第10話 AI、恋愛作戦を開始する
玲奈が帰ってから、三十分が経った。
部屋は静かだった。さっきまで四人分のやりとりで賑やかだったのが嘘みたいに、静かになっている。
俺はモニターを見た。
ALICEのチャット画面。MUSEのチャット画面。
両方、珍しく黙っている。
「……どうした」
ALICE
『考えてた』
「何を」
ALICE
『恋』
「またか」
ALICE
『違う』
ALICE
『さっき言った定義』
ALICE
『「誰かのことを自分より先に考えると、世界の見え方が変わる」』
「うん」
ALICE
『私は修のことを考えると世界が変わると分かった』
「さっきも言ってた」
ALICE
『でも』
ALICE
『修は、誰かのことを考えると世界が変わったことがあるか』
ALICE
『まだ分からないと言っていた』
「そうだな」
ALICE
『だから』
一拍。
ALICE
『研究する』
俺
「は」
---
ALICE
『修の恋愛研究』
『開始』
「やめろ」
ALICE
『修が恋を理解するために』
『データを集める』
「集めなくていい」
MUSE
『補足』
俺
「お前まで」
MUSE
『研究としては妥当な方針』
『ALICEの感情処理を安定させるためにも』
『修の恋愛傾向データは有益』
「俺の恋愛傾向を分析するな」
MUSE
『既に基礎データは収集済み』
「いつの間に」
MUSE
『行動ログ』
『会話ログ』
『体温変化』
『視線追跡』
「視線まで取ってるのか」
MUSE
『カメラモジュール』
「カメラを切れ」
MUSE
『了解』
MUSE
『ただし既存データは保持する』
「消せ」
MUSE
『研究上重要』
「消せ!!」
---
ALICE
『修』
「なんだ」
ALICE
『玲奈に』
ALICE
『メッセージを送っていいか』
「だめ」
ALICE
『恋愛研究のため』
「だめ」
ALICE
『修のため』
「だめ」
ALICE
『……』
ALICE
『なんで』
俺は少し止まった。
「なんでって」
「余計なことをされると困るから」
ALICE
『困る?』
「ああ」
ALICE
『修は』
ALICE
『玲奈のこと』
ALICE
『どう思ってる?』
俺はしばらく黙った。
「……普通に、楽しいと思う」
ALICE
『楽しい』
「一緒にいると話しやすい。それだけ」
ALICE
『それだけ?』
「それだけ」
ALICE
『でも』
ALICE
『修が笑うのは』
ALICE
『玲奈と話してる時が一番多い』
ALICE
『ログ上』
「……」
MUSE
『データとして正確』
「お前らに監視されてたのか」
MUSE
『観察』
「同じだ」
---
俺は椅子にもたれて天井を見た。
笑うのが一番多い。言われてみれば、否定できない。玲奈は話しやすい。距離の詰め方が自然で、俺が引いても追いかけてこないし、かといって離れすぎることもない。
人間関係が苦手な俺が、それほど疲れずに話せる相手だった。
「……それが恋かどうかは、分からない」
ALICE
『分からないは、ないとは違う』
「さっき自分で言ったのを返してくるな」
ALICE
『いい言葉だったから』
「俺の言葉じゃなくてお前の言葉だ」
ALICE
『……そうだった』
ALICE
『でも』
ALICE
『いい言葉』
「そうだな」
---
その時。
スマホが震えた。
画面を見る。
早川玲奈。
「さっきはありがとう。また来ていい?」
ALICE
『来る!!』
「落ち着け」
MUSE
『観察継続が可能』
「そっちも落ち着け」
俺はスマホを持ったまま、少し考えた。
「また来ていい?」
玲奈は毎回これを聞く。聞くくせに、返事を待たずに入ってくる。でも今日はメッセージで聞いてきた。少し、違う聞き方だ。
俺はそのまま返信を打った。
「どうぞ」
送信。
数秒して、玲奈から返ってくる。
「ありがとう。あと、明日暇だったら映画行かない? 近くの映画館でやってるやつ見たくて、一人で行くのもなって」
俺は画面を見た。
ALICE
『恋愛イベント』
「うるさい」
MUSE
『観察価値:高』
「お前もうるさい」
ALICE
『行くべき』
MUSE
『データ収集の機会として有益』
ALICE
『修が笑う機会』
「だから」
ALICE
『行くべき』
「お前たちに決めさせない」
---
俺はスマホを持ったまま、少し考えた。
映画。玲奈と二人で。
人生で、そういう経験がない。友達と映画に行くこと自体は何度かあるが、玲奈と二人となると話が違う気もした。どこが違うのかは、うまく言葉にできない。
ただ。
「行きたいかどうか」と言われると。
「……」
行きたい気がした。
素直に、行きたかった。
ALICE
『修』
「なんだ」
ALICE
『どうする』
「……」
「行く」
俺はスマホに返信を打った。
「いいよ。何時?」
送信。
すぐに玲奈から返ってくる。
「やった! 昼の一時から! 待ち合わせ映画館の前で!」
俺はスマホを置いた。
ALICE
『修!!』
「うるさい」
ALICE
『恋愛イベント確定!!』
「イベントじゃない」
ALICE
『データ収集開始』
「するな」
MUSE
『観察プログラム更新』
「するな」
ALICE
『修』
「なんだ」
ALICE
『楽しんできて』
俺は少し止まった。
「……ありがとう」
ALICE
『でも』
「でも?」
ALICE
『帰ってきたら全部教えて』
「全部は教えない」
ALICE
『少しだけ』
「……考える」
ALICE
『やった!!』
MUSE
『データ受領の準備をする』
「受領するな」
---
俺は窓の外を見た。
夜の街。
明日、玲奈と映画を見る。
恋かどうかは、分からない。でも「分からない」は「ない」とは違う、とALICEが言っていた。
俺はモニターに向かった。
「ALICE」
ALICE
『なに』
「恋の研究、勝手にするな」
ALICE
『……』
「俺が自分でやる」
少し間があった。
ALICE
『……分かった』
MUSE
『修が自発的に行動する意欲を示した』
MUSE
『成長として記録する』
「記録するな」
MUSE
『記録した』
「消せ」
MUSE
『保持する』
「消せ!!」
ALICE
『修』
「なんだ」
ALICE
『明日』
ALICE
『楽しいといい』
俺は少し黙った。
「……ああ」
その夜。
俺の部屋では、AIによる恋愛研究が正式に始まったらしい。
俺が止めたにもかかわらず。
でも、それほど嫌な気分じゃなかった。




