1 アンティークドール(4/5)
え、と思って、私はその文章をくり返し読み直した。戻って来ている、とはどういうことだろう。捨てたはずの人形?
私は思わずダンボール箱の方を見た。あの中には、西洋人形が一体、入っていたはず――
視線を向けた先では、千鳥が箱の中をかき回しているところだった。あらためて中身を確かめているのか、中にある物を取り出しては、それをひとつひとつ眺めているようだ。
私に見られていることに気づく様子はない。期待どおりの反応を示さなかったせいか、彼女は私への興味を失ってしまったらしい。
千鳥に声をかけることをためらって、私は日記の内容へと戻っていった。他にも人形について何か書かれてはいないかと、過去へ日付を遡る。
――✕年✕月✕日
西洋人形
濃い茶色の波打つ髪に同じ色の目の色。
ベルベット風の茶色いドレス。
仏間に置く。
人形に関する記述を見つけた。
ダンボール箱の中で見た人形の姿を、できる限り頭の中で思い描いてみる。まじまじと見たわけではないので確かなことは言えないが、ここに書かれている内容と似ている気がした。もう一度見て、確認したいところだが――
その前に、それ以外にも何か書かれていないかを先に探すことにした。
――人形が動いている気がする。
仏間に置いてある西洋人形だ。
たんすの上の花びんの横にあったはず。
でも、気づくと位置が変わっていた。
――やはり動いている。
ためしに結びつけたリボンが外れていた。
何もしないでそうなるはずがない。
どういうことだろう。知らない間に、人形の位置が変わっている。人形がひとりでに動いたとでもいうのだろうか。
そんなことはあり得ない。彼女の勘違いだろう。たとえば、同居人が勝手に動かしたとか。
いや、違う。彼女はひとり暮らしだったはず――
しかし、日記には、やえさん、という名前があった。友人だろうか。あるいは、老人を支援しているような人が通っていたのかもしれない。
だが、少なくともその人物は人形を動かしてはいないようだ。
――人形を手放すことにした。
動く理由はやえさんにもわからない。
危険な物なのだろうか。
かわいらしいと思っていたが仕方がない。
――人形はどうして戻ってきたのか。
わからないので茶の間に移した。
やえさんに見ていてもらうことにする。
おかしなことは、人形の位置が変わることだけ。しかし、それだけでも十分不気味だろう。そして、彼女は人形を捨てた――はずなのだが、それは戻ってきた。彼女の元へ。
私は大きく息をはきながら、日記から目を離した。
折しもそのとき、千鳥がその西洋人形を手にしていたところで――彼女は丁寧に、その髪を手櫛ですいている――その特徴は、やはり書かれている内容と一致していた。
私は人形が苦手だ。人に似せて作られた、人ではない物。どうしても、私はそこに魂のようなものを幻視してしまう。そうして、何か得体の知れないものと対峙している気にさせられるので、正視することすらなるべく避けたいくらいだった。
しかも、普通の人形ですらそうなのに、この人形は人知れず動き出し、捨てても戻って来るという。なぜ、よりによってそんな物を――
「その人形。少し不気味じゃない?」
私は思わず、千鳥に向かってそう言った。
「え? かわいいでしょ。作りもよさそうだし」
千鳥はそう答えると、人形の頭を慈しむように優しく撫でた。どうやら、彼女には人形に対する苦手意識はないようだ。むしろその表情を見る限り、こういう物が好きそうにも見える。
とはいえ、千鳥がそんな反応をするのも、それが奇妙なことを起こす人形だとは知らないせいだろう。私はノートを差し出すと、該当の記述を読むように促した。
「――ほら」
千鳥は人形を抱きしめたまま、日記の内容に目を向ける。何か所か読んで、それが確かにここにある人形のことだと確かめると、彼女は楽しそうにこう言った。
「へえ。おもしろいね。呪いの人形みたい。悪魔に憑かれてるやつ」
「何それ」
思わぬ反応に、私は怪訝な顔をする。しかし、千鳥の方はいつもと変わらぬ調子でこう言った。
「有名なオカルトだよ。よくテレビの心霊特集とかでやってた。映画にもなっているよ。見たことはないけど」
有名なオカルト? 確かに動く人形なんて、怪談にはありがちな気がする。
「人形のことを悪く言うと、首を絞められたり、事故が起こったりするんだって」
何でもないことのように、彼女はそう続けた。私はその人形を――今しがた、不気味と称したばかりなのだが。
「でも、あれは何というか、もっと、こう――ぬいぐるみって感じの造形だったような。映画は違うらしいけどね」
彼女の話を聞く傍らで、私はひとり混乱していた。
千鳥が話しているのは映画の話か、それとも有名だというオカルトの方か。私は目の前の西洋人形について話していたつもりだったのだが――
私はもう一度、日記にある記述を読み直した。呪いの人形。そんなことは書いていない。捨てても戻ってくるだけだ。首を絞めたりもしていない。
捨てた物が戻ってくるだけでも、あり得ないことなのだけれども。
私の様子がおかしいと見て、千鳥はこう問いかけた。
「何? そういうの、気にする方だった?」
「だって、書いてあるじゃない」
私が食い気味にそう返すと、千鳥は軽く目を見開いた。そして、からかうような笑みを浮かべる。
「あ。本当に怖いんだ。意外」
その言葉に対して、私はどうやら、よほど恐ろしい形相をしたらしい。千鳥はぎょっとした顔をすると、慌てたように目を逸らした。私はむっとして押し黙る。
確かに、私はオカルトのたぐいが苦手だった。できればそんな話、一切耳に入れたくないと思うほどには。
しばらくは、お互いに気まずい沈黙が続いた。私はノートを見るともなしに見て、千鳥は人形の衣服をやけに丁寧に整えている。
そのうち、千鳥は大きくため息をつくと、諦めたようにこう言った。
「いいよ。これだけ先に処分してくる」
処分してくる。その言葉からすると、元の場所に戻す気はないらしい。私はもう、その件について意見することを諦めていた。というより、関わり合いになりたくなかった。
日記を受け取っておいて、そんなことを思うのもおかしいかもしれないが。
ともかく、人形を処分する方法についても、問いただすようなことはしなかった。千鳥はどこかに売り払うつもりでそう言ったのかもしれない。高く売れると思って持ってきたのなら、そういうことだろう。
私はあらためて手にしたノートへと目を向ける。それが日記だとわかったときには思わず高揚したが、今はその気持ちも萎んでいた。
亡き人の思いを知りたいという、私の密かな願い。
彼女がひとりで暮らしながら何を思っていたのか。これがあれば、知りたかったことを知ることはできるかもしれない。ただ、人形に関する奇妙な記述が、私の心に暗い影を落とし、これ以上彼女の人生を追うことをためらわせていた。
そうでなくとも、これは無断で持ち出された物だ。私はそれを、好奇心で受け取ってしまっている。今さらながら、それが大きな後悔となって自分の心に重くのしかかっていた。