか伝えられない想いが、きっとある。


月が沈むまで、もう少しだけこのままで。

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