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第一話 十一月の夜、バーにて
京都の夜。
退職して二ヶ月。紗季はひとり、カウンターでグラスを傾けていた。
仕事を手放してから、世界の音が少し遠くなった気がする。
ふと、隣に座った男がグラスを倒した。
琥珀色の液体がスカートにかかり、冷たさが肌に染みた。
「すみません……!」
焦った声に、紗季は小さく笑った。
「大丈夫。派手にやられましたね。」
男は慌ててハンカチを差し出した。
その手からふわりと香ったのは、ウイスキーと柑橘が混ざったような香り。
「……神谷蓮といいます。ほんとにすみません。」
「佐倉紗季です。お気になさらず。」
蓮。
どこかで聞いたことがある名前だと思ったが、思い出せなかった。
店を出たとき、冷たい風が髪を揺らした。
その香りがまだ胸の奥に残っていた。




