二人目 天海万作
次にご紹介いたします京忍びは、天海万作でございます。
物部宿祢を御所忍者頭に起用し、京忍びを育成してから十年後ぐらいのお話しでございます。
これもまた正親町天皇の御世の時代でございますから、私はまだ生まれていません。
ところで宮中での天海万作の評判は様々でございます。
ある廷臣は天海万作こそ、史上最強にして最高の御所忍者と賞賛するかと思えば、別の女官は万作は京忍びとして最低最悪の逆賊だと毛嫌いします。
はたして万作は最高なのか最低なのか。いずれにしましても万作を人並みの普通の忍者だと評する者は宮中にいないようでございます。
そのころ、織田信長という世にもおそろしい戦国武将が天下を跳梁跋扈しておりました。
”天下布武”などという標語を掲げ、朝廷をも支配下に置くような勢いで信長公は武力で世の中を統一していきました。
信長公は戦の天才でございます。数多くの戦国大名が戦で信長公に敗北し、降参し、征服されていきました。
桶狭間の戦い。長篠の合戦。姉川の戦い……。信長公の武勲をすべて語るには枚挙にいとまがございません。
正親町天皇はことのほか信長公を嫌悪されておられましたが、右大臣、左大臣が陛下をなだめ、表面上は信長公と和睦し、恭順の意を示して取り繕うことを進言申し上げました。
信長公を怒らせ、朝廷を武力で攻めてきたら、ひとたまりもございません。
そこで信長公の指示通り、朝廷は信長公の戦を含む諸活動に勅令を与えて正当化し、その見返りに信長公から贈与の名目で資金援助を受けました。
当時、財政的にひっ迫していた朝廷にとり、これはありがたい話ではありました。
こうして朝廷と信長公は共存共栄を続けていたのでございます。
しかしながらあるとき、正親町天皇はとうとう堪忍袋の緒をお切りになられました。
もとより右大臣、左大臣の進言で仕方なく信長公にお従いなされてきましたが、ついに業を煮やされたのでございましょう。
大広間に京忍びを全員お集めになり、信長公暗殺の勅令を出されたのでございます。
御所忍者頭の物部宿祢は最後まで信長公の暗殺に反対でしたが、陛下のご決意はおかわりありません。
すると京忍びの青年、天海万作が名乗り出ました。
信長公暗殺の大役はぜひ自分にやらせてほしいと万作は進言したのでございます。しかも足手まといになるから、他の京忍びの助太刀は不要で自分一人でやらせてほしいとのこと。
他に名乗り出る者がなかったので、万作の希望通りにことが運びました。
作戦では、信長公を本能寺で暗殺し、同時に下手人は明智光秀の軍勢だと世に吹聴し、朝廷は一切関係ないよう偽装することになりました。
信長公暗殺自体は万作一人の仕事。
豊臣勢などに「下手人は明智」という偽情報を流す工作は物部宿祢ら複数の京忍びが引き受けました。
もともとこの天海万作ですが京忍びになった経緯が訳ありでございます。
昔、一人の少年のコソ泥が清涼殿に忍び込み、警護をしていた滝口武者たちに掴ましました。少年は猿のようにすばしっこく、捕まえるまでかなりてこずったとの話でございます。
本来ならコソ泥は死罪になるところでしたが、物部宿祢が少年を自分に預けてほしいと陛下に懇願しました。
宿祢の見立てではこの少年は天性の運動神経を備えており、自分が更生させて指導すれば極上の忍術使いになるはずだと主張しました。
宿祢の熱心さにお心をお打たれになられた陛下は、少年の身柄を宿祢にお引渡しになられました。
この少年が天海万作です。
万作は鞍馬山の道場で修行を積み、青年になるころには師匠、物部宿祢をも凌駕するような凄腕の忍者に成長しました。
こうして天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変が決行されたのでございます。
天海万作が本能寺を放火し、家人があわてふためいているすきに、屋内に侵入。寝起きの信長公を殺害しました。
それから数日後、万作は信長公の首を持って清涼殿大広間に現れました。
正親町天皇が床の間のそばの厚畳の上にお座りになり、廷臣と女官が左右に座しています。
陛下に対座した万作が桐の箱から生首を取り出すと、女官たちが悲鳴を上げます。
「あっぱれじゃ、万作」
陛下がのたまいます。
「褒美をとらせる。なんでも好きなものを与えよう。なにがほしい。なんなりと申せ。
金銭がほしいか。官位がほしいか。それとも領地がほしいか」
「おそれながら」
万作が言います。
「金銭も官位も領地もいりませぬ。
ただ皇太子妃、晴子妃殿下をわが妻に所望いたします」
大広間がにわかにざわめきたちます。
他人の人妻がほしいと考えるだけでも人の道にはずれた行為でございますが、ましてや忍者の身分の人間が恐れ多くも皇族の妻を所望するなど、言語道断でございます。しかも万作にはすでに妻がおり、赤子の息子もおりました。
正親町天皇の嫡男、誠仁親王の妃、晴子妃殿下はひときわ美しいお方で、その当時、宮中の殿方はだれしもお慕い申し上げているとのうわさでございました。
しかし心でひそかに思いをよせるのと、実際に妻にしてしまうのとでは、天と地ほどの違いがございます。
「謀反じゃ、だれかこの者をひっ捕らえよ」
陛下がのたまうと、警護の滝口武者が数人、万作を捕らえにやって来ました。
万作は素早く立ち上がり、滝口武者たちを投げ飛ばし、その場を走り去りました。
滝口武者に加え、他の京忍びたちも万作を追いかけましたが、御所の外に逃げられてしまいました。
しばらくすると青ざめた顔をした女官が小走りで大広間に現れました。
「申し上げます。晴子妃殿下が何者かに連れ去られました」
その日から天海万作と晴子妃殿下の二人の行方はわからず、朝廷の懸命な捜索にも関わらず、手がかりさえつかめぬまま時間が過ぎていきました。
しかしながら、半年後、晴子妃殿下が納屋でお休みになっているところを滝口武者の一人が見つけました。
幸いなことに晴子妃殿下はお怪我も病もありませんでしたが、お腹に赤子をお宿しになっておられました。
天海万作の方はそれから現在に至るまで行方不明でございます。
一説によりますと、万作は徳川家に雇われ、天海僧正になったとのことでございますが、真偽のほどはわかりません。
天海僧正は言わずと知れた徳川幕府を陰で支える参謀でございます。いかにも万作らしい狡猾な役どころだと思ってしまうのは私だけでしょうか。
(つづく)




