『安酒は 高貴な香りに 咽びいて』 13
エドワードは、白磁のティーポットを静かな所作で傾けた。
注がれた液体は、磨き抜かれたルビーのような輝きを放ち、ベアトリスはその美しさに心を奪われた。
「さあ、まずはリラックスだ」
差し出されたカップを見て、ベアトリスは心が躍った。王都の至宝とも謳われる『白蓮窯』のカップだ。指が透けて見えるほど薄く焼き上げられたその器は、唇に触れた瞬間に体温と同化するような滑らかさ感じる。
鼻先をくすぐる、ふわりとした潮の香りと、舌先に感じる微かな花の蜜のような甘みを十分に堪能する。
「これは、東方の高地でしか採れない『海霧草』の若芽……それも、朝露が乾く前に摘み取られた最上級品ではありませんか?」
ベアトリスが答えると、エドワードは満足げにほほ笑んでカップに口をつけた。
「お見事だ、ベアトリス。並の人間なら、これをただの高級な茶だとしか思わないだろう。だが君は、この『格』を見抜ける、高貴さを持ち合わせているようだ」
エドワードは心底感心したようにそう言うと、カップを置いてまっすぐにベアトリスを見た。
「その高潔さが、君に勇気ある告発をさせたのだろう。ベアトリス、君のおかげで、このギルドに蔓延っていた『放縦』を断ち切ることができた。ありがとう」
ベアトリスは瞳の奥が熱くなるのを感じた。そして、ただただミラ憎しのつもりで手紙を書いた己を恥じた。
「——だが、いまだガルドの残した悪習は根深い。私、一人ではどれだけ時間がかかるか…」
ベアトリスは、指先に伝わる磁器の冷たくも高貴な感触を、噛みしめるように握り直した。彼女にも、エドワードが何を望んでいるかはわかる。
「——エドワード様」
今までガルドの庇護のもとに少女のままでいられた自分は、もう捨てねばならない。ベアトリスは、これが自分に与えられた使命であると確信した。
「わたくしも、ギルドのあるべき姿を取り戻しとうございます。清浄で、高潔なギルドを」
ベアトリスが真っすぐに見つめると、エドワードは瞼を細めて頷いた。銀縁眼鏡をはずして涙をぬぐうと、カップを天高く掲げて高らかに語った。
「道のりは果てしなく遠くとも、高貴なる者として退くことは許されない。だがしかし、君が一緒ならば、いかな困難も乗り越えられよう!」
「……はい。エドワード様!」
ベアトリスもまた、吸い込まれるような白磁のカップを掲げた。
エドワードへの敬意を一心に込め、瞳を逸らさずに最後の一滴までを飲み干す。喉を通る熱い液体が、彼女の覚悟をより強固なものへと変えていった。
その日のうちにネリーネの降格と、ベアトリスの事務局長代理への就任が決まった。
「私は無駄な時間を最も憎むのでね」
エドワードは淡々と言ったが、ネリーネという巨大な存在の後任に、ベアトリスは足元が崩れ落ちそうな恐怖にかられた。引き継ぎ作業中も生きた心地がせず、同じミスを繰り返す。だがあのネリーネが、嘆息一つ漏らさず丁寧に指導してくれたおかげで、なんとかその任を継ぐことができた。
受付嬢たちが提出する報告書に目を通している時だった。
ふいにミラの提出物に目がとまる。ハンターの書いた杜撰な報告書を、ミラが赤ペンで修正して完了印を押したものだった。書類としての不備は見当たらないが、何度も書き直されたであろう紙面はところどころ薄汚れ、ひどく粗野な印象を与えた。
(——あの方には、ひどい目にあってますもの。これくらいお灸をすえたって構いませんわよね)
軽い悪戯心のつもりで押した『再提出』の印。
(大丈夫。理はこちらにあります。清浄なギルドのためには、こうした甘えも是正しなければ…!)
一度理屈を見つければ、手は羽のように軽くなった。少しでも「美しくない」と感じる書類を、次々と赤く染め上げていく。
おそらく、他の受付嬢たちから反発があるだろう。だが彼女たちも同じ貴族の娘だ。エドワードの掲げる高尚な未来を伝えれば、きっとわかってくれるに違いない。ベアトリスはそう確信していた。
しかしその予想は大きく外れた。
「——ベアトリス、これが再提出なんて冗談でしょう?」
友人のセシリア・ド・ラ・ヴァリエールが、仲間たちと共に事務局長室へ押し寄せた。彼女たちの手には、ベアトリスが返却した書類の束が握られている。
ベアトリスはエドワードの理想を熱く語り、自分たちも協力するべきだという事を伝えた…つもりだった。
「——それ、本気で言っているの?」
セシリアの反応は、冷ややかなものだった。
「わたくしたちがここにいるのは、家名に恥じぬ殿方を見つけるためよ。ギルドに身を捧げるためじゃないわ」
冷淡な拒絶に、ベアトリスは反論もできず打ちひしがれた。
憔悴した彼女を救ったのは、やはりエドワードだった。
「——君は何も間違っていない。ただ役職を誠実にこなすことを、誰が非難できるというのだ」
泣き崩れるベアトリスの手を、彼は優しく包み込んだ。
「私に任せておきなさい。君は自分の思う通りにすればいい」
エドワードの行動は、恐怖を覚えるほどに迅速だった。
すぐに直属の衛兵を呼び、『受付嬢たちの安全保護』の名目でギルドの至る所へ配置した。ハンターの着ける貧相な防具と違い、鋼色に輝く姿はギルドの空気をとたんに張り詰めさせる。
それだけではない。
ある日、エドワードに呼び出されて部屋に行くと、ヴォルケに連行され、変わり果てた姿で震えるセシリアの姿があった。
「ごめんなさい…!わたくしが間違っていました!だから…許して」
ベアトリスへしがみつき、消え入りそうな声で許しを乞う。その傍らで、エドワードは見たこともない冷徹な眼差しを向けていた。
「——私の方からきつく言っておいた。今後は、君の力になってくれるだろう」
ただ――とエドワードの低い声が続く。
「君への信頼の証は、まだたてられていない。そうだね?」
「——信頼の…証?」
セシリアの肩がビクリと震える。これ以上、友人の怯える姿を見ていられないと思うベアトリスの意思を、エドワードの言葉が残酷に打ち壊す。
「彼女の涙は本物だろう。だがそれは私と、こちらのヴォルケに向けられたものだ。君へではない」
ベアトリスは自身の胸中で泣く少女に視線を落とす。
「——わ、わたくしはもう十分でございます。それにエドワード様が許されたのであれば、わたくしも…」
「——ギルド長だ」
ベアトリスの言葉をエドワードは断絶する。微笑みを浮かべながら、瞳には慈悲の欠片もなかった。
「失礼――だが、ベアトリス。君ももう少し、立場というものを理解してもらいたい。我々はギルド再生を誓う朋輩であるが、順列を疎かにしてはいけない」
有無を言わせぬ圧に、ベアトリスは頷くことしかできない。エドワードは満足げに目を細めると、残酷な最後通告を突きつけた。
「さあ、命じなさい。なにをすれば信頼に足る存在になれるか。君が決めるんだ」
その夜、セシリアの手を引いて、食堂のゴミ捨て場へ向かった。重い鉄製の蓋を開けた瞬間、凝縮された残飯の腐敗臭が夜の冷気に混じって鼻を突く。ベアトリスは木製バケツを差し出し、中身を移すように命じた。
「——いや、やめてベアトリス!こんなことさせないで!」
かつてはお揃いのリボンを選び、将来の夢を語り合った親友の悲鳴。最初こそ、ベアトリスの胸には刺すような同情が走った。しかし一向に作業に入ろうとしない姿に、徐々に腹立たしさの方が勝った。
「——ギルド長への報告が必要かしら、セシリア?」
その一言でセシリアは折れた。泥にまみれ、残飯を啜る無様な姿。それを見下ろす内、ベアトリスの中に熱い愉悦が満ちていく。
(——あれほど許しを請うていたのに。なんて……無様で、愛らしいのかしら)
満たされたバケツを手に、誰もいないホールへと戻った。
ミラのデスクの前で、セシリアは縋るような視線を送ってきたが、ベアトリスは冷ややかに腕を組んだまま、微動だにしなかった。
意を決したセシリアが、バケツの中身をデスクへとぶちまける。べちゃり、という下品な音が無人のロビーに響き渡った。
「――引き出しの中にも入れなさいな。隅々まで、丁寧にね」
自分の言葉一つで、かつての友人が這いつくばり、汚れを広げていく。その光景を見つめるベアトリスの白い頬は、熱を帯びたように赤く染まっていた。
ゾクゾクとするような快感。これこそが、エドワードの言っていた特権なのだ。ベアトリスは実行された『正義』の感触に、甘く満たされていた。
ベアトリスが事務局長となって数日の内に、彼女に逆らう者はいなくなった。
廊下ですれ違う受付嬢たちが道を開け、深々と頭を下げる。その静寂を耳にするたび、ベアトリスの胸に甘美な痺れが走った。
(ああ……。今のわたくしは、まるでかつてのネリーネ様になったようですわ)
ネリーネと同じ孤高を纏っている事に、ベアトリスは恍惚とした日々を過ごしていた。
だが――二階の回廊から見下ろした光景が、その陶酔を無残に引き裂く。
「……な、ぜ?」
ネリーネが、窓際の薄暗い席に座るミラに歩み寄り、自ら淹れた紅茶を差し出したのだ。ベアトリスの指先が、手すりの上で白くなるほど強張る。
自分さえ立ち入れない、高潔の聖域へミラが土足で入り込んでいる。
(違う……。あの方は、あんな下俗な女を相手にする方ではない!)
しかし、ミラの席を離れるネリーネの纏う空気は、決してベアトリスが知っているような、硬く冷たいものではなかった。
エドワードへの恐怖から逃げるために、必死に貼り付けてきた仮面が、音もなく崩れていく。
「……許さない。わたくしを裏切って、そんな場所へ堕ちるなんて…!」
燃え上がるような嫉妬が、どす黒い殺意へと変わる。
ベアトリスは階下の衛兵たちへ、震える指先で冷酷なサインを送った。衛兵が頷き、ネリーネの前に立ちふさがる。
(——さあ、見せなさい。お前の虚飾の仮面、わたくしが暴いてさしあげますわ!)
しかし、ネリーネは屈強な衛兵を前に一歩も怯まなかった。逆上した衛兵が彼女の腕をひねり上げ、それを見たハンターたちの怒声がホールに響く。
(——な、なにをしていますの!? )
次々にハンターたちが立ち上がり、殺気立って衛兵へ詰め寄る。その様子を見ても、ベアトリスは立ち尽くすしかない。
(こんなところを、エドワード様に見られでもすれば……!)
階下には、自分を仰ぎ見るセシリアたちの怯えた視線があった。
ベアトリスが逃げるように視線を走らせると、ミラと目が合った。怯えるベアトリスを憐れんでいるようにさえ見えた。
(——やめなさい…!なぜ、お前如きが、わたくしをそんな目で見るのです!)
ホールの緊張感は、もはや限界に達していた。ここで声を上げれば、築き上げてきたすべてが一瞬で瓦解してしまう――その恐怖が、ベアトリスの動きを封じていた。
――ブッ、ブリブリブリリリッ!!――
直後――ロビーを揺るがした凄まじい「音」。音の発信源に、不敵に笑うミラの姿が見えた。
あっけにとられるベアトリス。恐怖に満ちていた空間が、一瞬にして爆笑と放屁の渦へと変わった。ハンターたちには、かつての活気が戻り、衛兵たちはただの笑いものへと成り下がった。ベアトリスの築き上げた秩序は、一発の音共に霧散した。
「……あんな、汚らしいものに」
恐怖も、築いた規律も、すべてが敗北した。
見上げるミラと、再び視線が重なる。嫉妬と憎悪で真っ赤に染まるベアトリスの視線を正面から受け流し、ミラは優雅に、ただの一口、紅茶を嗜んだ。
(排除しなくては。どんな手段を使ってでも、あいつを、このギルドから、私の世界から消し去らなくてはならない)
その決意は、もはやエドワードの掲げる「正義」など超えた、剥き出しの呪いへと変貌していた。




