第8話 親友の遺志
夜が明け、森の朝はひんやりと肌を刺す。私たちは小さな焚き火を囲み、残されたわずかな干し肉を分け合った。
昨夜の野盗との戦いの痕跡は、血の匂いと倒れた木々の影として、まだ生々しく残っていた。私は身を震わせながら、クロイツが汲んできてくれた水を口に含んだ。
「マリー様、この国はもはや安全ではございません」
クロイツが静かに、しかし断固たる声で言った。彼の視線は、燃え盛る炎の向こう、遠くの森の闇を見据えている。
「保守派は全権を掌握し、開明派の残党を徹底的に排除しようとしております。王都から逃れた者は、例外なく追われる身です。ご家族が奪われた今、あなたには、もはや身を隠す場所などこの国にございません」
彼の言葉は、冷静で現実的だった。頭では理解できる。このまま国内に留まれば、いつ捕らえられ、何をされるか分からない。
「他国への亡命を検討するべきです」
クロイツはそう言い切った。私にとって唯一の活路であると考えているのだろう。しかし、私の心は激しく反発した。
「いいえ、できません!」
私の声は震えていたが、決意は固かった。私は焚き火の炎を見つめる。
「父も、兄たちも、そしてアルバート様も……彼らはこの国を心から愛し、その未来のために生きたのです。父は常に『開明』の道を説き、ローレン兄さまは、国王陛下をお守りするために命を賭した。アルバート様も、私と共にこの国をより良い方向に導こうとしてくださいました」
感情が込み上げ、言葉が途切れそうになるのを必死で堪えた。
「彼らが大切にした祖国を、私が見捨てるなど、到底できません!」
私の言葉に、クロイツは沈黙で答えた。彼は何も言わず、ただじっと私を見つめている。その無言の視線が、疲弊しきった私の心をさらに追い詰めた。
(彼は、私を見捨てるつもりなのか? ここで、もうこれ以上は無理だと、そう告げたいのか?)
光が届かない闇の辺縁にいる私にとって、クロイツの言葉は「この国に見切りをつけろ」という冷徹な命令であり、同時に「お前など、もう助けても無駄だ」という宣告のように聞こえた。それは、頼るべき唯一の存在からの拒絶であるかのように感じられ、私の胸に深い痛みが走った。
「あなたも、結局は私を見捨てるのですね……!」
私は、ほとんど無意識のうちに、そう口にしてしまっていた。感情の波が、私の理性を完全に飲み込んでいた。
すると、普段はどんな時も冷静で寡黙なクロイツが、初めて感情を露わにする。彼の青緑の瞳に、悲哀と悲憤が交じり合った、複雑な感情の光が見えた。
「何をおっしゃっているのですか!」
彼の声は、これまでにないほど熱を帯びている。その声が、私の記憶の奥底に眠っていたある光景を呼び起こす。それは、若き日のローレン兄さまの声に、どこか似ていた。
「私は……マリー様を助けるために、ここにおります。決して、見捨てるなどありえません!」
焚き火の炎がクロイツの顔を赤々と照らし出し、その視線はまっすぐに私を捉える。
その真剣な眼差しから、私は決して彼が私に嘘をついていないことを悟った。
「私には……ローレンとの約束があります」
彼の口から、ローレン兄さまの名前が出た瞬間、私の呼吸が止まる。
「彼は……私の唯一の友でした。騎士として、彼以上に信頼できる男はいなかった。
国王陛下の暗殺未遂事件の夜、彼は……私を庇い、自ら盾となって国王陛下を護り、そして……その場で命を落としました。」
クロイツの声が、かすかに震えている。彼の目に、深い悲しみがにじんでいた。
「彼は死の間際、私にこう言いました。『クロイツ……この国の未来を、そして……妹を頼む』と。彼は私の身代わりとなって死んでしまったのです。私に残されたのは、彼の言葉と、この手で彼を守れなかったという……拭えない贖罪の念だけなのです」
彼の言葉は、苦しみに満ちていた。クロイツが私を助ける理由が、単なる打算や義務感ではない。彼自身の、兄への深い愛情と、友との果たせなかった約束。
そして、ローレン兄さまが命を賭して守ろうとしたこの国への、変わらぬ思いが、彼の行動の原動力なのだと、その時初めて理解した。
彼の心底にある思いは、私を蝕んでいた深い闇に、温かい光をもたらす。そして、私の心に、彼への揺るぎない「信頼」と「尊敬」の念が芽生えた。
彼は、もう単なる私の護衛ではない。
私にとって、何があっても、共に進むべき「特別」な存在として意識するようになった。
彼の傍にいる限り、私は一人ではない。
私たちがこれから歩む道は、苦難に満ちているだろう。しかし、彼という存在が、どんな困難をも乗り越えさせてくれる。森を吹き抜ける風が、私の頬を優しく撫でた。私は、彼の固く握られた手を見つめ、未来へのわずかな希望を抱いた。
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