1 アンティークドール(5/5)
その日、家路についたのは、そろそろ日付も変わろうかという時間だった。
ほとんど人の通らない、ぽつぽつと街灯の点る道を歩いていく。しんとした夜道をぼんやりと眺めながら、私はここ最近の憂鬱について考えを巡らせていた。
例の日記は、結局まだほとんど読めていない。読まないならいっそのこと、これだけでも返しに行くべきかもしれない――と考えはするのだが、行動に移せずにいた。あるいは、手にしたからには読んで何かしらに活かすべき――とでも開き直ればよかったのかもしれないが、それもできないでいる。
迷いがある、ということも要因のひとつだろう。しかし、それに加えて、どうしても読むことを乗り気にさせない要素が、あの日記にはあったからだ。
何か所か読んでわかったことだが、老女の元でおかしな現象を起こした物は、どうやらあの人形に限らなかったらしい。その記述がどうにも不気味で、私は彼女の気持ちを汲むどころではなくなっていた――ようするに、怖かったのだ。
日記にあった不可解な描写を思い出す。いるはずのない人影だの、押し入れから伸びる血塗れの手だの。日常の記録だと思って読んでいたら、たまにそういう記述に出くわした。
思い出してしまって、ぞっとする。どうして、そういうことが苦手なのに、ふとしたときに思い出したりするのだろうか。苦手だからこそ、かもしれないが。
しかも、あの家から持ち出された日記帳以外の物についても、そのほとんどがまだ千鳥の手元にあるようだ。今はとにかく、日記に書いてあるようなおかしな現象を引き起こす物が、ダンボール箱の中にないことを祈るばかりだった。
ただ、あの西洋人形については宣言どおり、本当にすぐ処分したものらしい。少なくとも、私はあれ以来それを見てはいない。千鳥が隠し持っていればわからないが、そこまでして手元に置くほどの執着があったわけでもないだろう。そもそもが、高く売れると思って持ち出したはずなのだから。
とはいえ、それなら他の物を売却しない理由がよくわからないが――もしかしたら、千鳥は盗んできた物を売ることに苦戦しているのかもしれなかった。あれ以来、それらについて私と千鳥が話をすることはなかったが――どうも彼女の思うようにはいかなかったらしい。
正直なところ、それについてはほっとしていた。もしもあれらが高く売れてしまえば、千鳥は再びあの家に行くかもしれないと思っていたからだ。そして、また盗んでくるかもしれない。何か、いわくつきの奇妙な品を――
それから、怪奇現象とは別に、日記帳にはもうひとつ気がかりな点がある。やえさん、という人物についてだ。
日記を読んでいると、その名を何度も目にすることになった。すべてに目を通したわけではないが、それでも少なくない数の言及がある。しかも、どうやらそのやえさんは、日々起こる怪奇現象に対して、老女に助言を行っていたらしい。
何者だろう。霊能者のたぐいだろうか。これだけ交流があったなら、あの家の近所に住んでいたのかもしれないが――
何にせよ、あの日記帳については、もう少し身を入れて読み進めるべきなのだろう。考え込んでいるうちに、私はそう思い直し始めていた。
もしかしたら、千鳥の持ち出した物の中には、人形の他にも、何かしら怪奇現象を起こす物があるのかもしれない。何よりもそれが気がかりだ。それを確認するには、やはり日記帳を読むのが手っ取り早いのだろう。
ただ、日記帳に関しては、どうやら千鳥が持ってきた物が全てではないようだった。抜けている日付があるし、亡くなる前の数か月の記述も見当たらない。別の場所に保管してあったのだろうか。
謎の人物の名と、欠けた日記帳。
考えれば考えるほど、気になることは増えていく。ともあれ、まずは手元にある日記帳だろう。あれに目を通すことから始めなければならない。
マンションにたどり着き、私はうら寂しい廊下を歩いてから、自室の扉の前に立った。いつものように鍵を開けようとして――そこで初めて、鍵がかかっていないことに気づく。
千鳥が鍵をかけ忘れたのだろうか。珍しい。そう思いながら扉を開けて、一歩踏み出した途端、異常な臭気に思わず立ち止まってしまった。
何だ。この匂いは。
顔をしかめて、手で鼻をおおった。いつもとは違う状況に、私は部屋に入ることをためらってしまう。
とはいえ、こんなところで立ち尽くしてもいられない。私は意を決して中に入ると、その先の廊下を進んで行った。
突き当たりの扉を開けて、覗き込んだ先にあるのは居間。そこにいたのは――仰向けに倒れた淡島千鳥だった。
少し後ろに反るような体勢で、彼女は無防備に喉を晒している。そして、その喉には、切り裂かれたような傷があった。
何か鋭い刃物で切られ、抉られたような、ぱっくりと開いた傷口が。そこからは、肉と――肉でいいのだろうか――白いもの――骨か――が覗いていて、そこを中心にして周囲の床に、壁に、天井に、赤黒い血が飛び散っていた。
肌は驚くほど白く、いや、もはや灰色にくすんでいて、生気を失っている――しかし、それも当然だろう。そこにあったのは、どう見ても屍なのだから。
間違いなく彼女は死んでいる。それも、何者かに殺されて。
どうしよう。どうすればいい。人の形をした、人ではないもの。嫌だ。見たくない。あれにはもう、魂などない――
なじみのあるはずの居間は血塗れで、そこに同居人の死体があり、部屋は耐え難い匂いで満ちている。そして、もう動かないその屍の傍らには――
そのときの私は、どうするべきだとか、こうしなければいけないだとか、そんなことは一切考えなかった。ただ衝動に従って部屋を出て行く。そして、マンションの廊下を走って階段を下り、近くの交番へとかけ込んだ。
私はひどく狼狽していたらしい。そこにいた警察官がひどく驚いた顔をしていたことだけ、妙にはっきりと覚えている。
交番にいた警察官は、私から辛抱強く話を聞き出そうとした。そのときの私は、まともな受け答えすらできなくなっていたからだ。
それも仕方がないだろう。私は恐怖のあまりひどく混乱していた。なぜなら――
千鳥が死んでいた、その場所には人形が――処分したはずの西洋人形があったのだから。