1 アンティークドール(3/5)
それは、私がゴミ屋敷を訪問し、千鳥とその話をした数日後のことだった。
「行ってきたよ」
部屋に帰ってくるなり、千鳥はそう言いながら抱えていたダンボール箱を下ろした。
行ってきた――どこに?
突然のことに何の反応もできず、私はその箱を前にして固まった。頭がぼんやりとしていたのは、今日は仕事が休みで、昼まで寝ていた上の起き抜けだったせいもある。そんな中、降って湧いたできごとに、私はうまく対応できずにいた。
まっさらな思考の波に、ぽっかりと疑問だけが浮かび上がる。
それで、この箱はいったい――何だ?
どこからともなく千鳥が持ち込んで来たそれは、みかん箱くらいのダンボール箱だった。表面に何かが書かれているわけでもなく、封はされていないが、軽く閉じられているせいで中をうかがい知ることもできない。ただ、彼女の動作から、それなりの重さがあることはわかっていた。
いつにない彼女の行動に、その意図が全く読めない私はただ戸惑う。頭の中ではいくつか尋ねたいことが浮かんでいるはずなのだが、それがどうにも言葉にならない。
仕方がないので、私は何とも言い難い顔で千鳥を見返した。そんな私に向かって、彼女はなぜか得意げな表情を浮かべている。
千鳥はダンボール箱の上部を開いたかと思うと、何も言わずにその中を指し示した。その目で見てみろ、ということだろうか。私は気乗りしないながらも、それを覗き込んだ――
そのときの私は、それが何か無害なもの――例えば、千鳥の郷里から野菜のたぐいが送られてきたとか、そういったものであればいいと思っていた。ただし、そんなことは今まで一度たりともなかったのだが。
その考えは、本当にそれを期待していた、というよりは、どうか嫌な予感が当たっていませんように、という祈りに近かったかもしれない。しかして――
ダンボール箱の中にあったのは、いかにも古びて見える、さまざまな道具だった。
陶製の壷に螺鈿の盃、あるいは金属製の彫刻か何か。それから、ノートが何冊かと、いくつかのこまごまとした物。その中でもひときわ目を引いたのは、埃で薄汚れてはいるが妙に存在感があるブルネットの西洋人形だ。
私が呆然と中身を眺めているうちに、千鳥は箱の中へとその手を伸ばした。
「いい物あったよ。これなんか、どう? 珍しい物なんじゃない?」
千鳥は木製の箱のような物を取り出して、それを開けようとした――が、どうやら開かなかったらしい。早々にそれを手放して、次に彼女が取り出したのは、くたびれたノートの束だった。
「それから――これ。興味あるでしょ」
千鳥はそれを、まるで私に押しつけるように差し出した。そんな得体の知れない物、本当は手にするのも嫌だったのだが――胸先まで突きつけられて、私はそれを受け取ってしまう。
ずいぶんと使い込まれているようだが、見た目にはごく普通の古びたノートだ。しかし、なぜノートなのだろう。他と比べてもこれだけが異様に思える。誰かが使ったらしいノート。いったい誰の物だというのか。
「それで、どうしたの? これ……」
ようやく口をついて出た問いかけに、千鳥はとんでもない答えを返した。
「例のゴミ屋敷に行ってきた。そこから。高く売れないかな、と思って」
そのひとことで、私は頭の中が真っ白になる。
「行ってきたって……そこから持って来たの? これを?」
千鳥は何でもないことのように、こう答える。
「身寄りないんでしょ。大丈夫大丈夫。あれだけあるんだし、少しくらいどうってことないって」
つまりは無断で持ち出してきたのか。あの家に侵入して。
その事実を理解するにつれ、私の中には言い様のない不快感が広がっていった。なぜ、そんなことを――いや、本人がはっきりと言っている。高く売れると思ったから。それが理由。しかし。
――そんなことのために?
それはただの泥棒だ。
私は愕然としていた。しかし、それをどう表に出せばいいのかわからない。叱る? 怒る? 怒って――どうする? こんな、明らかな犯罪を何とも思っていないような相手に。
一年ほど共に生活したにもかかわらず、私は千鳥がこんなことをする人間だということを知らなかった。今まで隠していたのか、それとも、たまたまそんな場面がなかっただけか。とにかく、私の中には怒りと失望と――そんな、あらゆる負の感情が渦巻いて、この場で自分がどうするべきかを決められずにいた。
千鳥の言動をここまで不快に思ったことはない。
それでも彼女は――私にとって都合のいい同居人だった。そう思って、私はその感情を一度は見逃そうと努める。しかし――
無理だった。倫理観が合わない。こんなことを平然とする人間とは一緒にいられない。
このときにはもう、私は千鳥との生活を終わらせることを決意していた。とはいえ、すぐにでもと考えたわけではない。せめて本が出せた後――いや、新しい住まいの目処が立ってから――怒りのような感情の傍らで、私はそんな冷静な判断を下していた。
私は受け取ったノートを無言で見下ろす。そして、何気なくページをめくった。
彼女の言い分はともかくとして、やはり押しつけられたノートのことは気になっていたからだ。これだけは、彼女の言う、高く売れるような品には見えなかった。
そのことが純粋に気になった、ということもあるが、おそらく私は彼女の行為から目を逸らしたかったのだろう。これを千鳥に返すとしても、何が書かれているかを確かめてからでもいい。そう思ったのだが――
ノートを開いてみてすぐ、私はそれが容易ではないことに気づいた。
紙面にぎっしりと文字が書かれていたからだ。判別できないほどではないが、文字自体が独特で、視認するのには慣れが必要だろう。そんな文字が、神経質に思えるほど間を詰めて書かれている。これでは、何が書かれているかを把握するにも一苦労だ。
ひとまずは短い文章を選んで、いくつか読んでみることにした。
――✕年✕月✕日
テレビの調子が悪い。
ぶつぶつと何か別の絵と音が入り込む。
――✕年✕月✕日
紫ちりめんの着物
菊の模様がある。
少し燃えて焦げたような跡がある。
台所から異臭がする。
水道からだろうか。
よくわからない。
ただどことなく獣くさい。
ページに目を通していくうちに、私の心音は徐々に早くなっていった。この内容からすると、これらはもしかして、亡くなった老女が書いた日記なのではないだろうか。
彼女の心情を知ることは、もはや不可能だと思っていた。事実、不可能のはずだった。しかし、この日記があれば、それがわかるかもしれない。その一端を、知ることができるかもしれない――
ふと視線を感じて、私は手にしたノートから顔を上げた。と同時に、私の反応をじっと眺めていたらしい千鳥と目が合う。
そのとき、私はようやく気づいた。おそらく千鳥は、私が執心することを見越してこれを持ち出してきたのだろう。それは単なる親切心か、それとも私を共犯にして巻き込むためか。
そこまで考えが及んでもなお、私はその日記を手放すことができないでいた。個人の日記など――それも、遺族のひとりもいない故人の物だ――何の価値もないだろう。持ってきたところで、誰も困らない。そんなことを、心の中で言い訳する。
しかし、同時に私は、千鳥の術中にはまっていることを自覚していた。自覚していながら、引き返すことができなかった。
私は千鳥のことを無視して、日記を読み流すことを選んだ。とにかく、書かれている内容を大まかにでも確認しておきたかったからだ。
日記は普通のノートを利用して書かれており、手書きの線によって一日ごとに区切られている。始めに必ず日付が書き込まれていて、毎日ではないが、その続きに物の名前が書かれていることもあった。その後には、それに関しての詳細と思われる文章が続いている。
――拾ってきた物を、記録しているのか。
古道具やら古美術やら、たくさんの物に埋もれていたあの家のことを思い出す。どうやら彼女は無節操にあれらを集めていたわけではないらしい。
日記には拾った物が記録されている他に、その日のできごとも記されていた。電気ストーブが壊れたとか、誰それに会ったとか――本当に簡単なメモだ。
集中して、いくつかのページを読んでみる。
――近所の人にししゅうをほめられた。
孫の分も欲しいというので引き受ける。
やえさんには安うけ合いするなとしかられた。
――お礼によいものをもらった。
ずいぶん上等なたけのこだ。
安うけ合いもたまにはいいと思う。
――捨てたはずの人形が戻って来ている。
確かにゴミ捨て場に置いたはずなのに。
いつもあった場所に戻っている。