2 日記帳(1/5)
千鳥が殺された事件からは数か月の時が経ち、諸々の処理を終えた私は、東京から故郷である兵庫へと戻っていた。
住んでいるのは実家で、私が高校生のときまで祖父母と母とで暮らしていた古い一軒家だ。しかし、今は私ひとりの家だった。
祖父母はすでに亡くなっており、母は終の住みかを別に見つけて、そこに移り住んでいる。私が家を出てからは、いずれ生活に便利な場所へ移ろうと、かねてから計画していたらしい。そのため実家は売り払われる予定だったが、事件のこともあって、しばらくはこちらに身を寄せることが許されていた。
さすがにあんなことに巻き込まれては、厳しい母も同情的だ。一緒に住むか、とも言われたが、私はそれを断っている。今はひとりになりたい、というのがその理由だ。
とにかく、そういう経緯で、私はどうにか自分の住まいを確保することができていた。ただ、母が早々に移住を決めた程度には、実家の周辺は何もない――畑と民家しかない――田舎だ。
とはいえ、多少不便でも、今の私にはなじみの土地で過ごせる方がありがたい。処分するつもりだった家具も少しは残されていたので、かつてと変わらない――とまでは言えなくとも、よく見知った家にいられるということは、私にとって何よりのなぐさめになっていた。
勤めていた会社の方は、すでに辞めてしまっている。辞めろと言われたわけではないが、本の出版が取り止めになったこともあり、勤め続ける気力を失ってしまったからだ。
千鳥の死体を見つけて、交番へとかけ込んだ後のこと――
私はそこにいた警察官にどうにか状況を説明し、一緒にマンションの自室へと戻ることになった。それからしばらくは、大変のひとことでは言い表せないほどの日々を送ることになる。
まず、千鳥の死について。
彼女は見た目どおり鋭い刃物で喉を切り裂かれ、その出血のために死んでいた。死亡したのはその日の昼頃。鍵もかかっていなかったので、外部からの侵入者による犯行だろう、とのことだった。
警察の見解など知る由もないが、当時はそんな報道がされていたと思う。何か盗られたわけでもなく、部屋が荒らされた形跡もなかった。怨恨による犯行か、というのが大方の予想だ。
千鳥が死亡した時間、私にはちゃんとした――いわゆるアリバイがあった。警察がどう考えていたかまでは知らないが、私に対してはそれなりに哀れみを持って対応していたように思う。
ただ、取り調べの際、私は千鳥の交友関係についてほとんど答えることができなかった。単純に知らなかったからだが、そのことを多少は訝しく思われたようだ。そういう関係だったのだと、どうにか説明したのだが――今の時代はそういうものかね、などと呆れられたことをよく覚えている。
千鳥の遺体の引き取りについては、どこからともなく彼女の父親を名乗る人物が現れて、すみやかに処理していった。私はそれまで彼女の家族に会ったこともなかったので、何を尋ねられるのだろう、とか、この件をどう説明したものか、と考え身構えていたのだが――
父親は娘の死に際し、特にうろたえることも悲しむこともなく、淡々と手続きを進めていった。あまりの冷淡さに、こちらが拍子抜けしてしまったくらいだ。
千鳥の母親は、いるのかいないのかわからないが、最後まで私の目の前に姿を現わすことはなかった。
葬式も親族だけで済ませてしまったらしい。私には別れの言葉をかける機会すら与えられなかった。たとえそれほど深い関係ではなかったにしても、一年も共に暮らしていたというのに。
現場にあった西洋人形については、おそらく警察も誰も、事件に関係するものだとは見なしていなかっただろう。というより、それは私が何も話さなかったせいもある。
あの人形について、捨てたはずなのに戻ってきた――と証言することは、どうしても私の理性が許さなかったからだ。その人形が他人の家から無断で持ち出された物であることも伝えることをためらう要素のひとつではあったが、そうでなくとも、そんな明らかにあり得ない現象を証言して、正気を疑われたくはなかった。
確かに異常な状況ではあったが、だからといって、あの人形が千鳥を殺した、ということにはならないだろう。あのときは突然のことで、そんな考えも多少は頭を掠めはしたが――冷静になれば、やはりあり得ないことだと思う。部屋には鍵がかかっていなかった。ならば、犯行は誰にでも可能だったということだろう。
不可解なのは、あの場所に人形があった、ということだが――これだけはどうにもわからない。
人形を含む千鳥の私物に関しては、今頃はもう全て処分されたはずだった。千鳥の父親から、業者に清掃を依頼するから必要な物は部屋から持ち出しておいて欲しい、と一方的に告げられたからだ。感傷的なところなど何ひとつない。しかし、その頃には私の方も、千鳥と両親の関係性を察してもいた。
処分された物の中には、千鳥があのゴミ屋敷から持ち出した物もあっただろう。しかし、それについては、私はもうどうでもよくなっていた。疲れ果てて捨て鉢だったせいもある。私は諸々の処理を了承し、本当に必要な物だけを持って、あの部屋を出た。そして――
故郷に落ち着き、静かな日々を送り始めて一か月。私はようやく心の平穏を取り戻しつつあった。あんなことがあったのに、もうその記憶が薄れかけていることには、我ながら戦慄する。しかし、いつまでも茫然自失ではいられまい。
千鳥を殺した犯人はまだ見つかっていないが、それに関しては、もはや私の領分ではないだろう。
ただひとつ、あの事件に関連する――かどうかは微妙だが――中で、私の手元に残った物もある。日記帳だ。私はそれを処分することもできず、さりとてあの部屋に残すことも、ましてや返しに行くこともできずに手元に置いていた。
千鳥の死からこちら、それどころではなくなってしまったので、日記については、結局のところ全く目を通せてはいない。それでも、その存在は常に私の意識の中にあった。
机の上に置かれたノート。私は久しぶりにその日記帳を開いて、そこに書かれた文章を拾い読んでみた。
――水道管の点検に業者が二人やってきた。
点検は終わったが、男がひとり今もそこにいる。
ただ無言で台所に立っている。
どうやらこれは業者ではなかったようだ。
何がこれを呼んだのだろう。
追い出さなければ。
――二階にある漆器の皿に水がたまっている。
雨もりかもしれない。
見ただけではよくわからない。
自分で確かめることは難しい。
しかし、業者を家に入れる気にもなれない。
――あれは雨もりではなかったようだ。
ここしばらく雨は降っていない。
皿は危険なものではないとのこと。
ただし借りものだから本当は返さないといけないらしい。
どこで借りたかはやえさんにもわからない。
そこにはやはり、彼女の身に起こった不思議なできごとが記されていた。
私はため息をつく。もしも、自分が同じような状況に置かれでもしたら――と考えると、ぞっとした。彼女はどうして、あの家にひとりでいることができたのだろう。いや、ひとりではない。彼女には、助けを求められる相手がいた。やえさん、という名の正体不明の人物が。
私は日記帳を机の上に戻すと、家を出て表にある郵便受けへと向かった。何かの便りを待っていたわけではない。この時間にそうすることが、単に日課になっていたからだ。
しかし、この日そこで目にしたものは――
箱だった。ダンボール箱だ。道路と家の敷地の境界線上、開けられている表門の、その中心にぽつんと置かれている。宅配ではないだろう。送り先も、送り主の名も書かれてはいない。封もされていない。ただ、軽く閉じられているだけ。
私は呆然とした。しかし、心のどこかではわかっていたような気もする。これに関係するできごとが、あれで終わりなどとは思っていなかったのかもしれない。
そして、案の定だ。
私はそれを見下ろすと、仕方なくそれを拾い上げた。こんなところに置かれては、家を出ることもできないではないか。
玄関まで戻り、その箱を開けてみた。中にあったのは、いかにも古びて見える、さまざまな道具たち。
陶製の壷に螺鈿の盃、あるいは金属製の彫刻か何か。それから、木製の箱と、いくつかのこまごまとした物。そして、あの西洋人形も――