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『安酒は 高貴な香りに 咽びいて』 11

額に冷たい心地よさを感じて、プリムの意識は急速に覚醒しだした。

ぼんやりと目を開けた先に、真っ白な医務室の天井があり、こちらを見つめるミラと目が合う。


「——大丈夫か?」


そうやってプリムを気遣うミラの顔は、彼女が今まで見たことないほど弱弱しく感じられた。ぼんやりとミラの顔を見ながら、今朝の出来事が徐々に鮮明に思い出されてくる。


「…わたし、全部、壊してしまいました」


ミラはその真意を図りあぐねたが、真面目なプリムが、抱えきれないほどの責任の重圧を感じている事だけはわかった。


「壊したのは、オレだよ。お嬢さんは悪くなねぇ」


ミラが声を絞り出しても、プリムは天井をぼんやりと見つめたまま、瞬き一つしない。その沈黙が自身に向けられているように感じ、ミラは努めて明るく話そうとした。


「そんなに気にするな! なるようにしかならねぇんだから。」


プリムは何も言わない。昨日まであったはずの、二人の間にあったはずの熱い連帯感はまるで感じられず、真っ白な医務室に重苦しい沈黙だけが流れていく。


「——カイルの野郎も馬鹿だよなぁ! いまこそ飛んでくるべきだろうに、間の悪い奴だぜ」


カイルの名前を聞いた途端、プリムに昨晩の光景が鮮明な痛みと共によみがえる。それをミラへ言うべきか、一瞬だけ考え――プリムは深く口をつぐんだ。


「——ごめんなさい。独りに、してもらえませんか?」


そう言って、ふとミラから視線を遠ざけた。


「——あー、そうか。 わるいわるい、うるさくしちまったな」


ミラが椅子を引くと、耳障りな音が響いた。少しだけプリムの方を見つめ表情を歪ませると、音を立てずに医務室を去った。

残されたプリムには、その静寂が何よりも安心感を与えてくれた。


「——なにも、なくなってしまいました」


プリムの目から、一筋の涙がこぼれる。ミラやカイル、ギルドの仲間たちの顔が浮かんでは消え、悲しみさえも、深い海の底へ沈んでいくように感じられた。



受付デスクを前にしてミラは、その有様に目を見張った。

デスクの引き出しはすべて開け放たれ、中身は床に散乱していた。空っぽになった引き出しには、どこから集めてきたのかタバコの吸い殻や腐った残飯、汚れたチリ紙がこれでもかと詰められていた。ミラのデスクだけではなく、プリムの席も同様だ。

そしてミラとプリムの名札には、赤く『ゴミ箱』と書かれていた。

最初に受付嬢として来た日、ガルドから直々に手渡されたものだ。制服を着るのさえ抵抗があったミラは、そんなものを張り出されれば、完全にここから抜け出せなくなると思い、絶対に嫌だと固辞した。


「ガタガタぬかすな。おめぇの身柄はうちが買い取ったんだ。……借金が消えるまでは、ここがお前の『家』だからな」


と、にやけ顔のガルドに押し切られ渋々とデスクの隅に追いやっていたものだ。

――あの日、あんなに鬱陶しいと思っていたものが、汚れた生ゴミの底で赤く塗りつぶされている。

ガルドももういない。プリムも、心を閉ざしてしまった。怒りよりも、大きな喪失感がミラの胸を覆う。周りの少女たちの嘲笑も、いまのミラには届かない。


「——片づけないとな。また、どやされる」


ミラは黙々と片づけ始めた。手につく汚物の臭いも感触も気にせず、ただ無心に片づけていた。



終業時間が迫ったころ、ガッゾがミラの元を訪れた。ミラの様子に酷く驚いたガッゾは、少しためらいがいちに話しかけた


「——実は、カイルの様子がおかしいんだ」


ガッゾ曰く、今朝がたひどくやつれた顔でパーティの元へ来たかと思うと、突然脱退を申し出てきたというのだ。


「——なん、だって…?」


ミラの脳裏に、今朝のプリムの様子が思い浮かぶ。


(——…わたし、全部、壊してしまいました――)


ミラは、プリムが自分のせいで、ガルドが退任に追い込まれたと言っていたのだと思っていた。しかしあの日、ミラが見送った後、二人がどうなったのかまでは知らない。


「パーティメンバーの入れ代わりなんてのは、よくあることだ。そうだろ? お前に義理立てするわけじゃないが、俺はアイツを気に入っていたからな」


ガッゾは理由をしつこく聞いたそうだが、頑としてカイルは理由を語らなかった。ロロもリプレも、カイルを気にかけいまも説得に当たっているらしい。

ミラは顔を手で覆った。どうしようもない無力感が、ミラを襲っている。


「——お前なら何か聞いているかと思ってな。邪魔して悪かった」


普段のミラであれば、いますぐ飛び出してカイルを殴り飛ばしに行くだろうと期待していたが、その望みは叶いそうにない。


「——待ちなよ」


手の隙間から、ミラがガッゾを呼び止めた。


「——連れてってくれよ。アイツのところへ」


ガッゾはミラを見る。今のミラはひどくやつれ、今までの彼女を欠片も感じられないほど弱り切っている。それに、ミラの机もところどころに汚れやシミが見受けられ、なぜか酒場の路地裏のような臭いが立ち込めている。


「——お前、本当にいいのか?」


ガッゾにはミラを連れていくのを躊躇われた。だがカイルを動かせるのも、ミラしかいないのではと思っている自分もいた。


「……オレも知りたいんだよ。……何で、こうなっちまったのかってな」


ミラの目に、ぬかるみの底で燃えるような、昏い執念を感じ、ガッゾは頷くしかなかった。



ガッゾに誘われてミラが訪れたのは、東区の路地裏だった。その入り口で浮浪者たちに言い寄られていたリプレは、ガッゾたちの姿を見るとこちらへ駆け出してきた。


「おつかれさま~…え、ちょ…! すごい臭い…!」


鼻を覆うリプレを宥めながら、ガッゾは様子を聞いた。


「ロロが悲鳴を上げてるわよ。あの子、誰かれ構わず喧嘩売るんだもの」


リプレの報告を聞き終わる前に、ミラが店の中へ向かったためガッゾはその後に続いた。

バンっと、開け放たれた扉にガッゾとミラの姿を認めたロロは、その顔に涙を浮かべる程喜び、二人の胸へ飛び込んできた。その隣には、目を充血させた涎まみれのカイルが、テーブルに突っ伏している。


「ダンナァ…」

「お前らこのガキの連れか? とっとと連れて帰れ」


店の主人は怒り心頭だった。見ればカイルの周りは割れた酒瓶と、そこからこぼれたアルコールで汚れていた。カイルはふらつきながら顔を上げ、声を上げた。


「——どうせガキだよ…ガキが酒飲んじゃわりぃのかよ!」


怒りは主人だけでなく、そこで飲んでいる者たちも同様だった。ロロが必死になって宥めているから収まっていた怒りも、そろそろ爆発寸前だ。

髪を逆立てたミラが、ズカズカとカイルへ近づく。ロロはその異様さに気づき、とっさに二人の間に割って入ろうとしたが、軽くミラにいなされて床に転がった。カイルの胸倉をつかみ、自身の鼻づら近くまで引き寄せる。


「——テメェ、こんなところで何やってんだ?」


声だけで人を殺せそうなほど、ドスが利かせた声だ。カイルは驚愕の表情を浮かべるが、すぐに破願してミラを見つめ返した。


「——誰かと思えば、ミラさんじゃないっすか。……相変わらずお似合いの制服姿ですね。……あはは! なんだその臭い? どぶ板掃除でもしてたんですか?」


カイルの無邪気な振る舞いに、ミラの周りの熱量が一気に高まった。それより一瞬早く、ガッゾがミラを羽交い絞めにした、


「放せ! コイツを殴らせるために、オレを連れてきたんだろうが!」

「馬鹿野郎! いま離したら殺すだろ」


暴れるミラの体が、店の椅子やテーブルを破壊し、酒瓶を割った。店の主人の怒声が飛ぶ。

カイルはそんなミラをにらみつけると、臆することなく言葉を続けた。


「——やるならやれよ! どうせ俺はアンタに勝てないんだ!」

「わかってんじゃねぇか! 望み通りにしてやるから、こっち来やがれ!」

「お前ら、いい加減にしろ!」


見せの騒ぎを聞きつけ、やじ馬が集まってきた。二人を止めながら、ガッゾとロロは他の客が寄ってくるのも止める羽目になっていた。


「(呪文)」


突如、響き渡るリプレの呪文。一定空間から集められた水分が、水鉄砲となって店の中の全員に浴びせられた。

城壁内で禁止されている魔法の使用に、全員がリプレの方を見て呆然とした。


「あちゃー、やっちゃった」


リプレは人差し指を口元に充てると、シーッと悪戯っぽく笑んで周囲を見渡した。

ミラの腕から力が抜け、カイルはその場にへたり込んだ。


「——ミラさんは、知ってたんですか…?」


俯きながら、カイルは弱弱しくつぶやいた。それの意味することろがわからず、ミラはカイルの次の言葉を待った


「——プリムさんが…プリムさんの家のこと」

「なんだよ。プリムの家の事って」


ミラは苛立たし気だ。逆にカイルにはミラがなぜわからないのか、怒りが込み上げてきた。


「あの子が、貴族だってことですよ…!」


ガッゾとロロは驚いて顔を見合わす。リプレも大げさに驚いた表情を作っていた。


「ああ、知ってたぜ」


ミラは事も無げに言い放つ。そこにいた全員が、ミラを信じられないものを見るかのような目で見つめた。

カイルが、カハッ、と短く乾いた笑い声を漏らした。


「……知ってた? 知ってて、黙ってたんですか。二人して、俺を馬鹿にしてたってことかよ!」


カイルはよろよろと立ち上がり、ミラの胸倉をつかんだ。その目から大粒の涙がとめどなくあふれ出す。


「——なんなんだよ。――アンタが頑張ろうって言ってくれたから。なのに…」


ミラはカイルを苛立たし気に払いのけ、ドカリと空いている椅子に座った


「貴族だからなんだってんだよ…! テメェが不甲斐ないからオレが加勢してやったってのに、まだ足りないってのか?」


ミラはテーブルの上の酒瓶に手を伸ばした。だが一本、二本と傾けても、酒の一滴も落ちては来ず、最後の酒瓶を床に投げ捨てた。


「——なんなんだよ、テメェは! 男のくせにメソメソしやがって! テメェがそんなんだから、アイツが伏せっちまったんじゃねぇか」

「——ミラ、もう止さねぇか」


ガッゾがミラとカイルの間に入る。その目はカイルへの憐みと、ミラへの失望に染まっていた。店の全員が、ミラをそのように見ていた。


「——ああ、そうかい。――そうだよ…! 全部、オレがぶっ壊したんだよ! これで満足かよ!」


人垣を押しのけて、ミラは出ていった。

濡れた制服が、氷のように肌に張り付いて離れない。――こみ上げる震えは、夜風のせいか、それともたった今すべてを失ったせいか、ミラにはもう分からなかった。



アンデッドのように歩くミラは、知らず知らずのうちにギルドへ戻っていた。

途中、何度か顔見知りのハンターとすれ違ったような気がしたが、誰だったかも思い出せない。制服はとうに乾いていたが、濡れたブーツの不快な感触がひたすら彼女を惨めな気持ちにさせた。

当番の受付嬢は、門をくぐるミラを見るなり悲鳴を上げた。うつろな表情で、ゆっくりと階上へ上がっていく姿は、とてもこの世のものとは思えなかっただろう。

更衣室の扉に手をかけ、ふと廊下の突き当りに視線を送った。真っ黒な廊下の奥、わずかに光が漏れている。ギルド長室のあるあたりだ。誘蛾灯に惹かれるように、そちらへ足を運ばれていく。

光は、やはりギルド長室から漏れていた。無意識のうちに手をかけ、ノブを回す。扉が開く僅かまでの間、胸の鼓動が高鳴った。


「——あら、まだいらしたんですか?」


ギルド長の座るデスクの向こう、うずたかく積まれた書類に囲まれてネリーネの姿があった。ミラは急速に体温が下がっていくのを感じた。


「——お前こそ、なにやってんだよ」


問いながら、ミラはギルド長室へ入り込んだ。ネリーネは顔を挙げず、黙々と書類にペンを走らせていた。


「——ギルド長代理がお越しになるまでに、必要な書類を整理しているのです」


ミラは近づいて書類を一瞥した。見たこともない公文書の中に、見覚えのある筆跡を見つけた。まぎれもない、自分が提出した依頼書だった。


(——コイツ、ギルド長の真似事までやらされてるのか?)


ミラの胸に、ふつふつと怒りが込み上げてくる。ミラの視線に気づいたネリーネが、ふと顔を上げる。途端、露骨に顔をしかめた。


「なんですか、この臭いは…?」


ネリーネの表情を見て、ミラは改めて自分がとんでもなく臭い事に気づいた。目の前のネリーネの整った顔と、己の無様な状況を鑑みて、ミラは自嘲気味に口角を上げた。


「——ドブ掃除に決まってんだろ。ギルド長代理が来るまでの」


そういってミラは鼻をすすり笑った。液状と固形の鼻水が混じり、鼻の周りが突っ張ったようにな不快感があった。

ネリーネは部屋の中にある棚からカップを一組取り出すと、ポッドの紅茶を注いだ。わずかだが、カップから湯気が立ち上る。


「これを飲んだら、そうそうに着替えに行くことをお勧めしますよ」


ミラが差し出されたティーソーサーのふちを掴み、引き寄せようとすると強い抵抗がかかった。


「言っておきますが、今日の紅茶は最低の出来です」


まっすぐにこちらを見つめるネリーネは、それだけ宣言してソーサーから手を離した。

ミラが差し出されたカップを啜ると、喉が焼けるような暴力的な渋みが突き抜ける。


「……ゲッ。……なんだよこれ、苦すぎて舌が痺れるぜ」


黄金色とは程遠い、どんよりと濁った褐色の液体。底には沈殿しきれなかった茶葉が、まるで泥のように溜まっている。 香りを楽しむ余裕などない。ただ、熱さだけが強引に胃の腑へ流れ込んでくる。


「言ったでしょう? 最低な出来だと」


ネリーネは事も無げに言ったが、先ほどより声色が明るくなったように見えた。


「——お前、お嬢様なら紅茶の淹れ方は必須だろ」


そう毒づきつつ、ミラはもう一口、流し込んだ。


「そうですね。まあ、おかげでいい眠気覚ましになりますが」


その言葉に、ミラは違和感を覚えた。


(——コイツ、こんな冗談を言うやつだったか?)


それに、この紅茶だ。ネリーネの言い方では、意図して淹れられたわけではなく、たまたまこのような出来になってしまった――そう聞こえる。

ミラは改めてネリーネを見た。

今朝のエドワードの宣言以来、ネリーネは粛々とすべてを受け入れていた。いまもこうして、ガルドなき後のギルドを回し、エドワードを迎える準備をしている。それを支えるのは、ただの完璧主義だけなのだろうか。

この紅茶の苦さこそが、いまのネリーネの心境そのものではないか。そう思うと、ミラは途端に気恥ずかしくなり、急いで紅茶を口に含み――そして激しく咽た。


「ゴホッ…ゴホッ…たしかに酷い出来だ。まあ、あったまるけどな」


ネリーネに視線を送る。わずかだが、彼女の口元がほころんだように見えた。今日、初めて向けられた『まともな表情』が、よりによってネリーネだとは。ミラはおかしさが込み上げた。そして紅茶の温かみがゆっくり体内に広がるのを感じだ。


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