第5話 信頼の萌芽
王都を脱出した私たちは、ひたすら父の領地を目指して走り続けた。疲労と無力感が全身を蝕んでいたが、クロイツの力強い手が、私を無理やり前へ進ませる。
夜が明け、空が薄い灰色に染まり始める頃、ようやく人里離れた森の奥、小さな狩人の小屋にたどり着いた。
「ここで少し休みましょう」
クロイツが簡潔に言い、小屋の戸を開ける。中は埃っぽく、簡素な造りだが、雨風を凌ぐには十分だった。
私はへたり込むように床に座り込み、深く息を吐く。王都を出てからの緊張が、ようやく少しだけ緩んだ。
「先ほど汲んだ湧き水です」
そう言って、クロイツは静かに私に水を差し出した。私は震える手でそれを受け取り、喉を潤した。彼の口から、あの夜の出来事が語られる。
「ご承知のとおり、王宮内の近衛騎士団は三つ部隊ありました。近衛騎士団長や第一部隊と第二部隊は保守派のデグベル大公に調略され、第三部隊のみが国王陛下への忠誠を貫いていたのです」
彼の声は静かだが、その奥には悔しさが滲んでいた。
「私たちは、保守派が何かを計画していることは察知してはいましたが、よもやクーデターを起こすとは思っていませんでした。それも、まさか、婚礼の場を狙うとは……私の不甲斐なさゆえに、陛下やアルバート様を……」
クロイツはそこで言葉を詰まらせ、顔を伏せる。彼の指が、剣の柄をぎゅっと握りしめているのが見えた。
「あなたたちのせいではありません。そして、あなたのせいでもありません」
私は、思わず彼の言葉を遮る。
「あなた一人でどうにかできるような事態ではなかったはずです。むしろ、あなたは私を助けてくださった。それだけで、感謝しかありません」
私の言葉に、彼はゆっくりと顔を上げた。その青緑の瞳に、少しだけ戸惑いの色が浮かんでいる。
「それに……」
私は、意を決して言葉を続けた。
「もはや、私は王太子妃ではありません。どうか、マリーと呼んでください」
私の言葉に、クロイツは一瞬、息を呑んだような表情に変わる。彼は何も言わず、ただじっと私を見つめる。その沈黙は、私が発した言葉の重みを物語っていた。
私は、もう高貴な身分ではない。ただの、身寄りのない女。その事実を受け止めるかのように、私は再び視線を落とした。
どれほどの時間が流れただろう。やがて、クロイツは静かに頷いた。
「……分かりました、マリー様」
彼の声は、控えめでありながら、どこか温かさを帯びているように感じられた。その瞬間、私の胸の奥に、わずかな安堵が広がる。私はもう、以前の王太子妃ではない。ただ、彼が傍にいてくれることに、言葉にならない心強さを感じていた。
短い休憩の後、私たちは再び旅路についた。目指すは、父の領都だ。領都はセヴラン兄さまがいらっしゃる。私は今すぐにでもお会いして今後の方策を話し合いたかった。
しかし道中、私は疲労の極致にあり、足取りはなかなか進まない。王都を離れるにつれて、人影もまばらになり、静けさが支配していた。その静けさが、かえって事態の異常さを際立たせている。
父の領都は、今の私にとっては、唯一の逃げ場のはず。しかし、クロイツの後を付いていく私は、漠然とした不安を感じた。
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