消えゆく街並み
街は、ある日を境に突然消えるわけではない。
音が一つ減り、灯りが一つ消え、名前を呼ぶ声が聞こえなくなる。その積み重ねの先で、人はふと「街がいなくなった」と気づく。
かつてここには、年の瀬の空気があり、子供の手を引く大人の足取りがあり、理由もなく立ち寄る店があった。
記憶の中では今もざわめいているその街は、現実では静かに息を潜めている。
これは、消えゆく街を歩いた一日の記録である。
そして、何も起こらなかったように見えるその時間の中で、確かに起こっていた「変化」の物語でもある。
「そっ其処の信号を右に曲がって」
私はそう言ってから、足を止めた。
隣を歩く小学生の子どもが、不思議そうにこちらを見る。信号は確かにそこにある。赤と青を律儀に繰り返しながら、何事もなかったように立っている。だが、私が言い淀んだのは信号の位置ではない。その先にあったはずのものを、どう説明すればいいのか分からなかったのだ。
私が小学生だった頃、この道はいつも人で溢れていた。学校帰りの子ども、買い物袋を下げた主婦、仕事帰りの大人たち。夕方になると、揚げ物の匂いと人の声が混ざり合い、街全体がざわめいていた。
年の暮れが近づくと、母に手を引かれてこの通りを歩いた。正月に着る新しい服を買うためだ。バーゲンセールの貼り紙が店先に並び、試着室の前では順番待ちの列ができていた。鏡の前で母が「少し大きめにしておこうか」と言い、私は袖を引っ張りながら頷いた。その記憶だけが、今も妙に鮮明だ。
だが今、シャッターはすべて下りている。色褪せた看板だけが、かつての店の名前を辛うじて伝えている。人の声はなく、足音だけがやけに響く。
「ここ、何があったの?」
子どもが聞く。
「……服屋だよ。お正月の服を買いに来た」
「ふうん」
興味は長く続かない。知らないものは、想像しづらいのだろう。
しばらく歩くと、一軒の小さな本屋が見えてきた。古いガラス戸の向こうに、背の低い本棚が並んでいる。灯りがついているのを見て、私は思わず足を止めた。
「まだ、やってる……」
子どもの頃、ここで漫画を一冊ずつ買った。新刊ではなく、少し前の巻。店主のおじさんは、いつも無言で袋に入れてくれた。それだけの関係だったのに、この店が残っていることが、なぜか胸に迫る。
大型書店が街から姿を消し、駅前のビルさえ入れ替わっていく時代だ。なぜ、この小さな店だけが生き残っているのか。理由は分からない。ただ、必要とする人が、まだどこかにいるのだろう。
本屋を過ぎると、今度は小さな玩具店があった。ガラスケースの中に、色あせたプラモデルやコマが並んでいる。営業しているのかどうかも分からない。それでも看板は下ろされていない。
「おもちゃ屋さんだ」
子どもが少し声を弾ませる。
「そうだよ。昔はね、ここも人がいっぱいだった」
私はそう言いながら、どこか他人事のように感じていた。この街は、私の知っている街ではもうない。それでも、完全に消えたわけでもない。記憶と現実の間で、かろうじて形を保っている。
人々はどこへ行ってしまったのだろう。賑わいは、声は、あの年の暮れの熱気は。
答えは分からない。ただ、街は静かに役目を終えようとしているのかもしれない。
「ねえ、次はどこ?」
子どもが私の手を引く。
「……もう少し先まで行こうか」
信号を渡りながら、私は振り返らなかった。
消えゆく街並みは、追いかけるものではなく、胸の奥にしまっておくものだと、ようやく分かり始めていた。
通りの先は、ゆるやかに坂になっていた。子どもの歩幅に合わせて歩くと、時間まで少しだけ昔に戻ったような気がする。
「この坂、長いね」
「前はね、ここに露店が並んだ」
私が言うと、子どもは目を丸くした。
「お店が? ここに?」
「そう。夏祭りのときだけだけど」
坂の途中、舗装が新しくなった箇所で、私は足を止めた。以前はそこに小さな広場があり、提灯が吊られ、太鼓の音が夜まで続いた。金魚すくいの水の匂い、焼きとうもろこしの甘さ。名前を呼ぶ声が、あちこちから飛んでいた。
今は、駐車場だ。白い線が引かれ、番号が振られている。どの番号にも、思い出は割り当てられていない。
「ここで、何してたの?」
「迷子になった」
思わず笑ってしまった。子どもは驚いた顔をする。
「泣いた?」
「泣いた。母さんが見つけてくれて、すごく怒られた」
怒られた記憶より、見つけてもらえた安堵の方が、今でもはっきりしている。人が多かったから、迷子になれた。人が多かったから、見つけてもらえた。
坂を上り切ると、風が変わった。少し冷たい。遠くで電車の音がした。線路沿いには、新しい建物が並んでいる。どれも同じ高さで、同じ色をしていた。
「同じに見えるね」
子どもが言う。
「同じにしておくと、迷わないからね」
そう答えながら、私は違う理由を思っていた。同じにしておくと、失われたものが目立たなくなる。比べる対象が消えれば、悲しみも薄まる。
帰り道、さっきの本屋の前をもう一度通った。ガラス戸が少し開いていて、店主が棚を拭いているのが見えた。私たちに気づくと、軽く会釈をする。
「入ってみる?」
子どもがうなずいた。
店内は静かで、紙の匂いがした。新刊もあれば、背表紙の色が褪せた本もある。私は無意識に、子どもの頃に買った漫画の棚を探した。棚は違う場所に移っていたが、同じ巻が、同じ順番で並んでいた。
子どもは一冊の本を手に取った。表紙を撫でるようにして、私を見る。
「これ、面白そう」
「それにしよう」
レジで会計を済ませると、店主は本を紙袋に入れ、輪ゴムで留めた。その手つきが、昔と変わらないことに気づく。
店を出ると、夕方の光が街に落ちていた。シャッターの隙間に、細い影ができる。
「また来ようね」
子どもが言った。
「……そうだね」
本屋も、玩具店も、いつまであるかは分からない。街はこれからも変わり続けるだろう。それでも、今日の一冊が、この街と子どもを、細い糸で結んだ気がした。
私はもう一度、あの信号を振り返った。右に曲がる理由は、もうない。けれど、まっすぐ進む理由が、ひとつ増えた。
消えゆく街並みは、静かに暮れていく。
その中で、確かに残るものもあると、私は初めて信じられた。
【終】
この作品は、かつて賑わっていた街を歩いたときに感じた、素朴な違和感や寂しさから生まれました。特別な事件が起こるわけではありませんが、日常の中でふと立ち止まり、過去と現在を見比べたときに誰もが覚える感情を描けたらと思い、筆を取りました。
街は時代とともに姿を変え、人の流れや暮らし方も変わっていきます。その変化は自然なことであり、避けられないものでもあります。それでも、かつてそこにあった賑わいや、人と人との距離の近さを思い出すことには、意味があるのではないでしょうか。
この物語が、読んでくださった方それぞれの記憶の中にある「街」を思い出すきっかけになれば幸いです。




