第71章:結界
夜の帳が山肌を覆い、風が冷たく唸る中、一行はついにザイロスの潜伏地の直前まで辿り着いた。
視界の先には黒爪のように尖った岩峰が連なり、その谷間に薄い闇が淀んでいる。空気は重く、石の色までが吸い込まれるかのように鈍く見えた。
「ここらしいな」
レイは立ち止まり、周囲をぐるりと見渡す。いつもの無表情だが、瞳の奥は鋭く光っている。感覚はヴァルゼリオから教わった強化型の気配察知によって既に張り巡らされている。魔力の流れ、結界の余波、土の匂い、風に混じる瘴気――あらゆる情報が彼の意識の中で同時に鳴っていた。
セラはレイの隣で短く息を整え、静かに囁く。
「危険な気配が強いわ。普通の魔力とは違う……」
ミナは眉を寄せ、耳を立てる。
「うーん、こっちの毛が総立ちする感じ。獣の直感だと『戻れ!』って言われてるけど、今日は聞かないよ」
ヴァルゼリオは悠然とした顔であたりを見回し、片手で小さな火花を弄りながら言った。
「結界が張られてるな。古い魔術の匂いもする。あの手の結界は、正面突破は無理だぜ」
その言葉に、一行は改めて緊張を強める。確かに、谷の入口に沿って淡い光の帯が幾重にも重なり、薄い膜のように空間を隔てていた。肉眼では流動する光と見るよりほかないが、レイの感知ではそれが複雑な紋様で構成された「意図ある障壁」であることが確かめられた。
「入れないってわけじゃない。けど、正面からぶつかるとたぶん弾かれるか、肉体ごと消されるかだ」
ヴァルゼリオが肩を竦める。そこには彼の昔馴染みの戦場感覚と、どこか冷めた笑いが混ざる。
レイは結界を見据え、静かに立ち上がった。
「見える。結界は多層で、外縁は闇属性の収束と光の反射で強化されてる。内側には時間の歪みを利用した拘束域がある」
セラが息を飲む。
「時間の歪み……触れたら数分が何時間にも感じられるやつ?」
「そうだ。だから正攻法で粉砕するのは無理だ。だが、方法はある」
レイの声は低いが確信に満ちていた。仲間たちは自然と彼に視線を寄せる。
「どうする?」とミナ。雷のように直接的だ。
レイは小さく笑って見せた。
「結界の“繋ぎ”を見つけて、そこに特殊な干渉を起こす。単純に破壊するんじゃない。向こう側の法則で展開された術式に、こっちの法則をねじ込んで崩すんだ」
ヴァルゼリオが手を叩いたように笑った。
「おお、相変わらず独創的だな。やってみろ、人間」
まずはレイが感知を最大に広げ、結界の構造を細部まで読み解いていく。あたかも微細な蜘蛛の巣のように、意匠と術式が重なり合っている。彼の頭の中では、幼少期に遊びとして触れた錬金と空間魔法、そして最近完成させた闇と風の“圧縮”術が一つの道筋を描いていく。
「核が三つ……互いに位相をずらして共鳴させることで、結界を持続している」
レイは指で空中に小さな符をなぞると、詠唱なしで魔力を形にしていった。彼の手先から放たれる光は柔らかく、結界の縁に触れる寸前で薄く震える。
「まずは外側を触れる。直接破壊せず、局所的に『逆位相』を埋めていく。要するに、その結界が振動する周波数をこちらで打ち消すんだ」
ミナとセラが一歩下がって見守る中、レイは錬金で調合した小さな石を取り出した。それはただの鉱石に見えるが、そこへ彼は微細な闇の渦を一点集中で注入し、さらに風の流れでその闇を“ねじる”。結果、石は小さく揺らぎながら漆黒の膜を纏う。
「これを結界の鍵の近くに埋め込む。空間の裂け目に干渉して、局所的に位相を逆転させる」
ヴァルゼリオは眉を上げる。
「うん、それで?」
レイは目を閉じ、内側のもっとも深い感覚を呼び起こした。前世の理論とこの世界の法則、それらの狭間にある“隙”を探す。彼の中で錬金で作った触媒が、結界の位相とぴたりと一致する点を見つけた。
「今だ」
レイの掌から、先に触媒とした石が放たれ、結界の縁に沿うかたちで埋め込まれていく。石は一瞬、光を吸い込み、そしてゆっくりと沈黙した。周囲の空気がわずかに歪み、木の葉が反対方向に揺れた。
次いでレイは闇の圧縮を用い、石が埋まった領域に『微小な吸引点』を生成する。だが、それだけでは危険だ。吸引点は周囲の何かも巻き込みかねない。そこで彼は空間魔法の一片を重ね、吸引が生む歪みをその場で局所的に循環させるように結界を張る。
目に見えないが確かな動きだ。結界の紋様の一部が、レイの作った“逆位相”と重なり合い、薄く震え始めた。つまり、結界の維持に必要な同調が狂い、互いの振動が干渉して相殺の方向へ進んでいる。
「こっちが消耗する前に、核の一つを切り離す」
レイはつぶやき、最後の一手を打つために闇と風を合わせた。黒い渦の中に風が流れ込み、それはまるで刃のように回転しながら、結界の核へと伸びていく。核に触れた瞬間、渦は一瞬だけ光を帯び、そして――
「ぎゃああッ!」
結界の一部が激しく弾け、音を立てて裂けた。裂け目からは瘴気と歪んだ風が吹き出し、周囲の草木が逆立った。だが同時に、結界の多層構造の一枚が失われたことで全体の安定が崩れる。ほかの核は互いに干渉し合い、連鎖的に位相がずれていく。
ヴァルゼリオが前に出る。彼の身体からは澄んだ魔力が吹き出し、裂け目を通じて侵入してくる瘴気を切り裂く。ミナとセラもすかさず連携し、レイの周囲を固める。だが、その間にも結界は最後の抵抗を見せ、時折鋭い痛みのような波が通り抜けた。
「もう一押しだ!」 レイは息を吐き、最後の力を込める。彼の手に残る魔力は、子供の頃に錬成した感触と、最近練り上げた闇の圧縮の感覚が混ざった異様なものだった。それを一点に集中すると、結界の核がばらばらに崩れ、残っていた紋様が燃えるように消えていく。
空間が振動し、世界が一瞬だけ静止したかのような錯覚が走った。次の瞬間、結界は音もなく砕け散り、吹き出していた瘴気は夜風に溶けていった。
結界が消えたとき、レイの身体は限界の淵にあった。視界は揺れ、膝に力が入らない。それでも彼はゆっくりと笑みを浮かべた。仲間たちが駆け寄り、セラは駆けつけて彼を支える。
「大丈夫?」 セラの声には安堵と心配が混じる。
「少し、魔力の反動があった。でも、問題ない」 レイは力なく答えたが、その眼差しには確かな自負があった。
ヴァルゼリオは肩で笑い、草地に腰を下ろす。
「人間、やるじゃねえか。お前の作るものはいつも毒にも薬にもなるな」
ミナは剣の鞘を軽く叩き、顔をしかめながらも笑っていた。
「レイ、今回はマジで壊れるかと思ったけど、意外と頼もしいわね」
レイは疲れた身体を引きずるようにして立ち上がり、谷の奥へと歩を進めた。結界が消えた先に広がるのは、ザイロスの痕跡が色濃く残る黒い平地。そこにはやはり、古びた石造りの祭壇や不穏な符号が散らばっている。
夜風が彼らの髪を揺らし、月が薄く顔をのぞかせた。これで門は開いた。だが、本当の戦いはまだ始まっていない――。




