表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『吾輩はワイである』

作者: 田波 霞一

本作は、夏目漱石『吾輩は猫である』をオマージュとしたパロディ作品です。

漱石が描いた「猫」と「書斎」の世界観を、現代の「Web小説」と「創作者の葛藤」に置き換えることで、過去と現在をつなぐ物語として仕上げました。

偉大なる原作に敬意を表しつつ、創作の楽しさと哀しみを、少しでも読者の皆さまと共有できたら幸いです。


 吾輩(わがはい)はワイである。名前はあるが知名度はまだない。

 どこで産声を上げたかはっきりとは分からぬ。何でもWeb小説投稿サイトの片隅で、ぽつりぽつりとキーボードの音に合わせて形作られていったことだけは覚えている。吾輩はそこで初めて「読者」というものを見た。しかもあとで知ったことだが、それは常にスコアやいいね数で我々の価値を判定する、恐るべき存在であった。


 読者という種族は、時に気まぐれで、そして正直である。面白くなければ即ブラウザバック。感動すればブクマを与える。だがその感情の振れ幅たるや、まるで春先の天気のようである。吾輩はそこで、創作という運命の波に巻き込まれることとなった。


 最初に目を覚ました時、吾輩はまだタイトルすら与えられていなかった。仮タイトルは「未定」。アイコンもなし。ジャンルは一応「ファンタジー」となっていたが、どこか頼りない。タグもあやふや。「剣と魔法」「異世界」「成長」「ハーレム(予定)」といった、よくあるものばかりが並んでいた。


 吾輩を作ったのは、一人の物書きだった。筆名はまだない。だが、熱意だけはあった。毎夜、眠気と戦いながら、ポメラに打ち込む指の音が響く。彼は物語を語ろうとしていた。誰にも気づかれずとも、誰かに届くかもしれないという夢にすがって。


 ワイはまだ第一話がほぼ書き終わった頃だった。公開ボタンにはまだ指をかけていない。けれど、プレビューを何度も押し、1分おきにアクセス解析を開いてしまう。もちろん何の反応もあるはずがない。……そう、“初心者あるある”の前夜祭だ。


 その後もワイは毎晩、彼の画面の中で過ごすようになった。時計の針が午前2時を回っても、なお彼は悩んでいる。「この表現、くどいかな……」「セリフ、もう少し短くするか……」「“俺TUEEE”展開、入れとくか……」――ワイは物語の一部として、彼の迷いと共に成長していった。


 やがて、ある夜。

 ワイにとって、初投稿はまるで崖の上のバンジージャンプだった。安全装備も確認しないまま、飛ぶのか? 本当に? と問い続ける自分がいた。けれど、やがて手は勝手に動き、「公開する」を押してしまっていた。

 投稿されたページがブラウザに映るとき、ワイはしばし呆然とした。文字という姿を与えられた、自分の何かが、ネットの海へと放たれた瞬間だった。


 そして……そこには静寂があった。

 投稿したその晩は、布団に入っても目が冴えていた。読まれるのだろうか、埋もれるのだろうか、果たして誰かの目に留まるものなのだろうか――などと、考えても詮ないことを巡らせては、天井のシミに向かって深呼吸を繰り返した。


 夜中、スマホを手にした回数、八回。ひとつも通知は来ていなかった。そりゃそうだ。世の中、そんなに甘くない。新着だけでも数百作品がひしめくこの海で、たったひとりの自作が目立つはずもない。


 そして、三日目の朝。

 ワイは初めて「感想欄」というものに出会った。

「面白かったです! 続き楽しみにしてます!」


 たった一文だった。だが、それはワイの世界を変えた。彼も泣いた。静かに、鼻をすすりながら、もう一話だけ書いてみようかとポツリ呟いた。たった一人でも、誰かが読んでくれている。それがワイにとっての「生きる意味」になった。


 吾輩――いや、ワイは思うのだ。この活動、思いつきではない。たしかに、気まぐれに始めたように見えるだろう。だが、心のどこかにずっと燻っていたのだ。何かを「書きたい」、いや、「遺したい」という衝動が。


 何がどうというわけでもないが、日々の生活にひとつ、名もなき「叫び」が潜んでいるような気がしていた。それを誰かに聞いてほしかったのかもしれないし、ただ静かに文字へと昇華させたかっただけかもしれない。いずれにせよ、言葉にしなければ胸の奥がうずくのだ。


 そうしてワイはキーボードに手をかけた。最初の一文字を打つ。カチッと響く音が、まるで世界への扉を開く鍵のようだった。


 ……が、そこからが長い。何度もタイトルで手が止まり、プロローグを書いては消し、改行だけして「保存」したことも数知れず。


 よく言うではないか。初心者は一分ごとに「公開するか悩む」と。

 ――公開ボタンにカーソルを合わせては、そっとどける。

 ――「これでいいのか」と首を傾げ、冒頭を読み返しては「よくない」とつぶやく。

 ――改行位置を一文字ずらし、セリフの句読点を変える。

 ――タグを見直して「これは釣りっぽいかも」と悩む。

 ――ついでに他の作家のPVを見て、静かに心を折られる。


 だが、そんな些細な迷いも、積み重なればやがて「推敲(すいこう)」という名の儀式となる。たとえ一行の修正でも、その向こうに「誰か」が読むかもしれないと思うと、いい加減にはできない。


 評価も、ランキングも、PVも――確かに嬉しい。でも、最初に湧きあがった、あの「書いてみたい」という衝動。

 それを、また掬い上げようと思った。


 その夜、ワイは1話だけ続きを書いた。何日かかってもいい。ただ、あのときの自分に、胸を張れるものを書こうと決めた。


 そしてワイは、今日もまた、誰にも気づかれず、画面の向こうで紡がれている。評価も、ランキングも、もう気にならない。なぜなら、ワイはただ、書かれている。その事実だけで、十分に満たされているのだから。


 ──完。

夏目漱石の原作(明治期の作品)はすでに著作権切れ(パブリックドメイン)となっており、パロディや引用の制限はありません。


※これは、全Web作家の“ワイ”の記録でもある。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ