『吾輩はワイである』
本作は、夏目漱石『吾輩は猫である』をオマージュとしたパロディ作品です。
漱石が描いた「猫」と「書斎」の世界観を、現代の「Web小説」と「創作者の葛藤」に置き換えることで、過去と現在をつなぐ物語として仕上げました。
偉大なる原作に敬意を表しつつ、創作の楽しさと哀しみを、少しでも読者の皆さまと共有できたら幸いです。
吾輩はワイである。名前はあるが知名度はまだない。
どこで産声を上げたかはっきりとは分からぬ。何でもWeb小説投稿サイトの片隅で、ぽつりぽつりとキーボードの音に合わせて形作られていったことだけは覚えている。吾輩はそこで初めて「読者」というものを見た。しかもあとで知ったことだが、それは常にスコアやいいね数で我々の価値を判定する、恐るべき存在であった。
読者という種族は、時に気まぐれで、そして正直である。面白くなければ即ブラウザバック。感動すればブクマを与える。だがその感情の振れ幅たるや、まるで春先の天気のようである。吾輩はそこで、創作という運命の波に巻き込まれることとなった。
最初に目を覚ました時、吾輩はまだタイトルすら与えられていなかった。仮タイトルは「未定」。アイコンもなし。ジャンルは一応「ファンタジー」となっていたが、どこか頼りない。タグもあやふや。「剣と魔法」「異世界」「成長」「ハーレム(予定)」といった、よくあるものばかりが並んでいた。
吾輩を作ったのは、一人の物書きだった。筆名はまだない。だが、熱意だけはあった。毎夜、眠気と戦いながら、ポメラに打ち込む指の音が響く。彼は物語を語ろうとしていた。誰にも気づかれずとも、誰かに届くかもしれないという夢にすがって。
ワイはまだ第一話がほぼ書き終わった頃だった。公開ボタンにはまだ指をかけていない。けれど、プレビューを何度も押し、1分おきにアクセス解析を開いてしまう。もちろん何の反応もあるはずがない。……そう、“初心者あるある”の前夜祭だ。
その後もワイは毎晩、彼の画面の中で過ごすようになった。時計の針が午前2時を回っても、なお彼は悩んでいる。「この表現、くどいかな……」「セリフ、もう少し短くするか……」「“俺TUEEE”展開、入れとくか……」――ワイは物語の一部として、彼の迷いと共に成長していった。
やがて、ある夜。
ワイにとって、初投稿はまるで崖の上のバンジージャンプだった。安全装備も確認しないまま、飛ぶのか? 本当に? と問い続ける自分がいた。けれど、やがて手は勝手に動き、「公開する」を押してしまっていた。
投稿されたページがブラウザに映るとき、ワイはしばし呆然とした。文字という姿を与えられた、自分の何かが、ネットの海へと放たれた瞬間だった。
そして……そこには静寂があった。
投稿したその晩は、布団に入っても目が冴えていた。読まれるのだろうか、埋もれるのだろうか、果たして誰かの目に留まるものなのだろうか――などと、考えても詮ないことを巡らせては、天井のシミに向かって深呼吸を繰り返した。
夜中、スマホを手にした回数、八回。ひとつも通知は来ていなかった。そりゃそうだ。世の中、そんなに甘くない。新着だけでも数百作品がひしめくこの海で、たったひとりの自作が目立つはずもない。
そして、三日目の朝。
ワイは初めて「感想欄」というものに出会った。
「面白かったです! 続き楽しみにしてます!」
たった一文だった。だが、それはワイの世界を変えた。彼も泣いた。静かに、鼻をすすりながら、もう一話だけ書いてみようかとポツリ呟いた。たった一人でも、誰かが読んでくれている。それがワイにとっての「生きる意味」になった。
吾輩――いや、ワイは思うのだ。この活動、思いつきではない。たしかに、気まぐれに始めたように見えるだろう。だが、心のどこかにずっと燻っていたのだ。何かを「書きたい」、いや、「遺したい」という衝動が。
何がどうというわけでもないが、日々の生活にひとつ、名もなき「叫び」が潜んでいるような気がしていた。それを誰かに聞いてほしかったのかもしれないし、ただ静かに文字へと昇華させたかっただけかもしれない。いずれにせよ、言葉にしなければ胸の奥がうずくのだ。
そうしてワイはキーボードに手をかけた。最初の一文字を打つ。カチッと響く音が、まるで世界への扉を開く鍵のようだった。
……が、そこからが長い。何度もタイトルで手が止まり、プロローグを書いては消し、改行だけして「保存」したことも数知れず。
よく言うではないか。初心者は一分ごとに「公開するか悩む」と。
――公開ボタンにカーソルを合わせては、そっとどける。
――「これでいいのか」と首を傾げ、冒頭を読み返しては「よくない」とつぶやく。
――改行位置を一文字ずらし、セリフの句読点を変える。
――タグを見直して「これは釣りっぽいかも」と悩む。
――ついでに他の作家のPVを見て、静かに心を折られる。
だが、そんな些細な迷いも、積み重なればやがて「推敲」という名の儀式となる。たとえ一行の修正でも、その向こうに「誰か」が読むかもしれないと思うと、いい加減にはできない。
評価も、ランキングも、PVも――確かに嬉しい。でも、最初に湧きあがった、あの「書いてみたい」という衝動。
それを、また掬い上げようと思った。
その夜、ワイは1話だけ続きを書いた。何日かかってもいい。ただ、あのときの自分に、胸を張れるものを書こうと決めた。
そしてワイは、今日もまた、誰にも気づかれず、画面の向こうで紡がれている。評価も、ランキングも、もう気にならない。なぜなら、ワイはただ、書かれている。その事実だけで、十分に満たされているのだから。
──完。
夏目漱石の原作(明治期の作品)はすでに著作権切れ(パブリックドメイン)となっており、パロディや引用の制限はありません。
※これは、全Web作家の“ワイ”の記録でもある。