『安酒は 高貴な香りに 咽びいて』 10
カイルは途方に暮れていた。
実はギルドの先にあるレストランを予約していたのだが、予定の時間までまだしばらくかかる。それに、プリムの顔には痛々しい腫れが残っている。そんな彼女を衆目にさらすわけにはいかない。気を利かせたつもりで背中を押したミラを、今更ながら恨めしく思った。
「ええと……少し、歩きましょうか」
カイルはなるべくプリムを壁側に歩かせ、人目につかない角度をキープしながら歩き出した。その間も脳内では、知りうる限りのデートスポットを検索し続けていたのだが、プリムを連れていける場所など、一か所しか思いつかなかった。
「ふふ、ふふふ……」
カイルの様子を見て、プリムが小さく噴き出した。自分が慌てふためいていることを看破されたのだと、カイルは頭をかいた。
「まるであの日、お会いした時みたいですわね」
「——へ?」
「ほら。ミラさんが他のハンターさんたちと喧嘩をしていたところに、カイルさんが止めに入ってくださったでしょう?」
「ああ……ありましたねぇ……」
カイルにとっては、思い出したくもない羞恥の記憶である。あの時、プリムから「私を巻き込まないでください」と冷たく突き放され、深く落ち込んだ事はさすがに言えない。
「あの時は、わたくしもミラさんに手を焼いておりましたから。カイルさんが必死にわたくしを庇ってくださっていたことに気づけなくて……ごめんなさい」
事実を言うなら、プリムはとんだ茶番劇に巻き込まれたのだが、図らずもミラの想定通りの「美談」として着地したことに、カイルは内心ホッと胸をなでおろした。
「いやぁ、庇ったというか……。格好悪いところを見せちゃって、すげーダサかったですよね、俺」
「そんなことありませんわ。あの方に向かっていける人なんて、そうそういらっしゃいませんもの」
プリムが純粋に自分を褒めてくれていることに、カイルは良心の呵責を感じた。このままでは本当のことを白状しそうになり、慌てて話題をそらす。
「けど、プリムさんだって凄いです。あのミラさんに一歩も引かないどころか、あんなに丸くさせちまったんですから」
「あー、あははは……ありがとうございます」
今度はプリムが、カイルの真っ直ぐな瞳に居たたまれない気持ちになった。
確かにミラの指導は難儀を極めた。常に喧嘩っ早く、粗野で、彼女の注意も聞かない。おかげで何度ネリーネの小言を聞かされたか。
そんなミラがある日突然、憑き物が落ちたように様子を変えたのだ。それが自分のおかげかと聞かれると、正直なところ、プリムも返答に窮してしまう。
ミラを絡めた、ぎこちない会話を繋ぎつつ、二人は街を一望できる『星読みの丘』へと辿り着いていた。街を一望できる恋人たちの隠れスポットである。
「……綺麗だなぁ」
「ええ、本当に……」
茜色の空が深い藍色へと溶け込み、街にポツポツと灯りが灯り始める。宝石を撒いたようなラグニールの夜景が広がっていく。
カイルは、ゴクリと唾を飲み込んだ。ミラの話題が出た今だからこそ、言わなければならない。
「……プリムさん。俺、ミラさんを見ていて思ったんです。やっぱり、俺は強くならなきゃいけないんだって」
プリムはカイルの横顔を見た。遠い果てを望むような瞳で、一言一言かみしめるようにカイルは続ける。
「今度のクエストで、昇級試験の要項を満たした。翠玉です。」
「——はい、おめでとうございます」
プリムは胸が熱くなるのを感じた。カイルの事が、自分の事のように嬉しかった。
「いつかミラさんみたいな銀等級になって、貴女に相応しい男になります。だから……俺と、一緒になってくれませんか」
カイルはプリムを見た。いつも見せる真っすぐな視線に、これ以上ないほどの熱を込めて。
しかしプリムの視線は、いつの間にか先ほどまでカイルが見ていた、遥か遠くを見つめていた。
(——ミラさんのように、か)
プリムの胸に今朝の全能感とは違う、黒くドロドロとしたものが渦を巻き始めた。そして、その黒い渦の導くまま、言葉を発した。
「——カイルさん。心配なさらなくても大丈夫ですわ。銀等級どころか、それ以上にだって貴方はなれます」
プリムはカイルの目を見た。カイルが今まで見たこともない、深く強い瞳。慈愛と支配が混ざり合った、抗いがたい色。
「——なぜなら、貴方は私を選んだ。そして、私も貴方を選んだのだから。」
「プリムさん、何を…」
カイルの動揺を悟り、プリムは一瞬たじろぐ。だが、脳裏にミラの不敵な笑い顔が浮かび、対抗心が再び彼女の血を沸かせた。
「さあ、ともに歩みましょう。私は、プリムローズ=ランカスター。貴方を我が家へお迎えいたしますわ」
普段のプリムからは考えられない、朗々とした響き。その差し出された白肌の手が、夜の闇で不思議なほど白く、美しく。抗いがたい誘惑にカイルは思わず手を掴みそうになった。
しかし、カイルにはできなかった。
「——ちょ、ちょっと待ってくれよ。プリムさんは、つまり…貴族ってこと?」
聖母のような眼差しで、プリムは頷く。
「…ミラさんは、知ってるの、かい? それを」
「なぜ、いまそのお名前を出すの?」
プリムの声色は変わらない。なのに、その一言一言がカイルの心をひどく揺さぶる。まるで安心感を与えてくれない、高圧的な響きを含んでいた。
「貴方と私の話でしょう。ミラさんが入り込む余地なんて、少しもありませんのよ」
「そ、そうだけど…」
カイルはうなだれ、夜のとばりの中ではその表情は読み取れない。ただ震える声で小さくつぶやいていた。
「——俺は、ただ君と…二人で…子供も…普通に暮らして…」
「叶いますよ、すべて。だから…」
さあ、とプリムは再び手を差し出す。白磁のように思えたその手が、今は獲物を締め上げる蛇のようにうねり、自分のささやかな人生を丸呑みにしようとしているように見えた。
「……少し、考えさせてくれ。……ごめん!」
カイルはそれだけなんとか絞り出すと、脱兎のごとく駆け出した。
差し出された白く細いプリムの手が、行き場を失って虚空を彷徨う。
「……な、ぜ?」
ぽつりと、乾いた声が漏れた。
カイルがすべてを差し出そうとしたように、プリムも持てるものをすべて与えるつもりだった。なのに拒絶された。カイルの矛盾が、プリムにはおかしかった。
「……あ、あはは……」
引き攣った笑いが、夜風にさらわれて消える。
ふと、乱闘で腫れ上がった頬に指が触れた。ズキリとした鈍い痛みが、高揚し麻痺していた彼女の感覚を、急速に「現実」へと引き戻していく。
(……あ。わたくし、何を……?)
プリムの膝から力が抜けた。北区を隔てる高く冷たい城壁に背を預け、ずるずると石畳に崩れ落ちる。
その視線の先に、カイルが見ていた、ささやかな街明かりが目に留まった。彼が、プリムと共に築き上げようとしていた、ささやかな願いの光。
それを――自分はなんと言ったのか。
プリムは血の気くのを感じた。奥歯が小刻みに震え、カチカチと乾いた音を鳴らす。
「……待って。待ってください、カイル……っ!」
震える声で呼びかけても、応えるのは冷たい夜風だけだった。
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昨夜の喧騒が嘘のように、ギルドの空気は冷え切っていた。
プリムは昨夜、自分がどうやって帰路に就いたのかさえ記憶にない。ただ、泥のように重い意識の中でカイルの拒絶を反芻し、一睡もできぬまま朝を迎えた。
やつれた頬を隠そうと厚く塗った白粉は、隠しきれぬ疲労のせいで、まるで死化粧を施したような不気味な出で立ちとなっている。
エドワードは早朝からギルド職員をホールへ集めると、冷徹な光を眼鏡の奥で光らせた。
「——さて、審査の結果を告げよう」
静まり返ったホールに、乾いた声が排他的に響く。
背後にはガルドとネリーネ、そしてジュリアンとガルカス。あからさまに不機嫌なガルカスと対照的に、他の面々は石像のように静かにその時を待っていた。
「当初は数日を予定していたが、その必要はなくなった。昨日のあの一幕……神聖なるギルド職員である立場を忘れた、あの醜態こそが、この組織がいかに規律を失い、腐敗しているかの証左である」
エドワードの言葉が、プリムの死にかけていた精神と衝突する。
(違う。わたくしたちは、この場所を守りたくて……)
しかし言葉は口を出ず、幽霊のように立ち尽くしかできない。足元から力が抜けていく感覚に襲われる。プリムが膝を折るより早く、ミラがその細い肩を支えた。
エドワードは視線を巡らせ、厳しい表情でミラを見る。まるで獲物を見つけた猟犬が舌なめずりをするような、残酷な目だ。
「これは一重にギルド長の責任であり、また彼の矮小なる善意が呼び込んだ、一人の無法者が、諸君ら善良なる職員の業務を妨げた結果だと言わざるを得ない」
職員たちの視線が、冷たい礫となってプリムとミラへ突き刺さる。
エドワードは一度、楽しげに喉を鳴らした。そして、最後の一撃を振り下ろす。
「よって管理責任を問い、リガルド・ディミトリ・フォン・ゼーレヴェルトを即刻解任、追放とする」
ホールが騒然となる。常に冷静なネリーネですら、眉間に深い皺を刻み、突きつけられた現実に耐えるようにファイルを握りしめていた。
周りが騒然となる中、当のガルドはただ静かに瞼を閉じ、石造のように佇んでいる。
(……ああ。わたくしのせいだ)
プリムはもう、自分で自分を支える事が出来なくなっていた。
「待ってくれ!」
鼓膜を叩く鋭い声に、遠のきかけた意識が呼び戻される。
ミラはプリムから離れると、弾かれたようにエドワードの前に躍り出た。その切迫した叫びに、騒然としていたギルドが水を打ったように静まり返る。
そしてあろうことか、ミラは床に膝をつけると、強かに額を打ち付けた。
「オレが悪かった。昨日の事も、これまでの事も、全部オレが勝手にやったことだ。ガルドは散々注意したが、オレが聞かなかった。」
震えるミラの背中を見て、プリムは息を吸うことさえ忘れた。ミラは再度、頭を地面に打ち付けた。
「…オ…あたしが辞める。この街からも出ていく。だから、ガルドは見逃してやってくれないか…!」
「よさないか、ミラ。これは俺の失態だ」
ガルドの低い制止も、今の彼女には届かない。ミラは一向に頭を上げる気配を見せず、ただ床に額を押し当て続けていた。
だが、それを見下ろすエドワードの顔に浮かんでいたのは、吐き気を催すような「嫌悪」の表情だった。
「……不愉快だ。実に不愉快極まりない」
天から叩きつけるようなエドワードの声が、ミラの頭上に冷たく降り注ぐ。
「貴様のような野良犬が、彼の命運について、私と交渉できると本気で思っているのか? ギルドを辞める? 街を出る? ――その思い上がりこそ、私がもっとも忌むべきものだ!」
唾をまき散らさんばかりに、エドワードは感情を露わにし、激昂する。
「貴様の処遇は、追って指示する。勝手に自分の進退を決められるなどと思わぬことだ。……分を弁えろ!」
ミラは地面に頭をつけたまま、屈辱に肩を震わせる。視界の端で、瞑目していたガルドが、悲しげに一度だけ首を振るのが見えた。
(……ああ、もう、嫌だ)
積み上げてきたすべてが、自分の目の前で崩れていく。視界が急速に白濁していくのを感じながら、プリムの意識は、底の見えない闇へと、深く、深く落ちていった。




