第八話 春の約束
春の京都。
鴨川沿いは満開の桜で染まっていた。
風が吹くたび、花びらが光をまとい、空に舞う。
紗季は橋の上で立ち止まった。
腹の奥に、小さな命の気配を感じていた。
まだ誰にも言っていない。
でも、その鼓動は確かにそこにあった。
「……紗季さん。」
振り向くと、神谷蓮が立っていた。
柔らかな風の中で、黒髪が少し揺れている。
「見てください。」
紗季が指さす先で、
桜の花びらが水面に散り、ゆっくりと流れていく。
「春って、少し切ないですね。」
「そうですね。終わりと始まりが、同じ場所にある。」
蓮は笑いながら、そっと紗季の手を取った。
その手は、少し冷たくて、でも確かに温かかった。
「この春、僕はまたひとつ約束をしたい。」
「……約束?」
「あなたと、この子を守ることです。」
紗季は息をのんだ。
「どうして……そんなふうに言えるんですか?」
蓮は少し空を見上げてから、静かに言った。
「嘘のない人生を、生きたいから。」
その一言に、胸がいっぱいになった。
涙がこぼれ、頬を伝って落ちた。
蓮は、笑ったまま手を伸ばし、
彼女の涙を指でそっと拭った。
「あなたが泣くと、春の光まで滲んで見えます。」
「……ごめんなさい。」
「いいえ。泣いていいんです。
嘘のない涙は、いちばん美しいから。」
ふたりの間に、風が流れた。
川の音、鳥の声、そして無数の花びら。
紗季は、蓮の胸に額を寄せた。
心臓の鼓動が、彼の鼓動と重なった。
「これから先、何があっても、
私はもう、嘘をつかずに生きたい。」
蓮はゆっくりとうなずいた。
「それが、一番の愛の形だと思います。」
空を見上げると、
花びらが光の中で輪を描いていた。
——人は、誰かを愛して初めて、
“嘘のない人生”を生きようとする。
春の風が、二人の髪をやさしく撫でた。
桜が川を渡り、光の中に溶けていく。
それは終わりではなく、始まりの約束。
そして、静かな永遠の愛のかたち。




