子返し(江戸時代中期の農村にて)
風がふき、稲穂が揺れる。吉兵衛は夕陽を受け鮮やかに波打つ田んぼに手をあわせて拝む。
──三年前。これほどの収量があれば。
思ってもせんなきことだが、思わずにはいられない。
吉兵衛の後ろから、少年の声がする。
「きれいですね……父さま」
ぎこちない呼びかけ。吉兵衛は自分も一呼吸をおき、口元に笑顔をつくってからふりかえる。
「ありがたいことだな、田介」
「はい!」
吉兵衛の笑顔をみて、ほっとしたように田介が元気な声を返す。
数えで十になる田介は吉兵衛の跡取りだ。村の寄り合いで、そういうことになった。田介は隣村の五郎太の三男である。村の間は互いに婿入り嫁入りの縁がある。
──悪い子ではない。手伝いもよくする。不満もいわぬ。
隣村の五郎太は鉄砲放ちだ。田畑の広さこそ吉兵衛と同じだが暮らしぶりには余裕がある。夫婦仲もよく、四人の子ができ、夭折した長女をのぞく三人の男児を育てた。
田介は五郎太の末子だ。家族と別れて吉兵衛の子にされたことには思うことも多くあろう。それを隠し、新しい父母に孝行している。田介が両手に抱えているのは松葉の入った籠だ。裏山にある松林まで行って集めてきたのだ。
「焚き付けの松葉か。ようやった。助かるわ」
「はい!」
田介の顔がほころぶ。
「かめの……母さまの具合はどうだ?」
田介の顔がくもる。
「朝方はよかったみたいですが、目眩がするとかで、昼前から臥せってます」
「そうか」
吉兵衛とかめは同村で、幼なじみだ。小柄ながらよく働く娘で、吉兵衛にとってはできた嫁である。
三年前までは。
吉兵衛は重い吐息をはいた。言葉を繰り返す。
「そうか」
吉兵衛はかめと夫婦になってから、子を作らないよう気をつけてきた。
吉兵衛のもつ田畑ではギリギリの収量しか期待できないからだ。夫婦が暮らす分にはなんとかなるが、子ができてしまえばそろって腹を空かせることとなる。
そんな小さな百姓家でも、うっかり子ができることはある。
その場合は寄り合いで話し合い、寺社に寄進の形で蓄えた米を子ができた家に割り当てて村全体で子育てを支援する。
善意だけでは、むろんない。村には田植えや稲刈り、畔や水路の普請など全員で力をあわせる作業が多くある。困ったときに助けてもらえるからこそ、村仕事に合力する。逆に普段から共同作業で手を抜く不届き者は寄り合いで苦労する。
返済の義務はないが余剰米を支援されている間はやはり肩身が狭い。吉兵衛とかめは夫婦で話し合い、余裕ができるまで子をなさぬよう決めていた。
天の配剤か、結婚してから実りがよい年が続いた。四年前の秋にはついに決心して子作りに励み、念願かなってかめは妊娠した。吉兵衛とかめは手を取り合って喜んだ。
その喜びもつかの間。翌年の雨は少なく夏は冷え、かめのお腹が大きくなるころには、十年に一度、いや一生に一度あるかないかの不作が明らかになってきた。
夏がすぎるころには藩の代官もたびたび村を訪れ、年貢の減免について相談した。
「致し方、ないか」
幾日にも及ぶ話し合いの末、年配の武士は村の主張をほぼ丸呑みした。どちらも最初からわかっていた結論である。
江戸時代の年貢は村請だ。武士の多くは農地から切り離され、役人や文化人として町で暮らしている。百姓と武士が同じ土地に住む時代ではもはやない。武士がいかに脅そうが詰ろうが、年貢の取り立てについては村の方が圧倒的に立場が強い。
そもそも年貢を藩の蔵に運び込む牛馬の育成すら普段は村の番所預かりで武士の関与は限定的なのだ。良馬は藩が取り上げるので、村ではあえて作業用に使える小柄で頑強な駄馬を中心に育成している。ここで厳しくあたって反発を買えば、年貢米を江戸や大阪の米市場に売ることで成り立つ藩の財政が破綻する。
結論がわかっているのに何度も話し合いを重ねてきたのは、武家の面子を保つためだ。
「わしが責任を取って隠居届けをだす。それで殿様には許してもらう」
「わしらも隠居します。村の若衆を宥めにゃいけませんから」
減免された年貢は村の寺社に奉納された形となり、共有財産として扱われる。
どう配分するかは村の寄り合いにはかられる。庄屋たち大人衆に最終的な議決権はあるが、人口ピラミッドが末広がりな時代である。村の多数を占める若衆の意見も尊重せねば、実行することは困難だ。
「これまでの備蓄米と合わせてぎりぎりまで絞れば、なんとか冬は越せます」
「頼むぞ。飢えて死ぬものがでれば、隠居どころか腹を切らねばならん」
「次の端境に備えて蓄えます。代官さまもどうかお力添えを」
「うむ。方々に文をだしてあたりをつけておる。銭を用意しておけ」
「高いでしょうなあ」
「このあたりはどこも不作だ。米に余裕がある村は遠い。遠ければ高い」
「わかっております」
「米を運ぶのに藩の馬を使えるよう、手配してみよう」
「できるのですか」
「年に一度は遠駆けをさせる決まりがある。兵糧輸送の小荷駄も大事なお役目だとねじ込む。いうまでもないが、このことは他言無用ぞ」
「ははっ」
村が年貢減免を勝ち取った後のささやかな酒肴の席で、武士と庄屋衆は公式の記録には残せない形での打ち合わせをする。
不作の影響は吉兵衛にもふりかかった。年貢は減免されたが、そもそもの収穫が少なすぎた。誰もが空きっ腹をかかえてふらつく。吉兵衛も少し動いては立ち止まって息をつく。
そして、かめは。
身重の、かめは。
早すぎる陣痛がはじまるや、産婆が若衆を連れて駆けつけ、かめを村の産屋に運び込んだ。
吉兵衛が外で待っていると、ほどなく小さな包みをかかえて産婆が出てきた。
死産だった。
産婆は呆然と立つ吉兵衛の手に包みをのせた。軽かった。
「ぽろりとな、出てきおった。この子なりに、かか様に無理はさせられぬと思うたんじゃろ。この子の最初で最後の親孝行じゃ。なんまんだぶ。なんまんだぶ」
産婆の慰めの言葉を吉兵衛は聞いていなかった。
胸には後悔だけがあった。どうして子作りを待ってしまったのか。いつもの出来高であれば、妊婦にはそれなりの余録がある。村の衆が何くれなく持ち寄る精のつくものをかめに食べさせてやれたはずだ。だが、不作と飢えの恐怖が村の衆から妊婦を思いやる余裕を奪った。食べ物が余っても、誰もが自分の家のために取っておく。
生まれる子に、ひもじい思いをさせたくない。
そんな願いの結果が、吉兵衛の手にある小さな軽い包みだ。
「……さま! 父さま!」
田介の呼びかけに、吉兵衛は我を取り戻す。
今の吉兵衛の手にあるのは、松葉の入った籠だ。
布でくるんだ小さな包みではない。
田介が集めた焚き付けだ。
「すまん。ぼんやりしてた」
「よかった。父さま“も”おかしくなったかと心配しました」
「……大丈夫だ」
やはり起きてたか、と吉兵衛は思う。
昨夜のこと。ふと目を覚ましたとき田介の枕元に黒い影がうずくまっているのがみえた。
かめだ。身をかがめ、田介の寝顔をのぞきこんでいた。
かめは小さな声で何かを呟いていた。
「──ない。このこに──」
耳をすます。
「このこにつみはない。このこにつみはない。このこにつみはない。このこに──」
念仏のように。祈るように。
かめは眠る童の顔を見てくりかえしていた。
かめなりに、死んだ子と新しい子の間で折り合いをつけようとしているのだ。
忘れることなど、できはしない。
思い出すことが、少なくなるだけで。
吉兵衛だってそうだ。今も後悔で胸がつぶれそうになる。
だが、だからといって。
目の前のこの子が、そして自分たち夫婦が、幸せになるのを諦めてなんとする。
「田介。稲刈りが終わったら、一緒にどじょうをとろう」
「はい」
「母に食べさせてやろう。おいしいものを食べると元気になる」
「はい!」
笑顔を取り戻した田介と並び、吉兵衛は家路へと足を向ける。
ふたりの背で、稲穂が揺れた。