第7話 令嬢の慟哭
父の領地での悲劇を後にし、私たちは再び歩き出す。セヴラン兄様の最期を伝えた旧臣たちとの邂逅は、クロイツの過去、そして彼が私を守る理由の一端を知るきっかけになった。彼の寡黙な優しさに、私は心の奥底で、わずかな光を見出していた。
しかし、現実は依然として過酷な状況にある。
「関所は既に厳重な警戒態勢が敷かれているでしょう。家令アルノートが私たちの生存を知れば、すぐにでも捕縛の命令が下るはずです」
その言葉に、私の胸は再び重く締め付けられる。父が深く信頼し、領地の運営を任せていた家令のアルノートが、あんなにも簡単に保守派に寝返り、兄を殺したのだ。
その事実が、私を深く深く打ちのめす。彼は決して父に忠実な人物ではなかったが、まさか裏切るとは思ってもみなかった。
「では、私たちはどこへ……」
震える声で尋ねる私に、クロイツは迷わず答える。
「森の奥を進みます。獣道ですが、ここを通れば追手の目を欺くことができます」
彼の言葉に、私は抵抗できなかった。森の奥。それは、王都の貴族として生きてきた私にとって、未知の世界だが、選択の余地はない。私たちは、足元もおぼつかない獣道をひたすら進んだ。
密生した木々の間を縫うように歩く。顔を叩く枝、足元に絡みつく根、そしてぬかるんだ地面。粗末な町娘の服に着替えた今も、慣れない道は私の体に容赦なく鞭打つ。
歩くたびに、足の裏に豆ができ、肩には重い疲労が蓄積していく。息は切れ、心臓は激しく波打った。王都での優雅な暮らしとはかけ離れた逃亡生活は、私の体力と精神をじわじわと蝕んでいった。
だが、クロイツは決して振り返らない。常に前を見据え、一歩一歩、確実に進んでいく。彼の背中は、動かない岩のように頼もしいが、同時に、私とは違う世界の住人であるかのように遠く感じられた。
森は、昼でも薄暗く、木々の隙間から差し込む木漏れ日が、希望のようにも、あるいは私を嘲笑っているようにも見えた。鳥のさえずりや、遠くで聞こえる獣の鳴き声が、森の奥深くへと私たちを誘い込む。
私はただ、彼の背中だけを追って、機械的に足を動かし続けた。どれほどの時間が経っただろうか。日が傾き始め、森がさらに深い闇に包まれようとしていた。
◆◆◆◆
その日の夕暮れ、人気のない森の中で、私たちは突然、異様な気配に包まれた。ガサガサ、と草を踏み分ける音が近づいてくる。一つではない。多数の足音だ。
「おい、こんなところに女がいるぜ!」
「しかも、なかなかの美人だ!こいつは運がいい!」
野盗の粗暴な笑い声が、薄暗い森に響き渡った。数人の男たちが、身を潜めていた木陰から飛び出してくる。彼らの手には、錆びた剣や棍棒が握られていた。薄汚れた身なりから、ただの旅人ではないことは一目瞭然だった。
私の体は恐怖で硬直した。再び、あの王宮での悪夢が繰り返されるのか。心が、凍り付くように冷たくなった。
「それ以上近づくな」
クロイツの声が、冷ややかに響く。彼は私を背後に庇うように一歩前に出ると、流れるような動作で剣を抜いた。夜の闇を反射して、彼の剣が鈍く光る。
「なんだ、騎士様きどりか? 面白え、ぶった切ってやるぜ!」
野盗の一人が叫び、仲間たちが一斉に襲い掛かってきた。剣がぶつかり合う金属音が、森にけたたましく響き渡る。クロイツは、信じられないほどの速さと正確さで賊を次々と斬り伏せていく。彼の剣は一点の迷いもなく、踊るように軽やかだった。野盗たちは、彼の剣さばきについていけず、次々と血飛沫を上げ、地面に倒れ伏していく。
彼は、私を守るためならば、いかなる命も躊躇なく奪う。その冷徹な覚悟を、私は間近で見入る。彼の剣は、もはや私を守るための道具ではなく、彼の肢体そのものだった。その恐ろしいまでの強さに、私は震える。しかし、その震えは、恐怖だけではなかった。彼がいてくれるという、かすかな安堵も含まれていた。
辛くも賊を退けたものの、森には血と鉄の匂いが充満し、横たわる野盗たちの亡骸が、この場での惨劇を物語っている。
私はその場に立ち尽くしていた。
疲労と恐怖、そして連続する家族の死の重みが、私の心に深くのしかかる。張り詰めていた糸がプツリと切れたように、その場で私は泣き崩れてしまった。
「うっ……ううっ……」
嗚咽がしゃくり上げて止まらない。とめどなく溢れる涙が、私の頬を伝い、土に染み込んでいく。
運命は、私の大切なものをどれだけ奪えば気がすむのだろうか。もう、私には誰も残されていない。頼れるのは、今、この場にいるクロイツだけ。その事実が、深い孤独と虚無感を私に突きつけた。
クロイツは何も言わず、ただ私の傍に寄り添った。そして、ゆっくりと私を抱きしめてくれた。彼の腕の中は、泥と血の匂いが混じりながらも、どこか安心できる温かさを感じる。彼の胸板に顔を埋め、私はその温もりに縋るように、とめどなく涙を流し続けた。
彼の腕の強さが、私をこの世界に結びつけている、たった一つの繋がりだった。どれほどの時間がそうして流れたのだろうか。夜の帳が降り、森はさらに深い闇に包まれる。
それでも、クロイツは私を抱きしめ続け、何も言わなかった。
彼の沈黙が、私を慰める最も優しい言葉なのだ。
私は、この温もりの中に、ただ身を任せることしかできなかった。
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