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京忍び六人衆  作者: カキヒト・シラズ


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四人目 桜小路幸子

 次にご紹介するのはクノイチ、すなわち女忍者、桜小路幸子(さくらこうじさちこ)でございます。

 桜小路という姓からして先祖は公家なのでございましょうか。くわしいことは存じませんが、幸子の教養の高さ、立ち居振る舞いの上品さは、高貴な生まれの人に引けを取りません。

 また幸子はとても美しい女性です。そして美しいだけではなく、忍術、武術にも優れ、並みの殿方なら歯が立ちません。


 後水尾天皇が即位なされてからしばらくしますと、京忍びは総勢六十人ほどまで増えました。

 ただ常時宮中にいるのは十人にも満たず、残りは全国各地に散らばり、情報を収集しては時折宮中に報告に参上するといった感じでした。

 また京忍びはいつのころからか半数以上がクノイチでした。

 ”歩き尼僧”と呼ばれる尼僧の恰好をしたクノイチが全国行脚したり、尼寺を偽装した各地の忍者詰所に駐在したりして、朝廷のための工作活動をしていたのでございます。

 桜小路幸子もまた”歩き尼僧”です。


 さて、御所忍者頭は物部宿祢でございますが、幸子は京忍びのクノイチ頭を務めました。

 物部宿祢はとうに百歳を超える高齢ですが、いつまでも五十代の初老にしか見えません。

 同様に幸子は四十歳近いようなのですが、いつまでも二十代に見えます。

 数ある御所忍術の奥義に不老不死の術か妙薬があるのでは。このようなうわさを宮中ではよく耳にするところでございます。



 ところで後水尾天皇ほど徳川幕府を蛇蝎のごとくお憎み遊ばされた帝は後にも先にもございますまい。

 と申しますのも、徳川幕府から理不尽な嫌がらせや無理難題の申し出を次から次へとお受けになられたからでございます。


 そもそも徳川家康公を朝廷が正式に征夷大将軍に認めたときも物議を醸しました。

 征夷大将軍は源氏の血筋の家系しか認めない規則になっておりますが、徳川家は源氏の家系ではございません。

 しかしながら徳川家は素人が見ても捏造だとわかる稚拙な家系図を根拠に源氏の家系だと主張しました。

 当時、皇太子だった後水尾天皇はお顔を真っ赤になされて徳川家の要求に反対なさいましたが、清涼殿の廊下で皇太子殿下を右大臣と左大臣が必死でなだめているのを昨日のように覚えております。


 さて、前回のお話で、後陽成天皇が天海万作の息子で天皇家の血を受け継いでないことを説明いたしましたが、実はこの朝廷の機密を徳川幕府がかぎつけたのでございます。

 おそらく機密を暴いたのは伊賀忍者かと推測しています。

 徳川幕府はこの朝廷の機密を全国の大名に知らせない見返りにさまざまな要求をしてきました。

 禁中並公家諸法度の制定にはじまり、皇室の婚姻、帝の譲位と即位にも口を出し、京都所司代を通じて朝廷の活動を逐一監視する……。

 もし天皇家の血筋が断絶していることが世に知れたら、朝廷の権威と信頼は失墜します。そうならないためにも朝廷は徳川幕府の命令に従わなくてはなりません。


 そこで後水尾天皇は京忍びに命じ、徳川家の機密について調査するよう勅令をお出しになりました。

 徳川家にものっぴきならない秘密があった場合、それを世に公表しない条件として、朝廷の機密を幕府が公表できなくすることができます。つまり互いの機密を相殺し合うのです。

 幸子は”歩き尼僧”になって江戸に出かけました。

 どのような方法で幸子が情報収集するのか具体的にはわかりません。ただうわさでは女の武器を使い、色仕掛けで殿方を誘惑し、情報を聞き出したり、便宜をはからせたりするのだそうです。

 かくして数か月後、幸子は徳川幕府存亡にかかわる重大な機密を入手してきました。


 実は慶長五年(1600年)、関ケ原の戦いで本物の徳川家康公は戦死していました。

 ところが家康公の影武者だった世良田二郎三郎元信という男が家康に成り済ましたのです。

 二代目将軍、秀忠も世良田が本物を暗殺し、自分の息子と入れ替えました。

 世良田は貧しい階層の生まれです。その世良田が徳川幕府を実質的に仕切っていました......。


 正月に朝廷の勅使が新年の挨拶の名目で江戸城を訪れますが、このときに後陽成天皇の出自と世良田の成りすましの話と引き換えにする交渉をすべく、物部宿祢が同行することになりました。

 その後、交渉は無事成功し、朝廷と幕府の関係は大きく改善されたと聞いております。


 それにせよ……朝廷せよ幕府にせよ、本来、当主になってはならない血筋の輩が真実を隠蔽し、虚偽の情報で人民をだまして支配している……。

 権力の世界はかくも醜くおぞましいものなのでございましょうか。




 ある日のことでございます。

 私は反物を運ぶ用事を終え、清涼殿の廊下を歩いておりました。

 寝室から声が聞こえましたので、ふと振り向きますと、襖の隙間から後水尾天皇と幸子が一つの布団で寝ているのが目に入りました。

 見てはいけないものを見たと思い、そそくさとその場を立ち去ろうといたしました。

「清子、こっちに来なさい」

 陛下のお声がします。

 心臓の鼓動が高鳴ります。

「はい、ただ今参ります」

 私は立膝をついて襖を開け、部屋の中に入ります。

 幸子は浴衣を急いで着ると、「ごゆっくり」と意味深な笑みを私に浮かべ、部屋を後にします。

 布団のから半身起こされた陛下は裸でいらっしゃいました。

「清子、こっちじゃ」

 私は陛下がおしゃるまま、そばに近づきます。

「清子は今、いくつになる」

「はい、数えで十八でございます」

 すると陛下は私の頭を愛おしそうに数回お撫でになります。

「陛下、なにをなされるのでしょう」

 しかし陛下はお答えなさらず、私の服をお脱がしになり、布団に入るようおっしゃいます。


 宮中には”お手付き女房”という言葉があり、江戸城大奥には”お手付き女中”という言葉がございます。

 ”英雄色を好む”と申しますが、地位の高い殿方ほど普通の殿方より精力がお強く、周囲にいる多くの女を好んでたしなまれるという意味でございましょう。

 采女の身分の私めが”お手付き女房”になるのは宮中の常識では名誉なこととされておりますが、それでも殿方とまぐわうのははじめての私としましては、少しおそろしい思いでございました。

 乙女心がかたくなに(みさお)を守ろうとするからでございます。


 その日、私は自分の寝室に戻り、一人で泣いていました。

 その後もしばしは夜になると後水尾天皇から寝室に誘われることがありましたが、もう泣くことはありませんでした。

 陛下とこのような関係を続けていくうちに、気がつけば腹に赤子を宿しておりました。

 このことを後水尾天皇に申し上げると、ことのほかお喜びになられました。

 しばらくして私は女児を無事に出産しました。赤子には興子(おきこ)と名付けました。

 私は朝廷の許可を得て、興子を宮中で育てることにいたしました。


(つづく)

 

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