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『安酒は 高貴な香りに 咽びいて』 12

早朝、まだ誰もいないギルドにミラの姿があった。

差し込む朝日が、無人のロビーに長い影を落としている。最近のミラの朝は、今や『ゴミ置き場』と化した自身のデスクを掃除することから始まった。

私服のまま、使い古された木製バケツを足元に置き、引き出しに詰め込まれたゴミを手早く片付けていく。当初こそその悪臭に辟易したが、慣れてしまえばどうということはない。むしろ、後からやってくる受付嬢たちが振りまく香水の、胸が焼けるような人工的な甘さに比べれば、こちらの方がよほどマシだとさえ思えた。

裏のゴミ捨て場まで数往復。最後に布巾で木肌をきっちりと拭き上げると、指先に残るわずかな湿り気が心地よい。


「……よし。これで今日も、『受付嬢』が始められるな」


独り言ちて、隣の席に目をやる。

あの日以来、プリムの姿はない。彼女の机がゴミ溜めになったのは最初の数日だけだった。それもミラが片付けた後は、誰も手を出さなくなった。

プリムはずっと自室に籠もり、ギルド常駐の看護師から食事を摂らされるだけの日々だという。何度か顔を出したが、虚空を見つめる彼女を前に、ミラはいつもまともな言葉を見つけられずに退散していた。

最後にプリムのデスクを優しく拭い、ミラは更衣室へ向かった。

先に来ていた受付嬢たちは、ミラの姿を認めるなり、それまで弾ませていたお喋りをぴたりと止めた。彼女たちは腫れ物に触れるような手つきで、黙々と各自の準備に没頭しだす。


「おはようございます、ミラさん。もうすぐ朝礼ですよ」

「忠告ご苦労さん」


ただ一人、ベアトリスだけが声音を弾ませて挨拶を投げかけてきた。

その瞳の奥に張り付いたあからさまな空々しさには、取り合う気にもなれない。そもそも、プリム以外にミラへまともに話しかける者などいなかったのだ。何の苦でもない。

手早く着替えを終え、鏡に向かう。髪をとかし、淡い化粧を施す。鏡の中で、見慣れてきた受付嬢の顔がこちらを見返すのを確認し、ミラは仕事場へ向かった。


「この後、私の部屋に来るように」


エドワードの滔々(とうとう)とした就任挨拶が終わり、解散の空気が流れた直後、ミラは呼び止められた。


「部屋って、どこだよ」


白々しく問い返すミラに、エドワードは唇の端を吊り上げ、「ギルド長室だ」と短く返した。

先行するエドワードの背を追い、ギルド長室に足を踏み入れる。ミラは促されるよりも早く、来客用のソファへドカリと身を沈めた。その傍若無人さに、エドワードの顔から一瞬だけ表情が削げ落ちたが、彼はすぐに余裕の仮面を貼り直して語りかけてきた。


「こなさなければならない業務が山積みだろう。手短に済ませるつもりだから、許してくれたまえ」


初対面の時とはうって変わって、態度は慇懃だった。

ミラはそれを無視し、部屋の中をぐるりと見渡した。ガルドが愛した酒や葉巻の気配は微塵もない。代わりに、これ見よがしに並べられた『権威を誇示する調度品』が所狭しと飾られている。そのあまりの滑稽さに、喉の奥で笑いがこみ上げた。


「ミラ、君は銀等級のハンターがこのギルドに何人いるか知っているかね?」

「……さあね。十人はいないだろ」

「その通りだ」


エドワードは大げさに頷いてみせた。


「そのうちの一人が君だ。これは大変な名誉だと思わないかい?」


一々芝居がかった語り口に、ミラは長いため息を吐き出す。このまま真面目に付き合っていれば、この男の独壇場はいつまでも続くだろう。


「——手早く済ませるんじゃなかったのか? お宅だって、そんなに暇じゃないだろ」

「そうだったな。いや、すまない」


エドワードは軽く咳払いをすると、声を一段低くして語りだした。


「……君をハンターへ戻そう」


この部屋に来て初めて、ミラはエドワードの顔を正面から見据えた。その真剣な眼差しすら、どこか計算された舞台装置のように見えたが、ミラはあえてその誘いに乗るふりをした。


「ありがてぇ話だな。ライセンスさえ返してくれりゃ、ギルドの借金もすぐに返してやるぜ」


身を乗り出し、パンと手を打ってみせる。大仰な芝居が過ぎたか、エドワードは一瞬ミラを凝視したが、すぐに破顔した。


「——ただし、私の事業に協力することが条件だ」

「事業? ギルドの仕事か?」


エドワードは鼻先で笑うと、軽く首を振った。


「今はまだ言えないな。ここで協力するか、断るか。……それだけだ」

「断ればどうなる? また、このスカートを穿いてろってか?」


ミラが皮肉げにおどけてみせると、エドワードは乾いた笑い声を立てた。


「それも君次第だ。だが今朝も言った通り、私のモットーは誠実さと合理性だ。君にスカートを穿かせ続けるのは、極めて非合理的と言わざるを得ない」


ミラは一度天井を見上げ、深く、長く呼吸をした。

エドワードの企みの全容が見えない以上、ここで安易な返答をすることは憚られる。一度は首を縦に振り、懐に入り込んで動向を伺うのが、今の自分にできる「賢い最善策」のように思えた。

だが。もう一度、肺の奥まで空気を吸い込んだとき――懐かしい煙草の臭いを感じた。


「……うん、やっぱ無理だわ」


思考を放棄するように、ミラはソファから勢いよく立ち上がった。困惑を隠せないエドワードへ、悪びれもしない笑みを向ける。


「悪いが、その誘いは断らせてもらうぜ」


踵を返し、出口へと向かう。背後から、低く、湿り気を帯びたエドワードの声がその背を引き留めた。


「……そうか。残念だよ。君の能力を買っていたんだがね」


その声は、先ほどまでの慇懃な芝居をかなぐり捨て、地を這うような怒りに滲んでいた。だがミラは振り向きもしない。


「その方がお互いのためだと思っただけさ」


軽やかに言い捨て、ミラは重厚な扉を乱暴に開けて出ていった。

扉のそばに、ベアトリスが控えていた。

部屋から出てきたミラと、ベアトリスの蔑むような視線が一瞬交差する。


「——失礼します、ギルド長代理」


すぐに、そんなことなどなかったかのように、ベアトリスははきはきとした口調でギルド長室の中へ入っていった。

その香水の残り香に不穏なものを感じつつも、ミラは晴れ晴れとした気持ちでその場を後にした。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

エドワードによる『業務の正常化』は着々と行われつつあった。

馴染みのハンターがミラのデスクへ来ると、吐き捨てるように不機嫌な態度で依頼書を差し出してきた


「——どうなってんだよ。俺たちに死ねって言ってんのか?」


ハンターの吠えるのも無理はない。エドワードはギルドの業務を『市民に開かれた公的機関』へ作りかえるべく、報酬額を大幅に下げる措置を行った。

結果、市民はこれに喜び、屋根の修繕から、猫探しまで、安価な依頼がギルドへ殺到し、掲示板は連日のように新しい依頼書で埋め尽くされた。だがその裏で、割を食うのは中堅以上のハンターたちだった。

新人や、小遣い稼ぎを目的としたハンターたちは、手軽なクエストが増えたことを大いに歓迎する。だが一方で、どんなに危険を伴うクエストであろうと、一律の低報酬に据え置かれたことで、実力者ほど割を食う歪な構造が出来上がってしまった。命を懸けて魔物を狩っても、激減した報酬では装備の維持費すら捻出できず困窮する。

それでも、ハンターという身分がはく奪される恐怖が、彼らに『断る』という選択肢を奪い、日々を暗澹とさせた。


「——それにアイツら、なんとかなんねぇのか?」


男が憎々し気にしゃくった先に、ロビーの四方に配置された衛兵たちがいた。

「受付嬢の身の安全を保障するための措置」という触れ込みだったが、その実態が治安維持を口実にした『監視強化』であることは明白だった。

エドワード本人や、彼が行った改革へ不満を零せばすぐに密告され、ライセンスの降格や罰金へと繋がる。

かつて喧騒と狂騒に彩られていたギルドからは、いつしか人の声が消えた。そこはもはや、無機質な事務手続きと、死んだような沈黙が支配するだけの空間へと変貌しつつあった。


「——わかるけど、オレにはどうしようもねぇんだ」


ミラは短く吐き出し、手続きを済ませて依頼書を差し出した。


「――変わったな、お前。すっかりあのお嬢様方の仲間入りかよ」


男は依頼書をひったくるように奪い取ると、ミラへ言葉を投げ捨てた。

胸の奥を刺されたような衝撃に、ミラはわずかに指先を震わせた。だが、今の彼女にそれを否定する余裕はない。デスクには『再提出』の印が押された依頼報告書の山が出来ており、連日その処理に追われていた。その印に光る『ベアトリス』の名に、ミラは重い溜息をつく。

ネリーネに代わり事務局長代理に就いたベアトリスの采配は、ネリーネの持っていた『清廉』や『冷徹』とは真逆の、『依怙贔屓えこひいき』と『選民思想』に彩られていた。エドワードの『徹底管理』という建前と、彼女の歪んだ支配欲は、恐ろしいほどに噛み合った。エドワードの意にそぐわない者は、ベアトリスの独断という名のふるいにかけられ、容赦なく排除されていく。

その当て馬にされたのがミラだった。ベアトリスは、許しを請う受付嬢たちの踏み絵として、ミラのデスクをゴミ溜めにする事を指示した。それまで静観を決め込んでいた少女たちは否応なく決断を迫られ、加害者の一翼を担わされる事となった。


「——ったく、何をどう書き直せってんだよ」


ミラが一人愚痴をこぼすと、ふわりと紅茶の香りが鼻をくすぐる。香りの先にネリーネがおり、ミラのデスクに音もなくカップを置いた。


「あ、りが…と、う?」


意表をつかれたミラが礼を述べると、ネリーネは瞑目して小さな溜息をついた。


「貴方の字はムラがありすぎるのです」


それだけ零すと、新たに宛がわれた遠い窓際の席へ戻っていった。ミラはその背中には何か言いかけたが、黙ってカップに口をつけた。以前、ネリーネに入れてもらったものとは比べるまでもない、上質な味わいがミラの心を溶きほぐしていった。ミラはネリーネの方へ視線を送ると、ほんの僅かだけ頭を下げた。

だが、そこで思わぬ事が起き始めていた。ネリーネが席へ着く前に、二人の衛兵が彼女を取り囲むのが見えた。


「——業務中の不要な行動は控えてもらおうか」


衛兵の高圧的な口調に、ネリーネは眼鏡のふちを上げて真正面から見据えた。


「そのような規則は聞いたことがありませんわ」

「ギルド長代理の新たな取り決めだ」

「それは失礼しました。以後気を付けますわ。ところで他にもあるのかしら?周知もされていない、お粗末なその『取り決め』とやらは」


ネリーネの冷徹な視線と論理に射竦められ、衛兵たちは一瞬たじろぐ。しかしすぐに怒気のこもった低い声で彼女へ掴みかかった。


「——調子に乗るなよ、貴族の雌豚が…!」


握られた腕に鋭い痛みが走り、ネリーネの顔に苦悶の表情が浮かぶ。途端にハンターたちの中から、衛兵へ怒声が飛んだ。


「テメェ、なにやってんだ!」


周囲に緊張が走った。周りの衛兵たちも集まり、一触即発の状態となる。ミラは騒乱の最中、ふと視線を上――二階の回廊へと向けた。

そこには、事務局長代理としての権威を誇示するように立っていたベアトリスの姿があった。だが、彼女は眼下で始まろうとする殺戮劇を前に、陶器のような白い顔を真っ青に染め、手すりを握ったままガタガタと震えていた。


「——貴様ら、自分のやっている事がわからんのか?」

「そりゃこっちの台詞だぜ。俺らのギルドで急に好き勝手やりやがって」


互いの殺気が火花を散らし、空間が極限まで張り詰める。誰かが指一本動かせば、このロビーが血の海に沈むのは火を見るより明らかだった。  破滅への引き金が、今まさに引かれようとした――その時。


――ブッ、ブリブリブリリリッ!!――


あまりに長く、あまりに不遜な生理現象。

抜かれかけた剣が止まり、ネリーネが目を見開き、ロビーにいた全員の視線が、磁石に吸い寄せられるようにミラへと集中した。


――ブリリリリリリリリ…!!――


数秒、いや十数秒か。ようやくその「旋律」が収まると、ミラはゆっくりと顔を上げ、鳩が豆鉄砲を食ったような驚愕の表情で衛兵たちを眺めた。


「……すまん! 屁をこくのもギルド長の許可証が必要だって、知らなかったんだわ」


ミラはわざとらしく両手を合わせ、深々と頭を下げた。


「い、い、いや……そうでは、ないが……」


衛兵が毒気を抜かれ、剣の柄を握ったまま口ごもる。すると、その困惑を切り裂くように、


――ブッ! プスススッ!!


どこからともなく、新たな放屁の音が重なった。


「あー……悪いな、俺も我慢の限界だったんだわ」


一人の熟練ハンターが、腰を浮かせて晴れ晴れとした顔で言い放つ。それを皮切りに、せきを切ったように至るところから「号砲」が響き始めた。


「ブリッ!」「プゥ~」「ドッ!!」


さながら下俗の合唱コーラスだ。

慌てて止めに入ろうとする衛兵たちに対し、ハンターたちは鼻を突き合わせ、ニヤニヤと笑いながら言い返す。


「今すぐギルド長に確認しに行ってこい。屁の回数制限を『合理的』に決めてくれってな!」


いつしかロビーは、凄まじい悪臭と、それを吹き飛ばさんばかりの野太い笑いに満たされていた。

唖然としていたネリーネは、やがてハンカチで鼻を押さえながら、くすりと、この数日間で初めての笑みを漏らした。受付嬢たちの中にも笑いが起こる。中には堪えきれず身を丸めて、腹を押さえている者までいた。

その最中、ミラは二階の手すりを白くなるほど握りしめ、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけるベアトリスの視線に気づいた。ミラはそれを見上げ、あえてゆったりとした所作で空のカップを掲げてみせると、最後の一滴まで勝利の余韻を飲み干した。


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