第六話 崩れていく日常
冬の終わり。
窓の外で、灰色の空が重たく垂れ込めている。
紗季は、テーブルの上に置いたスマートフォンを見つめていた。
画面には、桐原悠真からのメッセージ。
『今夜、時間ある? 食事でもどうかな。』
八年の間に、何度も繰り返された言葉。
恋の始まりではなく、惰性の誘い。
それでも断れなかったのは、彼が“医師”だからではない。
ただ、自分が誰かに必要とされているような錯覚を
手放すのが怖かったのだ。
けれど今は、違っていた。
紗季は指先でゆっくりと文字を打った。
『ごめんなさい。今日はやめておきます。』
送信ボタンを押した瞬間、
胸の奥に小さな痛みと、ほんの少しの解放感が走った。
夜、電話が鳴った。
悠真の声は低く、疲れていた。
「最近、どうしてる?」
「仕事も辞めて、少し休んでます。」
「そうか。……俺のこと、避けてる?」
返事をする前に、
彼のため息が受話器越しに聞こえた。
「正直に言って。
別の誰かがいる?」
紗季は目を閉じた。
嘘をつけば、すぐに元の関係に戻れる。
でも、それを選ぶ自分をもう、愛せなかった。
「……いるの。」
「そう。」
短い沈黙。
それは怒りではなく、終わりを受け入れる静けさだった。
「その人を、大切にできるか?」
「はい。」
「なら、もう俺が言うことはない。」
通話が切れたあと、
紗季の手が震えた。
涙は出なかった。
悲しみよりも、ようやく自分の足で立てたような
不思議な安堵が胸の奥に広がっていた。
夜の窓の向こうでは、
春を待つ風が、街をやさしく撫でていた。
—嘘のない選択は、いつだって痛い。
けれど、その痛みこそが生きている証だった。




