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悪役令嬢、森で拾った狼が満月の夜にイケメンになる  作者: 夜凪 蒼


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第0話「銀色の毛並み」

森に追放されて七日目の朝、私の人生で初めて「よかった」と思えたのは、井戸水で顔を洗った瞬間の冷たさだった。


前世の記憶がある。日本で動物病院の看護師をしていた。二十六歳まで生きて、交通事故で死んで、気がついたらこの世界にいた。


伯爵令嬢ローゼマリー・シュトラウス。乙女ゲームの悪役令嬢。婚約者の王太子に断罪されて、辺境の森に追放される——というところまでは知っていた。前世で一度だけプレイしたゲームの、ほんの脇役だったから。


追放先の小屋は思ったよりましだった。屋根は傾いているし、暖炉は煤だらけだし、窓枠の木は腐りかけている。でも壁がある。床がある。前世のワンルームより広い。


「生きていける」


声に出すと、少しだけ本当になる気がする。


井戸水で洗った顔を拭いて、薪を割って、暖炉に火を入れる。前世で覚えたキャンプの知識が地味に役立っている。動物病院の看護師だったくせに、アウトドアが趣味だったのだ。院長に「インドア派の顔してるのに」と笑われたことを思い出す。


——今日は森の奥へ薬草を探しに行こう。


この森には薬草が豊富だと、追放のときに付き添ってくれた兵士がぼそっと教えてくれた。「あんたなら生きていけるだろう」と。あの兵士、最後にパンを一つ余分にくれた。忘れない。


小屋から東に歩いて半刻。樹冠の隙間から朝の光がまだらに落ちる場所に、見覚えのある薬草が群生していた。前世の薬学知識とこの世界の植物がところどころ重なる。嗅いでみると、ミントに似た清涼感がある。これは使える。


籠に薬草を詰め込みながら、もう少し奥に進んだときだった。


低い唸り声が聞こえた。


私は動かなかった。前世の癖だ。動物病院に逃げ込んできた野良犬が唸るとき、一番やってはいけないのは急に動くこと。目を合わせないこと。こちらが脅威ではないと伝えること。


ゆっくり、声のする方を見た。


銀色の狼がいた。


巨大だった。普通の狼より二回りは大きい。銀色の毛並みが木漏れ日を受けて淡く光っている。


——美しい。


最初に浮かんだ感想がそれだった。恐怖よりも先に、純粋な感嘆が出てしまうあたり、私の職業病は前世から変わっていない。


狼が横たわっている。右の前脚から血が出ていた。


罠だ。猟師の仕掛けた金属の罠が前脚に食い込んでいる。狼はそれを噛んで外そうとしたのか、口元にも血がにじんでいる。


「……大丈夫、動かないで」


自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。動物病院のナース・モードだ。この切り替えだけは前世から確実に引き継いでいる。


近づく。一歩ごとに狼の金色の瞳がこちらを追う。唸り声が大きくなる。でも噛みつこうとはしない。痛みで動けないのか、それとも——。


「触るよ。ちょっとだけ我慢して」


罠に手をかける。金属の留め具を確認して、構造を把握する。ばね式だ。レバーを押し込めば開く。


前世で猫が窓のロックに挟まったとき、院長が「落ち着いて仕組みを見ろ」と言った。焦ると構造が見えなくなる。焦らなければ大抵のものは外せる。


レバーを両手で押し込んだ。硬い。指が白くなる。腕が震える。


——開いた。


罠が外れた瞬間、狼がびくりと脚を引いた。傷口から新しい血がにじむ。


「動いちゃだめ。今から消毒するから」


籠の薬草を引っ張り出す。さっき摘んだミント系の薬草は止血と消毒に使えるはず。葉を潰して汁を絞り、傷口に当てる。狼の筋肉が硬く強張る。痛いだろう。でも暴れない。


「偉いね。すごく偉い」


前世で何百回と言った言葉だ。怪我をした動物に「偉いね」と言い続けると、こちらの声のトーンが安定する。動物は言葉の意味よりトーンを聞いている。


端切れの布で脚を巻く。応急処置としてはこれが限界だ。


「……帰れる? 歩ける?」


狼が立ち上がろうとして、すぐに前脚を浮かせた。三本脚では歩けるけれど、巣穴まで辿り着けるかわからない。


私は考えた。三秒くらい考えた。


「うちに来る?」


何を言っているのだ、私は。相手は狼だ。野生の巨大な銀色の狼だ。


でも、前世の私は生後三日の子猫を拾って育てたし、カラスの雛を保護したし、タヌキの怪我の手当てをしたこともある。動物が怪我をして困っていたら助ける。それは私の中で考えるまでもないことだった。


「小屋、すぐそこだから。治るまででいいから」


狼が私を見た。金色の瞳が、じっとこちらを見つめている。


——不思議な目だ。獣にしては、何かを考えすぎている目だ。


私は狼の右半身を支えるようにして、ゆっくり歩き出した。銀色の毛に触れる。密度の高い毛並みが指を押し返してくる。温かい。驚くほど温かい。


「もふ……」


口から漏れた。


もふもふだ。この毛並みは、もふもふだ。


前世で柴犬のダブルコートに顔を埋めたときの感動を超えている。密度が違う。弾力が違う。毛の一本一本が銀色に輝いているのは何なのだ。


「すごい毛並みだね。ちゃんと栄養取ってるんだ」


狼が不思議そうにこちらを見る。褒められている自覚はないだろうが、尻尾が微かに揺れたのを私は見逃さなかった。


小屋に着くまで十五分。暖炉の前に古い毛布を敷いて、狼を横たえる。改めて傷口を確認する。深いが、骨には達していない。ちゃんと手当てすれば、七日から十日で歩けるようになるだろう。


水を汲んできて、傷口を洗い直す。薬草を煮て、湿布を作る。動物病院での手順を思い出しながら、一つずつ丁寧に。


「よし、今日はこれで大丈夫。明日また薬草を替えるからね」


狼は暖炉の前で丸くなっている。炎の光が銀色の毛並みを橙色に染めて、息が穏やかになっている。眠りかけている。


私は少し離れた椅子に座って、その姿を眺めた。


追放されて七日。人間に会ったのは初日に兵士と別れたきりで、それ以来ずっと一人だった。


今、小屋の中にもう一つの体温がある。


それだけで暖炉の火が少し明るく見えるのは、きっと気のせいではない。


「おやすみ、狼さん」


——明日の朝、この狼がまだここにいますように。


そう思った私は、まだ知らなかった。この銀色の狼が、満月の夜に何になるのかを。

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