ツバメが飛んだ日 徳平の春
四階建て建物の二階の部屋に明かりが灯っている。時刻は午後八時を回っている。部屋の中には男が一人事務机に向かって座っている。男の座る机の上だけに蛍光灯が灯っていた。他に人影は無かった。男は机の上の書類の束を一つにまとめ壁の時計に目をやると、椅子に掛けていた着古した地味な茶系統の上着に袖を通して席を立った。
建物の玄関を出た男の頬を涼しい風が撫ぜた。昼間の汗ばむ様な日差しとは明らかに違っていた。見上げる暗い空に煌めく星々を従える様に細い三日月が見えた。
「ようやく秋が来たか・・」一人呟き男は建物前の市道脇の歩道を歩きだした。歳は五十歳前後短く刈った頭髪に少し白髪が混じっている。少し蟹股風にやや猫背の長身の体がゆっくりと歩を進めて行く。歩道で一旦立ち止まり市道を渡ると市道が交差する交差点で信号に従い又市道を渡った。その先には明るいアーケード街があった。この町唯一の商店街だった。百メートル程のアーケード街は早々とシャッターを下ろす店もあった。人通りもまばらなアーケード街を抜けると男は左の路地に折れ商店街の裏筋の通りに出た。古い民家が立ち並ぶ通りを右に折れると左手に明かりが灯り「南風ラーメン」の暖簾が掛かった店があった。
男はその店の暖簾を潜り引き戸を開けて店に入った。一組の男女が店を出ようとしてすれ違った。「いらっしゃい・・」元声な声を掛けて来たのは店主の南戸信吉だった。少し小太りで無精ひげを生やした四十男はレジ前からカウンター内に戻ると「今日も遅いお戻りですね。勤め先の社長はブラック企業見たいですね。人使いが荒い・・」
「いや貧乏暇なし。私には似合った仕事ですよ・・」
男は客の居なくなったカウンターの一番奥の席に腰を下ろした。
「徳さん・・何時ものやつで・・」「ああそれにビールの小瓶を一本つけてくれ」
南戸信吉は冷蔵庫から出したビールの小瓶の栓を抜き、コップと共に松葉徳平の前のカウンターに置いた。
徳平はビールをコップに注ぎ一口飲んで醬油ラーメンが出来るのを待った。徳平はこの店の醬油ラーメンがお気に入りだった。何時も注文するのはこのラーメンだった。この店に通い始めて半年が過ぎている。
松葉徳平がこの町、北星市に単身赴任して半年になる。北星市は下北町と星山町が合併した町で人口六万人。山間部の丘陵地にできた工業団地のおかげで市の郊外に新興住宅地ができ人口流失は免れている。ただ市を取り巻く町から遠い山間集落の事情は違っていた。若者は仕事を求め町に都会にと出て行き集落に残るのは置き去りにされた高齢者ばかりだった。
「へい。お待ち・・」徳平の前に湯気の立つラーメンが差し出された。何時も道理に二枚の筈のチャーシューが一枚多く入っている。「すまないね・・」徳平は箸を取った。熱いラーメンを音を立てて口に注ぎ込み、ビールを一口飲んだ。
店の戸が開いた。「こんばんは・・」女の声がして続いて「こんばんは・・」と母親の真似をして三人の男の子が店に入って来た。店内にある三つのテーブルのうち入口に近いテーブルに四人が席を占めると信吉はカウンターを出て表の電灯を消し暖簾を取り込んだ。閉店の午後九時には間があった。信吉はカウンター内に戻ると女に声を掛けた。
「何時ものやつでいいのかな・・」女はコクリと頷いた。
女は三十歳くらい。油気のない長い髪を髪留めで束ねている。顔に化粧は無く頬はこけてやつれが見える。着古した男物の黒いジャンパーを羽織り、これもよれよれのジーンズを履き足元は素足にを薄汚れた白のスニーカーを履いていた。四日前に店に来た時と同じ服装だった。
徳平はラーメンを食べ終わりビールを口にした。徳平がこの親子と対面するのは初めてではなかった。この店に通い始めて幾度となく対面していた。この親子は決まって閉店間際のこの時間帯にやってきた。自然と徳平と来店時間が重なった。
女の亭主竹沼龍吉四十歳は工務店の大工として勤めていたが覚せい剤取締法違反で複数回検挙され三年の実刑で二年前から服役中と南戸信吉から聞かされていた。
ー亭主の出所は来年春か・・女手一つで子供三人を育てる事は並大抵の事ではないだろうー
徳平は心の中で呟いていた。
信吉がカウンター内から出て来てラーメンを運んでいる。大人一人に幼い子供三人にラーメン二杯、それに飯一人前。その飯にチャーシュウ一枚が乗せてあった。信治がカウンター内に戻ると女は持って来た黒い手提げ袋の中からプラスチックの汁椀と小さなシャモジを取り出した。上の子供小学三年生の正樹と小学一年生の良二の前に置かれたラーメンドンブリからラーメンを少しずつ取り分けプラスチック汁椀にいれ、持って来たちいさなシャモジでスープもすくっつて椀に入れた。その椀を一番小さな三歳児の三郎の前に置いた。三人の子供達は黙って母の手元を見つめている。「さあお食べよ・・」母親の言葉に子供達は一斉に箸を取った。
女は子供達を眺めると飯の椀に乗せられた信吉のサービスチャーシューを一番下の三郎の汁椀に入れた。女は黙って子供達が食べ終わるのを待っている。
その家族の姿を横目に徳平はビールを飲みタバコに火を点けた。女は先に食べ終えた年上の子供の残したスープを飯の上にぶっ掛け掻き込んで食べた。
「ああ・・」見慣れた女の姿ではあったが切なさが徳平の胸を曇らせた。
たった三台しか車を止める事の出来ないラーメン店の狭い駐車場に車が止まった。黒いセダンの乗用車だった。車から降りた若い二人の男は電灯の消えた店の戸を開けた。
「今日はもう閉店ですが・・」店主の言葉を無視した二人ずれは店の中に入って来た。一人は身長百八十センチ位の痩せた長身の二十代の男で頭をリーゼント風の髪型にしていた。腕まくりした腕にはタトウの入れ墨があった。もう一人の男は対照的に身長百六十センチ位の肩幅の広いガッシリとした体格で坊主頭年齢二十歳前後のこれも若い男だった。
男達はカウンター席に座る徳平にチラリと目をやり、直ぐにテーブル席に座る女の側に行った。「やっぱり此処に来ていたな。逃げずに借りた金は返せよ。もう三月が過ぎているぞ」
背の高い若い男が低いどすの聞いた声で女に言った。
「今は持ち合わせのお金がありません。近い内に必ず・・」女が頭を下げた。
「おいおい冗談はよせよ。一月で返すからと泣いて三万円を借りたのは何処のどいつだ。子供の前だが体で支払ってもらうしかないようだ。それが嫌なら今日こそ三か月分の利子を含めて六万円耳を揃えて払ってもらおうか」
男の脅しに女は「六万円だなんて・・私が借りたのは三万円です。それが倍になるなんて・・」
と助けを求める様に店主の信吉に目をやった。子供達の目も信吉に向いていた。
「兄さんたち。子供のいる前で野暮な話はしなさんな・・」
黙って奥のカウンター席に座っつている中年の男から声を掛けられ、若い二人の男は「何を」と気色ばった目をその中年の男に向けた。そんな男達を気にする風もなく中年の男は言葉を続けた。「三か月で倍か・・十一の利子と言う事は正式な金融業者ではないな。兄さんたちは何と言う業者の取り立て人だな」
それを聞いた長身の若い男は目くじらを立て「外野はへっこんいろ。おっさん表に出てもらおうか・・」と詰めよってきた。
「いいだろう。まともな話し合いが出来るなら表に出よう・・」カウンター席から立ち上がった徳平は何でもない様な顔で、顎で若者を誘い店の入り口に向かった。「徳さん・・」心配して声を掛けた信吉に口元を歪めて見せ手の平で制して店を出た。
店を出ると同時に殴りかかろうとする長身の男の目の前に黒い手帳が開かれ突き出された。
「あっ・・」長身の若い男は目を見開いて、開かれた黒い手帳を見つめ突き出した拳をおずおずと下げた。徳平は素早く手帳を胸ポケットに納めると「ここだけの話だが親分か社長か知らないが利子は一万円に負けておけ。締めて四万円は明日借用書と領収者を持って来た時、女に変わって支払ってやる。俺は二階にいる。松葉と言えばわかる。それから社長に悪どい人助は止めて置けと伝えてくれ。わかったな・・」と告げた。
若い二人が神妙に頷いている。「分かったなら店に入って子供達にゴメンと一言優しい言葉を掛けてくれないか。傷つきやすい子供達の心を癒してくれれば有難いのだが・・いやか・・。それと俺の身分は店の中の者には内緒にしてくれ」と念を押し二人を誘った。若い二人は先程の気勢は何処へやら、へこへこと徳平の後に従った。
店に入ると店主の信吉と女が心配気に徳平を見つめた。若い二人組が憑き物が落ちた様な顔で徳平の後を着いて来るのを見て信吉と女は首を傾げた。若い男二人が子供達の前に立って奥のカウンター席にに座る徳平を見た。徳平は笑顔で頷き一言「笑顔・・」と顎をしゃくった。 二人は小さくなっている子供達に愛想笑いを浮かべて頭を下げ「さっきは驚かせてゴメン・・あれはお芝居だから・・ゴメンな」と謝り再び徳平を見た。徳平は頷き笑顔で手の甲を入口にむかって振った。その様子を驚いた表情で女は見ていた。
子供達に謝った二人組はそそくさと店の入り口に向かい出て行った。
「徳さん。これはいったいどうなっているんだ、まるで狐につままれた様だよ。どんな手を使ってあの二人を黙らせたんだ・・。いったい徳さんはどんな人なんだ・・」
信吉はカウンター席に戻りタバコを咥える徳平の顔を不思議そうにしげしげと眺めた。それは女も同じだった。徳平は笑っていいからいいからと手を振り「明日になれば結論が出るよ。明日の夜この時間にこの店に来てくれないか」徳平は女に言った。
徳平は親子の分まで支払いを済ませて店を出て、人通りのない薄暗い道を右にとって歩き出した。徳平の宿舎は店から歩いて五分、道から少し上がった高台にあった。
翌日の夜、女は店に一人でやってきた。店に客はおらず店主の信吉だけがカウンター内にいた。信吉は女の来訪に気が付くと、直ぐにカウンター内から出て来た。手には茶色の封筒を持っていた。「美紀さん。徳さんは急ぎの用事が出来たと先に帰ったよ。徳さんからこれを渡すように頼まれている」と美紀に封筒を手渡した。
美紀はその場で封筒の口を開いて中を見た。破かれた三万円の借用書と領収書、それに手紙が入っていた。美紀は手紙を開いて見た。
無事に支払いは終ったよ。もう二度と闇金などから金を借りない様に。あと少し頑張って亭主の帰りを待ちなさい。礼はいらないよ。可愛い子供達のために寄付したと思ってくれ。
頑張るお母さんへ 徳さんより
美紀の手が震えていた。涙が止めどなく頬を伝って流れた。その様子を見ていた信吉が声を掛けた。「美紀さん。それはうれし涙かな・・それとも・・」
美紀は手紙を信吉に差し出し見せた。
「あっこれは・・なんて人だ・・徳さんと言う人は・・」手紙を読んだ信吉は天井を仰いだ。
美紀は手紙を受け取り封筒に戻すと胸に抱いた。
「美紀さん。お願いがあるのだが・・」涙の止まらぬ美紀に信吉が声を掛けた。
「えっお願いって・・」美紀は怪訝な目を信吉に向けた。
「あっ・・それは・・よかったら明日から夕刻の三四時間この店を手伝ってくれないかと思って。女房とも相談したのだが、高い時給は払えないが子供達に夕食を食べさせることくらいは出来ると・・」
「えっそれは・・いいのですか・・私助かります・・本当に雇って貰えると・・」
「ああ。接客と忙しい時間帯に皿洗いなどしてもらえれば有難い・・」
感激に赤い目を輝かす美紀に信吉は何度も頷いて見せた。
其日の朝、午前十時頃。北星警察署の二階刑事課をチンピラ風の若い男二人がドアをノックして入って来た。部屋にいた複数の厳しい目が二人に注がれた。ドア近くの席にいた若い女刑事が立ち上がり応対した。「あの・・松葉さんと言う人は・・今朝来いと言われて・・」
長身の若い男がたどたどしく来意を告げると部屋の奥から声が掛かった。
「おーい。来たか。此方に来い」部屋の奥。窓際の席に松葉徳平が座っていた。徳平に手招きされ二人は徳平の席の前に立った。刑事係長松葉徳平の置物が机上に置いてある。
「社長は何と言っていた。持って来たのか・・」徳平に尋ねられ長身の亀川務が手に持っている封筒を黙って差し出し机の上に置いた。封筒を開けて見た徳平は頷き、机の引き出しから茶封筒を取り出し「中を確かめて見ろ・・」と亀川の前に置いた。
封筒の中身を確認した亀川は頷き「確かに・・」とズボンのポケットにしまった。
「言っておくが体で支払うなんて言うんじゃないぞ。ここの飯は美味くはないぞ。雇い主の社
長は何と言っていた・・」徳平に下から睨まれ丸坊主の小柄な戸崎進がペコリと頭を下げて言った。「総長・・いや社長は無理な取り立ては控えるのでお手柔らかに頼むと言っていました」
「そうか・・今こちとらは忙しい。あくどい商売を続けていると気が変わるかも知れないと伝えておいてくれ。それからあのラーメン店には立ち入るなよ。いいな・・」
徳平が再び下から二人を睨んだ。その目は厳しい刑事の目だった。徳平が手の甲を振った。
若い二人はペコリの頭を下げ、急いで部屋を出て行った。
二人が出て行くと部屋の片隅の席に座っていた暴力担当刑事の根島完造が席から立ち上がった。根島は五十二歳この土地に精通する生え抜きの刑事だった。その根島が徳平の側にやって来た。「係長。あの二人は蔭で金貸しをしている元宮興業のチンピラだが何か仕出かしましたか・・」頭髪が薄くなった頭を突き出し尋ねてきた。
「ああちょっとな。その元宮興業の社長って奴はどんな男だ」
「元宮興業を仕切っているのは地元やくざの河瀬組の組員で木島健司という三十五歳位の男です。元は河瀬組の稲本と言う組員の子分だった奴で、稲本が覚せい剤の密売で服役した後に後釜に座った元暴走族上がりですよ。半グレの若い衆を使って悪義な事をやっている様です。まだ内定中ですが闇金の他大麻を扱っているようで・・」
「社長というのはろくでもない奴とは思っていたが・・ありがとう。赴任して半年あの事件捜査で管内の把握が出来てなくてな・・助かったよ。また教えて下さいよ。大麻の件はお任せしますよ」根島が席に戻って行くと徳平は二人が持って来た封筒から借用書を抜き出し引き裂いた。
北星警察署では昨年秋、山林火災現場で毛布にくるまれ発見された死体の捜査が難航していた。殺人死体遺棄事件として捜査本部を設置しているが長引く捜査で今は六人の専従捜査員だけが残っている。徳平は事件発覚後の半年後に県警本部の捜査一課から引き抜かれてこの警察署に赴任した。徳平を引き抜いたのは県警捜査一課で同じ釜の飯を食った刑事課長の岩倉だった。徳平は過去も未来も予測できる第六感の持ち主と岩倉は一目置いていた。身元不明の死体遺棄事件が発生した時直ぐに徳平を思い浮かべた。彼なら事件を解決してくれると信じた。
そして着た切り雀の徳さんは岩倉警部の望み道理北星警察署にやってきた。それが半年前の春の移動だった。今は刑事課の特捜本部の責任者として徳平は部下を指揮していた。
死体が発見された一年前、北西警察署管内の北西山間地域であちらの山此方の山と山林火災が頻発した。いずれも夜間の出火だった。火事は直ぐに放火と断定された。火元と思われる林道わきには決まって段ボール箱とわら束の燃えカスがあったからだ。その山火事の一ヶ所で、燃えた斜面の雑木林から発見された灰に塗れた毛布の中から死体は見つかった。其日以来山林火災は息を潜めた。
死体は腐乱し一部白骨化しており、推定年齢六十歳前後死後半年は経っていると断定されたが未だ身元が判明していない。行方不明者の捜査は続けられていた。
徳平は管内で発生した事件記録に目を通していた。刑事部屋の入口ドアが開き二十代の女がその後ろから若い刑事は入って来た。若い刑事の名は宮田礼二という。歳は二十五歳まだ駆け出しの刑事だっだ。宮田は自分の席に同年代の女を連れて行くと向かい合って椅子に座らせた。
「もう観念して本当の名前と歳、住所を話しなさい。スーパーの店長さんもあんたの母親が癌だと聞かされ許してきたが三度目は目をつむれないと、これに懲りて反省してほしいと言っていた。反省したなら話せるだろう。俺もあんたの話した嘘の住所に付き合ってやったじないか。篠田加代さん。あんたが連れて行った賃貸マンションの篠田さんに電話を入れて確かめるがいいのか。だいたいあんなマンションに住んでいる人が千円に満たない食料品など万引きはしない筈だろう。契約社員で勤めていた会社は間違いないんだな」「・・・」「黙っていても会社に電話はいれるよ」
宮田は会社に電話を掛けた。「もしもし私は北星警察署の宮田と申しますが、ちょっとお伺いしたい事がございまして・・」「はいどんな事でございましょうか」
社員だろう女の声の応答があった。「一つお聞きしたいのは、お宅の会社に篠田加代さんと言う契約社員の方はいらっしゃいますか・・」「はい。今日も勤めていますが・・何か・・」
「良かったら電話口に出して頂けませんか・・」「はい。しばらくお待ちください・・」
暫くすると「篠田ですが・・」何か不安げな低い声の女が電話口に出た。
「篠田加代さんですか」「はい。篠田ですが・・」「そうですか。今あなたと同姓同名の人が来ているのですが。何でも同じ契約社員として、そこの会社に勤めていたとか言っていますが・・」
「えっ・・・もしかして二十四五の若い子で目元にホクロのある・・」
「あーはいはい。その女の子ですが本名を知って居ますか・・」「はい・・確か砂見佳世だったと思いますが・・あまりお付き合いがなかったので・・」「その砂見さんの住所を御存じありませんか・・」「住所は知りませんが・・確か癌を患っている母親とアパートで二人暮らしだと・・私が聞いているのはそれくらいです・・その砂見が何を・・。」
「あっどうも。大した事ではありませんよ。どうもありがとうございました。失礼します」
宮田刑事が電話を切ると「事の経緯を全て聞かせてくれないか・・」何時の間に来たのか宮田刑事の耳元で松葉係長の声が聞こえた。びっくりして振り向くと目の前に顔があった。
「あっ係長さん・・たいした事案ではありませんよ。ただこの女性が本当の名前を語らないので長引いてしまって・・」
「そうか・・その娘を砂見加代さんと言ったかな。私に任せてくれないかな・・」
「えっ係長さんが扱う様な事件ではありませんよ」
「そうか。それでは宮田刑事が事件を知った所から現在までの全ての状況を詳しく話してくれないか」「はあ・・」宮田刑事は目の前でうつ向いている若い女に目を移し話始めた。
徳平は椅子を宮田刑事の側に引き寄せ目を瞑り腕を組んで聞いている。途中徳平は宮田刑事の話を遮り「加代さんは派遣先の会社で篠田佳世さんと知り合ったと・・」
尋ねられ砂見加代はうつ向いた顔を少し上げて「ハイ」と答えた。「続けて・・」宮田刑事を促し徳平は又腕を組み目を閉じた。
次に徳平が腕組した片手を上げ宮田刑事の話を遮ったのは、賃貸マンションの駐車場に止めてあった赤い軽四輪の四輪駆動車の場面の処だった。
「加代さん。篠田佳世の住所を知ったのは何時だい。それからその赤い車が篠田佳世の車だと
何故知って居たのかな」
徳平は二つまとめて尋ねた。砂見加代は今度は顔を上げ徳平の顔を見て話した。
「篠田さんの住所は派遣会社に置いてある履歴書を盗み見てメモしました。私と同じ読み方の名前だったので」「万引きで捕まった時使おうと・・」横から口を出した宮田刑事の言葉には答えず女は「赤い車には一度乗せて貰ったので覚えていました。あれは二三ヶ月前の雨の日でした。会社帰り篠田さんを迎えに来た彼氏が乗って来たのがあの車でした。その時バス停まで車に相乗りさせてもらったのです。私が素敵な車ねと言うと、篠田さんが私の車よ。もう四年も乗っているわと話していました」「そうか。なるほど・・ところでその彼氏という男はどんな男だったかな・・」徳平は笑顔で尋ねた。中年男の興味深々という処を演じていたのだ。
「彼氏という男の人は普通の人では無い様な・・短い頭髪を逆立て眉は細く剃って目は細く怖い感じの人でした。首には太い金のネックレスを掛けて指にも太い指輪を・・手首にはビー玉程の数珠をはめていました」「なるほど・・怖そうな彼氏だな。加代さん。苦労しているな。生活保護は受けてないなら私が電話をしてやってもよいが・・その気があるなら電話をくれればいい。私は刑事係長の松葉と言う者だよ。今回の件は微罪処分という御とがめなしの処分になる。今度こそ本当の住所と名前を教えてくれるかな」
宮田刑事の話を聞き終えて温和な表情で話す徳平に砂見加代は素直に頷いた。加代が喋った住所地は福寿荘と言う古いアパートだった。「この娘の話す言葉に嘘はない」徳平は核心していた。
宿舎で眠りについた徳平の耳元でスマホのアラームが鳴った。手探りでスマホを握ると時刻は午前二時を回っていた。
「何が起こった・・」スマホを握ったままでパジャマを脱いだ。
「空き家火災です。場所は下北の山田集落です」「わかった。すぐに行く・・」
徳平は直ぐに放火と直感した。昨日着ていたカッターシャツに袖を通し何時もの上着を羽織って宿舎を出た。 署に着くと当直刑事の宮田刑事と深山刑事の二人が腕に警察の捜査係を示す腕章を巻きゴム長靴を履いて待っていた。
「下北の山田とはどの辺りだ。遠いのか・・」当直刑事に尋ねた。
「下北の山田集落はここから北西に約二十数キロの谷合の集落で、戸数は七、八戸位です。山間部の集落は空き家が多いですから・・昨年秋に放火された山林の近くですよ。」
「そうか案内してくれ。鑑識は・・」「直ぐに来ると思います。連絡はついています」
徳平は当直刑事の若い宮田刑事の運転する捜査用車両の助手席に乗った。車が発進しようとすると警察署の表門に鑑識課員の徳田の私有車が走り込んできた。その車から降りた徳田が捜査用車両に向かって駆けて来た。続いてもう一台走り込んできたのは招集を受けた女性刑事の倉橋輝美の軽四輪乗用車だった。
「来たか。お前達二人は後を追って来い・・行こう・・」鑑識課員に言いおいて徳平は運転している宮田刑事に出発を指示した。
月明りの薄暗い道を捜査用車両は赤色灯を灯して火災現場に向かって行った。
北星市街地を抜け山間地域に捜査用車両はスピードを上げて走って行く。後ろからヘッドライトが追って来た。バックミラーを見た運転している宮田刑事は「もう追い着いて来たようです鑑識さん・・」と徳平に知らせた。「もう来たか・・」腕を組み前方を見つめたままで徳平は頷いた。開けた谷間に道の両脇に数十戸の民家が立ち並ぶ集落を過ぎた。「今の集落は何と言う集落だ・・」徳平が尋ねた。「今の集落はこの地域で一番戸数の多い黒屋集落です。駐在所がありますよ」後部座席に座っているもう一人の当直刑事深山が説明した。五キロ程進むと右手の闇にぽつぽつと民家の明かりが見えた。車は右に曲がり狭い農免道路に入り明かりに向かって進んだ。民家は山裾の傾斜地に建っていた。その集落右手少し外れた傾斜地に白い煙が上がっている。その手前狭い農道に数台の消防車が止まり白いホースが煙に向かって伸びている。付近の農道には多くの軽トラックなど車が止まっていた。
「もう鎮火しているようですね・・」集落の手前で宮田刑事は車を止めた。
徳平は腕に警察の捜査員を示す腕章を撒き車を降りてトランクからゴム長靴を取り出し革靴と履き替えた。それから二人の当直刑事、宮田刑事には止まっている多くの車両の車種とナンバーチエックを命じ深山刑事には集落の聞き込みを指示した。後ろに止まった鑑識用捜査用車両から徳田鑑識課員と倉橋女性刑事がカメラを片手に降りて来た。二人共長靴を履いていた。「火事場付近の野次馬を含めて全て撮影してくれ」徳平は二人に指示し煙の上がる火災現場に目を向けて歩き出した。
火災現場に着くと空き家は完全に燃え落ち、焼けた臭気が漂って白い煙だけがもうもうと天に昇っていた。徳平は農道に止めてある一台の消防車に向かった。そこには白いヘルメットを被り消防団員の法被を着た男が立っていた。足元には消防車から伸びた白いホースが火災現場に向かって伸びている。
「ご苦労様です」徳平は頭を下げて男に近づいた。腕に腕章を撒いた男を振り返り「あっこれはどうもご苦労様です。夜中に警察の人も大変ですね」と笑顔で言った。ヘルメットの下の顔は六十歳を過ぎているのか初老の男だった。
「いやいやそちらこそ大変でしょう。地元の消防団の方ですか。ご苦労様です。状況はどうですか・・」尋ねる徳平に男は「もう鎮火しましたよ。今は残り火を消しています。どうやら放火の様ですよ・・」と答え頭を横に振った。「放火ですか・・それはまた・・」徳平が男の顔を見つめると男は苦笑うし「私はこの先の黒屋集落で車と農機具の修理屋を営んでおります溝川ともうします。見て通りこの歳でこの一帯広瀬地区全体をまとめている消防団長までまかされているしだいで、放火だったら又困る事になると言いたかったのですよ。そうでない事を祈っています」
「本当に放火だったらどうなると・・」「刑事さんは昨年秋の山林放火事件を覚えて居ないのですか。この広瀬地域の数少ない消防団員がどれ程苦労をした事か・・山林火災が治まる一月以上毎晩夜警を組んで出動しました。警察の方も同じだったと思いますが・・また昨年同様、団員に苦労させると思うと頭が痛いのです」
「これは失礼な質問をしてしまいました。私はこの春、北星警察署に赴任して来た者ですが事件の概要は存じています。その放火が殺人死体遺棄事件に発展し今も捜査を続けているのですから・・ただ地元の消防団員の方の苦労迄に思いが至りませんでした。申し訳ありません」
徳平は頭を下げた。「いやそう言って頂ければ此方が恐縮です」溝川消防団長も頭を下げた。
「消防団長一つ教えてください。この地域を広瀬地域と言われましたが北星市が二町が合併してできるまでは下北町の一地域だったはずですが・・」「ああそのことですか。昭和の始めまでこの地域は広瀬村だったのですよ。その当時黒屋が村の中心地だったのです。その後下北町に吸収合併となり、下北町も合併して今の北星市になったと言う事です」
「成程良くわかりました。参考になりました」徳平が再度頭を下げると深川は「参考と言われて思い出しましたよ・・実は昨年の放火が収まった後の頃、十一月末の事ですが黒屋集落から東の山田よりにある私の稲刈りを終えた田圃に知らぬ間に車が落ちて田圃の中を走っていたのです。その車は田圃の脇の農道に駆け上がって帰っていました。道から下四、五十センチの田圃に落ち又その高さの道に駆け上がっているところを見ると四駆の軽四輪トラックだと思いました。ただタイヤの跡は普通タイヤではなくラジアルタイヤの様で少し首を傾げましたが。話はこれからです。其日から暫くして車が走っていた山際の田圃道をトラックターを運転して通っていたところ、山際の藪が茂った場所でふと目をやると藪の中に燃えた稲わらを見つけたのです。幸いにも山火事になってなくて良かったと思うと共に田圃に落ちた車との関係を考えました。もしかして山林放火の犯人が車を落としたのではと・・しかし放火が収まっていたのでこれ以上騒ぎを大きくして皆に迷惑をかけてはと届はしませんでした。どうですか。この空き家火災とは関係ないですが参考になりましたか・・」
消防団長は少し自嘲気味に笑顔になって言った。
「これは大変参考になる情報です。ありがとうございます。今後ともご協力をお願いしますよ団長さん」またまた頭を下げた徳平だったが、気を良くしたのか消防団長は「それはもう何でも警察に協力しますよ」と何度も頷いていた。
聞き込みに行った深山刑事が黒屋駐在所の谷岡巡査と二人の所にやって来た。
「係長。駐在さんが先に聞き込みをしていました。報告は駐在さんから・・」
深山刑事に促され谷岡巡査が報告した。
「私が第一発見者の空き家の隣の住人河辺幸雄から電話連絡を受けたのは午前二時五分でした。
本署に連絡を入れて現場に到着したのが二時二十五分でした。その時は平屋の空き家全体に火が回っており手の付けられない状態でした。隣の民家とは三十メートル以上離れているため類焼の恐れはありませんでした。しかし裏山には燃え移る恐れはありました。第一発見者は物が燃えるきな臭い匂いで目が覚め家の外に出て、隣の空き家が燃えているのに気が付いたようです。時間は私に電話をくれた二三分前と言っていました。ですから出火時間は午前一時半以降と思われます。付近には人影も車のライトも見えなかったそうです。以上です」
駐在所の谷岡巡査が報告を終えると深山刑事は「他の五軒に聞き込みをしましたが深夜の事で誰も異常に気が付いておりません。第一発見者に起こされて火災を知った状況です」
と徳平に報告した。「ご苦労さん。駐在さんは消防署の人に夜が明け次第検分を始めると伝えてください」報告を受けた徳平は駐在所員の谷岡巡査に指示を出し消防団長に会釈してその場を後にした。
夜明けとともに焼け落ちた空き家の実況見分が行われた。空き家の外周部分三か所にわら束が燃えた痕跡が認められ、電気も切られ他に火の気もない事から徳平は放火と断定した。
翌日から広瀬地域では警察と消防団により警戒態勢に入った。夕方から消防団の消防車が赤色灯を点灯させ地域の集落を回っている。滅多と姿を見せない北星警察のパトカーが駐在所の前に止まっていた。山田集落の空き家放火事件は既に地域全体に広まっている。
周囲が闇に包まれた頃北星警察署の捜査用車両二台が広瀬地域に入った。駐在所前を出たパトカーが赤色灯を点灯させパトロールに出て行った。
木戸口集落からアルファベット一文字をエンブレムにした白い国産高級乗用車がヘッドランプを灯し、地域を貫く市道に走り出て西の黒屋方面に向かった。運転しているのは赤茶の革ジャンを羽織った青白い顔の痩せた三十男だった。前方から赤色灯が迫って来た。藤川和馬は緊張し握ったハンドルに汗をかいていた。運転免許証など取った事など一度もなかった。無免許運転だった。赤色灯がすれ違った。紛れもなく白黒のパトカーだった。「やばい・・何故こんな所をパトカーが走っているんだ・・」
藤川和馬は中学生の頃から三十歳になる今日まで閉じこもりの生活を送っている。ただし世にいう閉じこもりとは違っている。夜になると車に乗って徘徊するのだ。
両親は何年も前に和馬の暴力に耐えきれず家を出て北星市に移りすんでいる。姉が一人いるが女子高を卒業後すぐに家を飛び出して行き先不明になっている。車は母親が乗っていた古い軽四乗用車を乗り回していたが、一年前心配して家に帰って来た両親が和馬に脅され老後の資金として蓄えていた金で高級乗用車を父親名義で買わされていた。それ以前にも和馬の為に田畑や山林の杉やヒノキを売り払っている。
藤川和馬が運転する車は黒屋集落を抜け県道を北星市に向かって行った。
北星市内の一階部分が駐車場になっている建物に和馬は車を止め階段を上って行った。
駐車場に白い外車と黒いセダンの乗用車が一台、暴走族使用の改造バイクが一台止めてあった。階段登り口の壁には元宮興業の小さな看板があった。
二階部分に上がると和馬は覗き窓があるスチールのドアをノックもせずに開けた。
「馬鹿がやってきた。また金を貸せと言いに来たのか・・」
受付のカウンター越しに事務所兼応接室がある。そこにあるソファーに腰かけテーブルの上に足をなげだしているのは木島健司だった。逆立てた髪の毛、細い目。首には太い金のネックレスがぶら下がっている。
「義兄貴。そんな事を言わないで姉貴の顔を立てて少し貸してくれよ・・」
和馬が事務所に入って来た。事務所には木島の他に若い男が三人、電話機の前と駐車場を映す防犯ビデオの前に一人ずつそれに奥の部屋に一人椅子に座っていた。皆目つきの悪い若者だった。「今日はいくら貸して欲しいのだ・・」木島がタバコを咥えると防犯ビデオ前にいた若い男がすぐにライターで火を点けた。
「晩飯を食って・・スナックに行って・・それからゲーム喫茶へ」
「お前は本当に底抜けの馬鹿だな・・ゲーム機賭博で勝った事があるのか・・」
「ああ勝った事は一度だけあるよ。それも大勝ちだった・・」
「お前って奴は救いようがない馬鹿だ。店はお前がカモだと最初に勝たした・・それも分からない様ではもう金は貸せないぞ・・それにお前はいったい幾ら金を借りているのか分かっているのか・・そろそろ一千万位にはなっている筈だが・・」「ひえーもうそんなに・・でも今日のところは何とか・・お前の姉貴は一生今の生活から抜け出せそうにないな・・」
木島は金庫から十万円を取り出し「車のカギは置いて行け・・飲酒運転で捕まって店の名前を出されては迷惑だからな。飯屋までは送らせてやる」
木島は金を和馬に渡すと奥の部屋に首を振った。奥の部屋の若者が立ち上がり「行こう・・」と和馬を誘い和馬の車のキーを預かりポケットにいれた。和馬たちが駐車場に降りて行くとそれを待ちかねた様に奥の部屋の壁側のドアが開いた。
「行きましたか・・仕事は終わりましたよ。これからどうします・・」
ドアは一階駐車場の下にある地下に通じるドアだった。地下から上がって来て報告したのはリーゼント頭の亀川務だった。
「そうか。袋詰めが終わったなら何時もの様にマンションに運んでくれ」
亀川は頷き隣の部屋のドアから地下室に通じる階段を下りていった
地下室にはもう一人いた。背の低い丸坊主頭の戸崎進だった。地下室には長机が三つその上に段ボール箱が三つ重ねられて置かれていた。部屋の中には何やら訳の分からぬ金属製の大きな箱が有り電気コードが電源に繋がっていた。他にもミキサーが二つ置いてありプラスチック容器や段ボール箱に入ったビニール袋の束があった。
亀川と戸崎の二人は長机の上の段ボール箱を提げて階段を途中まで登りスチール製のドアを開けた。そこは一階の駐車場だった。運び上げた段ボール箱を黒いセダンの車に運び入れて二人はその車で走り去った。
午前零時。篠田佳世こと藤川佳世は赤い軽四乗用車で賃貸マンションに帰って来た。派遣の仕事を終えると佳世は市内の繁華街の裏筋にあるスナックに出勤した。そこは木島健司が杯を貰った河瀬組組長河瀬綱造の女房民江が営む店だった。何故その店に勤めているのかと言うと、それは賃貸マンションで同棲している木島健司の指示によるものだった。
佳世は鍵を開けて部屋に入った。部屋の隅に段ボール箱が三つ重ねられて置かれていた。それが何か佳世は薄々判っていた。疲れた体でビジネススーツをベットの上に脱ぎ捨てシャワーを浴びた。裸のままで鏡台に向かい濡れた髪を乾かすとベットに横になった。今夜は木島が帰って来ない事は判っていた。スナックに姿を現した木島は金髪の若い女を連れていた。それは珍しい事ではなかった。今頃は何処かのホテルにしけこんでいるだろう。
佳世は電気を消し目を閉じた。
佳世が木島と知り合ったのは佳世が女高生の時だった。暴走族に絡まれている時、姿を現し助けてくれたのが木島健司だった。その後何度かお茶する中になり、木島が運転するバイクで何度も家まで送って貰った。佳世は木島と知り合った時偽名を使った。それは木島に対する警戒心からだった。依頼本名がバレた今でも篠田の姓を名乗っている。
木島健司は佳世を広瀬の木戸口集落に送るうちに広瀬地域の道路事情に精通した。バイクに佳世を乗せ奥谷の林道を走りその山奥で二人は結ばれた。
木戸口の佳世の実家は閉じこもりの弟和馬の暴力で殺伐としていた。佳世はそんな家庭にいたたまれず女学校卒業後家を飛び出し北星市内のデパートの化粧品店に就職した。佳世は人並以上の美少女だった。店長はその美貌で佳世を採用した。佳世のいる化粧品店には女性のみならず若い男性客が多く訪れる様になった。
暫く付き合いが途絶えていた木島健司が職場の店にやって来た。「やっと見つけた。俺からは逃げられない。でもこの仕事はお前にはよく似合っている」細い目が一本の線になり口元が上がった。見慣れた笑みだった。「また来る・・」其日以来木島健司は度々姿を見せる様になった。「健司君店に覗くだけ・・たまには男性化粧品でも買っていってよ」佳世に言われて佳世が進める化粧品を木島は何点か買って行った。
デパートの店長は度々化粧品売り場に姿を見せるチンピラ風の若い男が気になっていた。
「藤川君。店に良く来る若い男だが知り合いかい・・」
「あっはい。幼馴染の友達です」佳世は咄嗟に嘘をついた。「それならいいが店のイメージにかかわるのでね・・」店長はチクリと釘を刺した。
そんなある日。佳世目当てに化粧品を買いに来る大学生に佳世は笑顔で応対していた。大学生の手がカウンターの上の佳世の手を握った。ハッとして佳世は手を引いた。大学生は手を離さなかった。「止めて下さい・・」佳世は声を潜めて言った。誰かが後ろから大学生の肩を叩いた。振り返った大学生は目から星が飛び床に転がった。
店内が騒然となり警備員が飛んで来た。木島健司は警察に引き渡されたが暴行を受けた大学生にも非があると分かり示談となって釈放された。
デパートの店長に木島が地元暴力団河瀬組の組員と知らされていた。佳世は店長室に呼ばれ自首退社させられてしまった。その後木島健司の口利きで佳世は河瀬組の息のかかった派会社に勤める事になり現在に至っている。
やっと眠りについた佳世はスマホの着信音に目を覚ました。弟の和馬からの着信だった。午前一時を回っていた。
「何よこんな時間に・・切るわよ・・」佳世は眠りを妨げられ怒っていた。
「お姉待ってくれよ。俺は今義兄貴の事務所の前にいる。止めていた車が無いんだよ。どうやら義兄貴が乗っていって仕舞った様なんだ・・」
「あんた又お金を借りたのね。自業自得ってものよ。私は知らないからね。お金を借りたならタクシーで帰りなさい。はいさようなら」佳世はスマホの電源を切った。
加代が河瀬組組員木島健司との関係を口にしたのは両親が家を出た後のことだった。わがまま放題家族を家庭を崩壊させてゆく弟を脅すつもりだった。それが裏目に出てしまった。
木島健司が闇金を始めると、姉佳世の名前を出して金を借りる様になってしまった。この事により佳世は木島健司から離れられなくなってしまった。馬鹿な弟の為に自分まで身動きできなくなってしまいミイラ取りがミイラになってしまった感覚だった。それでも苦境に耐える両親の事を思うと弟と縁を切る事が出来なかった。
福寿荘の砂見加代の部屋では加代が台所で遅い朝食の後かたずけをしていた。アパートの玄関前の駐車場に一台の白い県外ナンバーの車が止まった。加代は台所の窓を開けて覗き見た。
車から壮年の男と品のよい老婆が降りて来た。ハンドバックを片手に老婆は壮年の男に手を引かれアパートの玄関を入って来た。ー誰に会いに来たのだろうーと台所の流しの食器に手を添えた時、部屋のドアがノックされた。「ハーイ」加代がドアを開けると先程の壮年の男と品の良い老婆が立っていた。「この部屋は砂見千加子さんの部屋ですか・・」壮年の男が部屋の中を覗き見る様に尋ねて来た。「はい。砂見千加子は母ですが・・」「それでは君が加代か・・」
全てを聞かず男は半開きのドアを開いて勝手に部屋へ上がり込んだ。「千加子ー」二間しかない奥の部屋で男が母の千加子に呼びかけた。床から頭を上げた母が「兄さんー」と叫んだ。
後から部屋に入って来た老婆が母に抱き着いた。「千加子・・どうしてこんなに、情けない姿に・・」老婆が泣いていた。母も泣いている。加代はその様子を立って呆然と眺めていた。
部屋の隅に小さな仏壇が遺影と共に祀られている。その遺影に目を向けた兄と呼ばれた男が言った。「砂見は死んだのか・・」「はい。兄さん十年前に亡くなりました。脳溢血でした」
母の千加子が弱弱しい声で伝えた。「そうかい。政次は死んだのかい・・もう憎む事はできないね・・」老婆が呟くように言った。母の千加子は半身を起こし項垂れている。
砂見政次は地方都市では名の知れた料亭で働く調理師だった。千賀子はその料亭の娘だった。
よくある話でその料亭の娘と調理師が恋仲になり駆け落ちした。二十七年前の話である。
「加代と言ったね。苦労したんだね。聞いているよ。もう心配はいらないよ。お母さんはこれから病院に連れて行くよ。お母さんの下着を準備してくれるかい・・」
母から兄と呼ばれた男に優しく声を掛けられ加代はやっと現実に引き戻された。「はい・・でもお母さん・・」加代は母の顔を見た。母が兄の奥村卓司の顔を見て言った。「兄さん。お願い。私はこの部屋で死にたい。あの人が亡くなったこの部屋で・・」すがる様に母が言うと「何を馬鹿な事をいっている。お前は我が子がどれ程苦労して来たか知らないだろう。知って居たならそんな言葉は啼けないだろう」
「兄さん。どうして私達の事を・・どうしてこの場所を知ったの・・」
「馬鹿が。そんな事はどうでもいいだろう。お前に取って家族とは親兄弟とは何なんだ・・皆がどれ程心配してきた事か。お前は判っているのか・・」
男の、兄の声は怒りに震えていた。「加代構わずお母さんの下着を・・」加代は黙って小さな箪笥の引き出しを引き出した。
母千加子は兄卓司に無理やり車に乗せられて病院に運ばれ入院した。加代は祖母とアパートで同居する事になり二人は病院の母を見舞った。しかしそれも長くは掛からなかった。一月後枯葉が舞う初冬の夜明け前、母千加子は身罷った。
福寿荘の駐車場に県外ナンバーの白い車が止まっている。その横にボックス付きの軽四輪トラックが荷物を積み終え出発を待っている。アパートから小父の奥村卓司と祖母光代が出て来て車に乗った。隣の部屋の夫婦が加代と共に出て来て見送った。他の住人は部屋の窓から見送っていた。その二階の窓に竹沼美紀の顔があった。白い車に乗った加代が外に向かって笑顔で手を振った。白い車が走り出すとボックス付きの軽四輪トラックが後に従い走り出した。
アパートの見える路地に着古した上着を着た一人の男が立って見送っていた。「幸せになるんだよ・・」男の口元が呟いていた。
北星警察署の刑事課の部屋では刑事課長の岩倉と徳平が頭を突き合わせ話し合っていた。
北星市の北西、広瀬地域で一年ぶりに発生した放火事件は未だ解決できないでいた。あの空き家放火事件以来一月が過ぎても次の発生がない。警察と消防による警戒態勢が功をとうしている結果とも言えた。「一度警戒態勢を解除して様子を見た方が良いのかも知れません。犯人が警戒して動かないとしたら夜間の警戒は無駄になりますし、消防団員も疲れています」
「そうだな。一年前の山林放火犯人と今回の犯人が同一犯人とは限らないだろう」「いや課長。犯人は同一犯人ですよ。犯人にも何か別の事情があるのかも知れません」「何かとは・・」
「それは判りませんが・・私には何故かそのように感じられるのです」「徳さんの感と言う奴か。それでは当分放火は無いと・・」「いや・・必ず放火しますよ。何かの意図を持って・・
それが何時になるのか・・」「そこまでは読めないか徳さんでも・・」「千里眼でもない限り分かりませんよ。それが判れば警察はいりませんよ」「それもそうだ・・」
二人は苦笑い浮かべ話を打ち切った。 其日警戒態勢は解除された。一部の捜査員を除いて。 二人の上司が話を打ち切ると暴力担当の古参刑事根島完造が二人の元へやってきた。
「報告が遅れました。生活安全課の少年係から連絡があったのですが、昨夜地域課のパトカーがバイクを運転していた無免許運転の中学生を捕まえたところその所持品から大麻タバコが発見されたとの事です。取り調べたところそのタバコは少年らがたむろしているコンビニの駐車場で元暴走族の先輩に貰ったと話したが、その先輩とは名前も知らない大型バイクに乗ってやって来た二十代の男で初めて会った人だと話したとの事でした。元暴走族と言えば木島健司がいる元宮興業との関係が疑われると生活安全課は見ている様で私もそう見ています。刑事課でも内偵してみてはいかがでしょう。元宮興業の本家は以前覚せい剤で挙げた河瀬組です。元宮興業が大麻を扱っていても不思議はありませんよ」
「そうだな。この件は生活安全課と相談して決めよう。根島刑事。君耳を長くして情報を収集してくれ。頼りにしているよ」
刑事課長の岩倉が根島の肩をポンと叩いた。徳平は席に戻ると腕を組んで何事か考え込んでいた。
「馬鹿野郎・・ガキに葉っぱを渡しただと・・どこのガキだ。名前は・・」
「社長すいません。初めて会ったガキなんで名前は・・」「そのガキが無免許運転で捕まったとそのコンビニにたむろしているガキから聞いて来た。葉っぱタバコは警察の手に渡っているだろう。ガサ入れが有るかも知れない。お前達地下の仕事場を一つ残らず他に移せ。今すぐにだ」
木島健司が青筋を浮かべて二十歳もつれの若い衆を前に怒鳴っていた。
元宮興業の二階事務所にいたチンピラ風の若者数人が地下室に消えた。木島健司はスマホで派遣先の仕事場から藤川佳世を自宅マンションに帰る様呼び戻した。
佳世がマンションに帰って来ると木島は先に帰って待っていた。
「何よ・・仕事先に電話を掛けて来るなんて何があったの・・重大な事でも・・」
「急ぎの用事だ。先月行ったあの県の道の駅に行ってくれ。この部屋にある段ボール箱三つとこれを渡してくれ。後は前回と同じだ。今から出発すれば夕方五時頃には着くだろう」
木島が黒い空のアタッシュケースを佳世に渡した。アタッシュケースにアルファベットのエムの字のシールが貼られていた。
佳世は赤い軽四乗用車に段ボール箱とアタッシュケースを積んでマンションの駐車場を出た。
木島から命じられた道の駅とは二つ県を跨いだ都会から外れた田舎町にあった。佳世は高速道路を走り幹線道路を走り、夕刻五時前に目的地である道の駅に着いた。佳世は前回同様道の駅の駐車場の隅に車を止めた。待つ事もなく先に駐車場に止まっていた黒い乗用車が動き出し佳世の車の横に横ずけした。その車から前回とは違う三十歳代の二人の男が降りて来た。一人は背の高い外国人だった。日本人の男が佳世の車の運転席ドアガラスをノックした。
佳世はドアを開けずドアガラスを下げ空のアタッシュケースを差し出した。アタッシュケースのシールを確認すると、男達は佳世の車の後部ドアを開き段ボール箱を乗って来た車に積み替え黒い別のアタッシュケースを運転席にいる加代に手渡し車に乗り込むと直ぐに発進して行った。佳世は男達の車が駐車場を出て行くのを確認して大きな安堵の溜息をついた。
佳世は自分が何らかの犯罪に加担している事は薄々承知していた。それは大した罪ではないと自分に言い聞かせ楽観的に考えている。自分が以前の自分ではなく罪を罪と感じなくなった日の事は覚えていない。
閉じこもって荒れる弟に耐えられず父母が家を出た家庭崩壊の日が一因だったかも知れない。
家を出ても子は子。家に残した息子を見捨てられず様子を見て来て欲しいと頼まれた姉の気持ち等考えても見ない両親だった。木戸口の藤川家が息子のために家庭崩壊した事は木戸口のみならず近隣集落まで噂が広がっている。
あの日の夜。両親に頼まれ自宅に向かって車を走らせていた。暴力団組員との同棲、決して幸せな生活を送っていない佳世に取って、出来損ないの弟との面会はストレスでしかなかった。
広瀬の黒屋集落の明かりの中を通り過ぎ左手の山際にある足屋の集落の明かりが目に入った。
あの明かりの家々では一家団欒の幸せな生活が有るのだろう。そう考えた時突然我が家の不幸をあざ笑う声が聞こえたような気がした。集落の人々の目を気にして夜間にしか自宅に出入りできない重苦しさ、肩身の狭さ、恥ずかしさを誰が知ろう。地域に対する逆恨みが炎の様に芽生えた。その夜。不安定な心理状態と女の生理が重なって大胆な犯罪に手を染めた。一年前の夜だった。
佳世が自宅マンションに帰り着いたのは午前零時を回っていた。健司が珍しくベッドで寝ていた。佳世は服のままその横に潜り込んだ。
商店街通りを過ぎた所に交差する十字路があり車道を右に曲がって進むと次の交差点がある。
その交差点の左右に通じる通りは古い民家と商店が混在する昔ながらの狭い裏町通りである。
山岸古物店はその通りの中程にあった。店主は山岸政男と言う六十歳位のやや小太りの油ぎった一癖もあるような男だ。何時も黒いショルダーバッグに百万円の札束を入れて持ち歩いている。所有している車は外車の白いベンツだった。山岸は年に一度、その車で日本全国を飛び歩き地方の資産家や成金の家を回って商売をしている。
その山岸古物店に同じ通りで質屋を営む中屋兵吉が立ち寄った。兵吉は六十五歳、色の黒い痩せた男だ。中屋質店と山岸古物店は商売柄付き合いがあった。中屋兵吉は質流れの骨とう品を山岸政男に買い取らせていた。持ちつ持たれつの関係だった。
「お邪魔するよ。御主人は帰られたかな・・」店に入ると店奥に声を掛けた。
「はーい。今出ます・・」店奥から年増女の声がして、化粧の濃い色気のある女が出て来た。
山岸政男の女房姫は政男が先妻を追い出し後妻として迎えた女だった。姫は町で名の知れた小料理屋の仲居をしていた女だった。河瀬組の組長と山岸や中屋、企業舎弟の社長達が度々その料亭で会合を持った。その時酒席に出ていた姫にほれ込み、通い続けて妻に迎えた女だった。
「あら質屋さん。主人なら一度帰って来て又出て行ったわ。又当分帰りそうにないわね」
「また出て行ったとは何時の事だい・・帰ってくれば私の店に顔を出すはずだが・・」
「それがね。又悪い癖が出たらしいのよ・・ほら分るでしょう」
「悪い癖か・・なら又女か・・」「そうとは言わなかったけれど大金を持って出て行ったから
間違いはないわ・・」「それは何処の女だ・・」「そんな事を言うわけはないでしょう。三年前の事を知っているでしょう。あの時は私にバレて土下座したけど・・今度は用心しているみたい。
掘り出し物を見つけたと言っていたけど。どんな掘り出し物やら・・化粧の匂いがする掘り出し物だと感じたわ。当分帰れないと言って出て行ったから、他国の資産家の後家さんの処へでも転がり込んだのかもしれないわ。質屋の御主人どう思われます・・」
古物店の女房は怪しげな流し目で質屋の中屋兵吉を見た。兵吉はその流し目にぞっとした。
今にも襲い掛かられそうな気がして「また来る・・」と古物店を飛び出した。
「あの女はどうも苦手だ。それにしても何時帰って来たのだろう・・」
質屋店主中屋兵吉は片をすぼめて店に帰って行った。
師走。寒さが増して来た夜の幹線道路で歳末の飲酒運転検問が行われていた。
木戸口の藤川の家から白い軽四乗用車が走り出た。車は暗い夜道を北星市の方向に走って行った。藤川佳世はスナックのカウンター内で店のママ河瀬組長の女房民江と共に接客中だった。
組長の女房民江は先代組長の娘で御年六十歳になるが勝気な女で歳より十歳は若く見える和服の似合うきりりとした美人だった。組長茂造は婿養子となって後目を継いだ。故に世間では
組の実質の実力者は女房で組長は女房の尻に敷かれていると陰口が囁かれている。
スマホのバイブがカウンターの下で振動した。佳世はスマホを耳に当てた。
「お姉・・ちょっと変わるから・・」「もしもし藤川和馬さんのお姉さんですか・・こちらは北星警察署の交通課の者ですが・・今藤川和馬さんを無免許運転無車検車運転で署に同行しています。和馬さんは身元を証明するものを何も持っていらっしゃらないのでお手数ですが署に来て頂けませんか。それとお姉さんの身分証明になる物を持参してください。運転免許証でも結構です」
「ハイ。直ぐに伺います。お手数をお掛けします・・」
スマホを耳元から下ろすとママの民江が「どうしたの・・何があったの・・」と怪訝な顔で聞いてきた。
「ママさん実は弟が無免許運転で警察署に連行されているらしいの。今警察から連絡が・・行って来てもいいですか・・」
「弟って、あの閉じこもりとか言う・・」「そうです。その弟です・・」
「分かったわ。早く行ってやりなさい」ママの許しを得て佳世は警察署に向かった。
佳世は警察署になど立ち入りたくなかった。明日は我が身との思いがある。
佳世は警察署の駐車場に車を止め重い足取りで警察署の玄関を入った。交通課は一階左側にあった。佳世は免許更新で訪れ場所は判っていた。交通課の室内では数人の交通警官に囲まれて和馬が椅子に座らされていた。
佳世が来意を告げて姿を現すと、バツの悪そうな顔で和馬が振り返った。
「弟が御迷惑をおかけして申し訳ありません。姉の藤川佳世と申します」佳世は頭を下げ運転免許証を提示した。
「あ・・お姉さんですか。お待ちしておりました。本来なら逮捕もあり得たのですが、初犯と言う事で交通切符処理にしました。。車は無車検ですので運転できません。署の裏に止めています。
車屋に連絡して車検受けするなら取りに来させてください」
三十歳代の温和な顔の警官が身元引受人の書類を差し出し署名を求めた。佳世は即座に署名し和馬を連れて警察署を出た。
駐車場に止めている車に和馬を乗せて発進した。警察署の敷地を出る時、屋根に赤色灯を乗せた車とすれ違った。
年末夜警から帰って来た捜査用車両には若い宮田刑事と見習い女刑事の倉橋刑事が乗っていた。宮田刑事は警察署から出て来た赤い軽四乗用車の運転手を見た。見覚えのない女だったが気に掛かった。警察署に入ると明かりが点いている交通課を覗いた。
「さっき出て行った赤い車は交通課のお客でしたか・・」と尋ねると交通課員が無免許の被疑者を迎えに来た被疑者の姉だと教えてくれた。
「その女の名前と住所がわかりますか・・」宮田刑事は続けて尋ねた。
「おいおい宮田刑事いやに女に拘るじゃないか。何か事件に関係している女なのか。名前と住所は此処にある」交通課員は身元引受の書類を見せた。
「藤川佳世・・住所は・・あっ・・」宮田刑事は住所を書き写すと「ありがとうございました」
と何か言おうとする交通課員の前から、二階に駆け上がった。机の引き出しに、被疑者の共述メモを取ってある。メモを捲った。
「あった・・交通課でメモした住所と同じ住所が書かれた供述メモがあった。篠田佳世は藤川佳世の偽名だった。しまった。無免許運転者の住所を確かめなくては・・」宮田刑事は階段を駆け下りた。
二か月前。万引き犯砂見加代を取り調べた後、松葉係長から言われた言葉が脳裏に蘇っていた。「宮田君。君は先程の砂見加代が話した内容に何を見たね」「何をと言われても・・」
「彼女の話した赤い車の男と女、篠田佳世について何の関心も浮かばなかったかと言う事だよ」
「それは‥どう言う事で・・」「あのやくざっぽい男と派遣とはいえ会社勤めの女。二人のなれそめは女の境遇は・・やくざっぽい男の正体は・・裏に何かあるのではないかと・・」
「あっそれは・・」「刑事なら問題意識をもって仕事をしろと教えているんだよ」
笑った着た切り雀の係長の顔が浮かんだ。
藤川佳世は弟の和馬を乗せて二十四時間営業のスーパーマーケットに立ち寄り、多量の食料品を買い込んで木戸口の実家に弟を送り届けた。
「もう、こんなお役は御免だからね。私を頼るのは今日限りにしてちょうだい。今後の事は自分で考えなさい」買って来た食料品を下ろして佳世は来た道を帰って行った。
佳世は警察署に留め置かれた車検切れの母親名義の車は車屋に売却処分してしまった。
大晦日、年明けまで後数十分。寒風に白い物が舞っている。広瀬の夜道をライトを照らして一台の車が走って行く。和馬は納屋の二階の部屋で布団にくるまり大麻タバコをふかしていた。ぼんやりと目をやるテレビでは年越しそばを芸能人達が美味そうに食べている。「ぐう・・」と腹が鳴った。意識は正常さを保っていた。
母屋と納屋の間でバタンと車のドアが閉まる音がした。納屋の二階に通じる木戸が開き誰かが二階に上がって来た。ドアが開いた。
「和馬。何を吸っているのよ。やめなさい」姉の佳世に言われても和馬はそれを無視したようにタバコをふかした。
「お姉・・俺との関りを絶つと言ってたな。何故来たんだ・・」和馬がぼそりと言った。
「私だって来たくて来たんじゃないわ。お母さんから頼まれて、仕方なくこれを届けに来た。
こんな六で無しの息子は、いい加減ほっときゃいいのに・・」
佳世は持って来た風呂敷包みを開けた。おせち料理が入った重箱だった。
「・・・お母のおせちか・・」和馬はうつろな目で重箱を見た。
「あれだけの暴力を・・仕打ちを受けても・・親馬鹿だね。いい歳をした息子の心配をするなんて・・」佳世は和馬の口からタバコを摘み取った。「返せよ・・」のばす和馬の手を払い「このタバコは何処で手に入れたのよ・・まさかあそこで・・」と和馬を睨んだ。
「・・ちがうよ・・葉っぱは裏山にある・・自分で乾燥して吸っている・・」
「何を言っているのよ。何処で何を・・」「だから・・裏山の・・我が家の山に有るって言ったんだよ」「何を馬鹿な事を言っているのよ。我が家の山にそんなものが生えている訳がないでしょう」「それが・・あるんだよな・・。義兄貴から山はあるかと尋ねられたから教えてやったんだ。裏山を・・そうしたら谷の奥。藪の奥で葉っぱを栽培してたんだ・・その葉っぱを少しばかり頂戴し自分で乾燥させたんだ・・」
佳世は全て納得していた。運ばされた段ボール箱の中身は思った通りの物だった。それが我が家の山で栽培された物とは夢にも思はなかった。
「その葉っぱは今でも裏山にあるの・・」「葉っぱは一年で花が咲いて枯れて終わり。今は何もない・・来年も種を植えるのだろう・・そうしたら・・」
「今度警察に捕まったら、もう迎えに行かないからね・・大人しく正月を迎えなさいよ」
佳世は部屋を出て階段を下りた。二階のテレビから除夜の鐘が鳴っていた。
佳世はマンションの部屋に帰って来た。健司はいなかった。
ーあの若い女と初詣にでも出かけているのだろうー 佳世は届いていた仕出しのお節料理をコタツの上に運び缶ビールの栓を開けた。お節料理に箸をつけビールを飲んだ。
ーお姉・・俺の車を返すように義兄貴に頼んでくれよー
ー我が家の裏山で栽培してた・・葉っぱを乾燥させて吸っている・・ー
ビールを飲むほどに怒りが湧いて来た。何本缶ビールを空けたのか。耳の奥で声が聞こえて来る。ー木戸口の藤川が暴力団に山を貸し大麻を栽培していたそうだー
ー娘は暴力団組員の女になっているそうだー・・ーもう木戸口はおろか広瀬の土地には住めないだろうー親は可哀そうに馬鹿な息子や娘をもったものだー
家族を揶揄する声が頭の奥に響き渡る。佳世は頭を抱えて転がった。
どれ程の時が経ったのか、上の方で声が聞こえた。「何だ寝ているのか・・何本飲んだんだ。
こんなに飲んで・・」佳世が閉じていた目を開けた。
「今何時・・」半身を起こして健司を見た。
「今昼前だ。十一時半。昨日の夜に木戸口の家に行っただろう。あの馬鹿は大人しくしてたか・・
車を取り上げたので何処にも行けないだろう・・」
健司は片方の口元を上げニヤリと笑った。
「あんた・・私の家の山で何をしてたの・・笑いごとではないわよ。我が家の家族を巻き込まないで・・」佳世は語気を強めて言った。
「何だ知ってしまったのか・・お前が運んだ段ボール箱はそこで取れた品物だ。早く言えばお前も共犯者と言う事だ」「ああ初めからヤバイ荷物だと分かっていたわ。覚悟はしているわ」
「そうか・・お前がそう言うなら俺も気が楽だ。だが和馬は山で何を栽培していたのか知らない筈だが・・」「山から取って来た大麻を自分で乾燥させ吸っていたわよ」
「何・・和馬の馬鹿が・・」健司は言葉を切り冷蔵庫から缶ビールを取り出し一気に飲み干した。
正月が明け仕事始めの日。若い宮田刑事は広瀬地域を担当する黒屋駐在所の谷岡巡査に電話を掛けた。
「刑事課の谷岡です。一つ駐在所管内の住人についてお尋ねします。木戸口の藤川和馬と言う三十歳位の男を御存じですか・・」
「木戸口の藤川・・ああそれなら知っていますよ。恥ずかしながら名前だけで会った事はありません。何故なら家を訪問しても閉じこもって出てこないのです。藤川和馬と言う男はこの近辺では知らない人はいないでしょう。幼い頃からの閉じこもりで、成人してからは家族に暴力を振るう様になり前任者の駐在所員も何度か仲裁に出かけていたそうです。その後両親は家を出て町のアパートに越した様です。姉が一人いたそうですが、高校卒業後所在不明でなんでも北星市内に住んでいるとか・・。私が赴任した二年ほど前、親の名義で国産の高級乗用車を買って家の敷地に止めていました。近所の人の話では夜になると車に乗って出歩くそうです。その藤川和馬が何か・・」
「ああ暮れに検問に掛かりまして。無免許運転でした。車は母親名義の車検の切れた古い軽四乗用車でした」
「古い軽四乗用車・・高級乗用車ではなかったと・・最近まで高級乗用車が家の敷地に止まっていたのですが・・あの車はどうしたのかな・・無免許でしたか・・」
谷岡巡査は困惑している様子だった。宮田刑事は礼を言い電話を切った。
宮田刑事は電話を切ると直ぐに松葉係長の席に行った。徳平は正月中にたまった書類に目を通していた。「係長よろしいですか・・」声を掛けられ徳平が目を上げると若い宮田刑事が立っていた。
「どうした・・宮田君何かあったのか・・」尋ねられて宮田刑事は年末の出来事と今しがた駐在所員から聞き及んだ内容を全て徳平に伝えた。
「そうか・・そこまで調べたのか。見込んだだけの事はあった。では此方から女が付き合っている男の正体を教えてやろう。男の名前は木島健司。闇金融をしている元宮興業の親玉だ。詳しい事は根島の父っさんに聞いてくれ。俺も父っさんから聞いて知ったんだ。その道のプロは良く把握しているよ。今後は大麻の捜査に加えてもらいなさい。俺から根島刑事に頼んでおく」
徳平は宮田刑事に笑顔を見せて言った。
北星駅の駅裏にある喫茶店に山岸古物店の女房姫と中屋質店の兵吉、それと木島健司が同席していた。「昨年の儲けの配当は約束道理渡した。河瀬組への上納金は差し引いてあるから・・」
木島健司が説明していた。「私は異存はないよ・・兵吉さんは・・」姫が意味深な流し目で質屋の兵吉を見た。「ああ・・私も異存はない・・所要が有るので先に帰らしてもらうよ・・」
席を立って兵吉は店を出て行った。山岸古物店と中屋質店は木島健司が元宮興業の闇金事業を始める際、元金を融資している。その配当を受け取りに来ていたのだ。
「あらあら質屋さん。慌てて帰ったわね。ところで健司足のつくようなヘマな商売はしていないだろうね。ありの一穴って事もあるからね。用心してちょうだい。それから店には出入り禁止だよ。判っているわね・・」「ああ。判っている・・心得ているから心配しなくていいよ・・」
頷きあって二人は喫茶店を出た。
其日中屋質店に泥刑と呼ばれる北星署の景浦刑事が質屋台帳を見にやって来た。窃盗犯が盗んだ品を質屋に持ち込む事は多々ある事だった。景浦刑事と中屋は長い付き合いで気心が知れた間柄だった。世間話をするうちに山岸古物店の話になった。中屋が山岸古物店の店主の顔を一年も見ていないと話すと、また悪い癖が出たのだろうと以前の山岸の行いを知る景浦刑事は笑ったが直ぐに真顔になって帰って行った。
正月のお飾り下ろしも終わった曇天の寒く暗い夜だった。広瀬地区にけたたましいサイレンの音が鳴り響いた。消防団長の溝川はサイレンの音に飛び起きた。店の公衆電話が鳴っていた。
慌て受話器を取った。「団長。火災です。場所は木戸口の民家らしいです。私達は先に出発しています。後から来てください」消防団員の若い声だった。熟睡していて電話の音に気が付かなかった様だ。溝川は妻を起こし法被を着こんだ。ー民家火災だと・・山火事ではないのかー軽四輪トラックに乗って家を出た。
徳平は電話で木戸口の民家火災の知らせを聞いて署に駆け付けた。出動する署員が揃うと直ぐに出発した。運転手はこの日も若い宮田刑事だった。
「係長。火災はあの木戸口ですよ。まさか藤川の家ではないでしょうね」
「それはどうかな・・それも考えられなくもないが・・」
徳平は嫌な胸騒ぎを感じていた。
闇に沈む集落に明かりが灯っている。小さな赤い炎が見え白い煙がサーチライトに照らされ上空の闇に溶けていた。
火災現場場に到着すると刑事課員達は指示された持ち場へと散って行った。鑑識課員のカメラのフラッシュが火災現場の周囲に向かって放たれた。消防は燃えたと思われる建物と母屋と思われる建物の壁や屋根に向かって放水を続けている。
徳平は被災した家屋の隣の家に向かった。隣との間には小さな畑がありその横に物置倉庫が建っている。その倉庫の向こうが隣家の門先だった。その門先に近ずくと呼ぶ声が聞こえた。
「松葉さん・・松葉係長さんー」その声は消防団長の溝川のものだった。
「あっ溝川さん。ご苦労様です・・」徳平は溝川の元へ歩み寄った。
「松葉さん・・この周辺は祟られている様です・・山の次は民家の納屋ですよ。それも人が住んでいる納屋だそうです」
「人が住んでいた・・その人は今何処に・・」
「それが・・まだ見つからないそうです・・」
溝口消防団長が振り返り、後ろで心配そうにしている六十絡みの夫婦を手招きし徳平に紹介した。
「隣の藤川義郎さんです。燃えた藤川さんの本家にあたるそうです。この木戸口の集落八軒のうち
四軒が藤川姓だそうで皆株家だそうです」
「藤川さん。ちょっと伺いますが、燃えた納屋に住んでいたと言う人は和馬と言う三十歳位の男の人ではありませんか・・」徳平が尋ねた。
「何故御存じで・・和馬が何か・・」心配気に問いかける本家の夫婦に徳平は「いやちょっとした知り合いで・・親戚の家にでも身を寄せているのではないですか」と尋ねた。
「いや何処にも行っていません・・それに親戚と言っても誰も相手にしない人間ですから。御存じないと思いますが、子供の頃からの閉じこもりで親に暴力を振るい親は家を出て町でアパート暮らしをしている状態なのですよ・・」本家の主人は眉を寄せ小さく首を横に振って見せた。
「それでは一人暮らしだったと言う事ですか・・」「そうです。燃えた納屋の二階の部屋で引きこもって顔も見せませんでした。寝タバコかタバコの火の不始末か何かでしょうか・・」
「それは本人に聞いて見なければ分かりませんが・・」
駐在所の谷岡巡査がやってきた。
「係長さん・・何処を探しても誰に聞いても藤川和馬が見当たりません。私が通報を受けたのはこの藤川本家の御主人からですが。私が駆け着けた時には既に納屋全体が燃え落ちる状態で手の施しようがない状況でした」
「火事に気が付き消防と駐在さんに連絡したのは私です。寝込んでいたので時間までは覚えていないのですが、パチパチという何かが弾ける様な音に気ずき、何処で音がしているのかと表に出ると隣の納屋全体から炎が上がっていたのです」
「ああ本家の主人から連絡を受けたのは午前一時五十分でした。出火した時間は午前一時半頃ではないでしょうか・・」
駐在の谷岡巡査が本家の主人の説明を受けて補充して説明した。
「ところで本家の御主人。燃えた藤川家の家人には連絡が付きますか・・」
徳平が尋ねると本家の主人は即座に答えた。
「隣の藤川伸平は従兄弟同士でして、直ぐに電話で知らせてやりました。もう此方に向かって来ていると思います」
「それは助かります。火事場の後の検証には家族が立ち会ってもらえればベストですのでね」
徳平は礼を述べ、消防団長の溝川に「陽が昇ったら灰掻きの手伝いをお願いします」と依頼した。
東の空が白ずむ頃。家主の藤川伸平吉野夫婦と娘の佳世が駆けつけて来た。いずれの顔も蒼白だった。隣の門先に姿を現した藤川伸平は、そこに居た徳平や消防団長、駐在の谷岡に頭を下げ
「大変ご迷惑をお掛けしました・・」とやつれた青白い顔で頭を下げた。夫婦の後ろに隠れる様に死人の様な青白い顔で佳世は立っていた。
徳平は本家の縁側を借りて三人から聴取を行った。
「ご夫婦が家を出て行かれたのは何時の事ですか・・」藤川伸平に尋ねた。
「もう三年が過ぎました。事情はお聞きしていると思いますが・・息子が・・」
「それでは息子さんとは絶縁状態だったのですか・・それとも・・」
「いや・・どんな出来の悪い息子でも子供は子供ですから・・姉に時々様子見に帰宅させていました‥大晦日の夜姉にお節料理を届けさせたのですが・・」
「そうですか・・幾つになっても子は子ですからね・・分かりますよ・・お姉さんですね・・少し伺ってもよいですか・・」俯いていた蒼白の顔が徳平に向いた。弟の和馬さんは暖房器具は使っていましたか・・石油ストーブとか電気ストーブとか・・」
「いえ和馬が使っていたのは電気こたつと湯沸かし器位だったと思います・・」
「それではタバコは吸っていましたか・・」
タバコと聞いて膝に置いている姉の手が握られた。
「タバコは吸っていなかったと思います・・」開いた手の指が微かに震えていた。
「そうですか・・では出火の原因となる物が見当たらない・・火元は何だとお思いですか」
「それは私にも・・」答えて直ぐに姉はうつ向いた。ー何かを隠しているー徳平は感じた。
母親は終始うつむいて話を聞いている。その心の内は行方の分からぬ息子の事のみだろう。
午前九時。火災現場の検証が始まった。藤川親子はかろうじて類焼を免れた母屋に入っている。主人の伸平が現場に立ち会っていた。
灰と墨と化した納屋の瓦礫を消防団員が除けていく。
「わっ・・これは死体・・」瓦礫を除けていた下から黒焦げの死体が現れた。
死体を見つけた消防団員は青い顔で直ぐにその場から離れた。死体は火災現場の外に運び出された。
北星市内から医師が呼ばれ死体検分と現場検証は終わった。
死体発見の声は母屋の親子にも聞こえていた。母と娘は泣いていた。
火災現場からガソリンの成分が発見され、納屋の四方にガソリンを撒いて火を点けられた明らかに殺意を持った放火と断定され放火殺人事件として北星警察署に三つ目の捜査本部が設けられた。
刑事課の一室では黒屋の溝川消防団長の店の軒に警察が設置していた防犯カメラの確認が行われていた。木戸口の納屋放火の時間帯に溝川モータース前を通行した車は一台だけだった。
黒いセダンの乗用車がナンバープレートをテープで隠し通行していた。
「これです・・これに間違いありません。一時二十五分に木戸口方面に向かい、一時五十分に帰って来ています」
若い宮田刑事が興奮して叫んだ。
今までの放火事件で唯一容疑者に関連する車両が姿を現した。
ー黒いセダンか・・ー徳平には思い当たる事があった。
ーしかし何故、殺されなくてはならなかったのかー
徳平は藤川佳世の素振りが気になっていた。佳世は元宮興業の木島健司の女だと知って居る。
その女の弟が焼き殺された。何故殺されなければならなかったのか。
ー元宮興業には深い闇がある。調べて見る価値はありそうだー徳平は暴力団担当の根島刑事を呼んだ。「根島刑事。元宮興業の木島の生い立ちを教えてくれないか・・」
「ああ木島健司は私生児で、母親は小料理屋の仲居をしていた女で今は古物屋の嫁に納まっていますよ。父親が誰かは判っていません」
「そうか・・私生児だったか・・。もう一つ教えて欲しい。焼死した藤川和馬だが元宮興業に出入りしていた情報はないかね」
「それがないのですよ・・私も調べて見たのですがね・・」「ないか・・」
徳平は首を捻った。「例の大麻の件の捜査は進んでいるかね・・」再度根島刑事に尋ねた。
「暴走族風の男が中高校生に大麻を売っていると言う噂は聞くのですが。まだ・・」
「そうか・・まだ掴めないか・・」「いや全く掴めないと言う訳では・・大麻を売っている男の似たようなバイクが元宮興業の駐車場に止まっていたとの情報を得ています」
「その男の身柄を確保してくれ。きっと何かが出て来る筈だ。頼むよ・・」
「分かりました。交通課と協力して何とかしますよ・・」「頼りにしてますよ。根島刑事」
徳平はそのバイク男から事件の糸口を掴もうとしていた。
石沼翔はヘルメットを被りバイクにまたがった。
ー今バイクに乗りました。これから出発するようです・・出ました・・市内方向ですー
無線が待機中の警察車両に流された。元宮興業の駐車場に止められている改造バイクを元宮興業に張り込みに着いた捜査員が発見し、このバイクの運転手を確保するため非常線が張られていた。
石沼の運転するバイクは途中で白バイと対向した。ーやばいな・・ー石沼は方向を変え市の郊外に向かった。バックミラーに白バイが映っている。石沼は速度を上げず大川のある東に向かった。バックミラーを見た。赤い回転灯が点灯している。ーくそ・・ー石沼はアクセルをふかし速度を上げた。サイレンが鳴り出した。白バイはすぐ後ろに迫って来た。ー逃げる・・ー更に速度を上げ逃げにかかった。大川に架かる橋に差し掛かると後ろの白バイのサイレンの音が途絶えた。ー・・・追ってこない・・ー石沼は橋の前方を見た。向こう岸の橋のたもとに二台のパトカーが赤色灯を回転させ道を封鎖していた。ーまずい・・ー石沼は急ブレーキをかけバイクをターンさせた。ー・・・ー。後方には白バイではなく二台のパトカーが止まって道路を封鎖していた。ー・・・ー。石沼は諦めてバイクを降りた。
パトカーから降りた警官が数人石沼を取り囲んだ。「免許証を見せてくれ・・」一人の警官が免許証提示を求めて来た。石沼はしぶしぶ財布から免許証を抜き出して見せた。石沼の手から免許証は奪われた。「このバイクは原チャリか・・二百五十㏄のバイクを原付免許で運転とはいい度胸だな。車検と強制保険証を見せろ・・」「・・そんな物は積んでない」「そうか・・
資格外車両運転。無保険無保険車両運転。所持品を見せて見ろ・・」石沼は黙って財布を差し出した。警官は財布を改め、もう持ち物はないな・・」と念を押し服の上からポケットを触った。「出せよ。まだあるだろう・・」「石沼の顔が青ざめている。警官はポケットに手を差し込みビニール袋に入った物を取り出した。「これは何だ・・」ビニール袋を目の前に突き付けられた。
「知りませんよ。そんな物・・俺の物ではないですよ・・」石沼はとぼけて言った。
「そうか・・いずれにせよ。署に同行する。車に乗れ」石沼は北星警察署に同行された。
刑事部屋では根島刑事が徳平に報告していた。「係長。捕まえましたよ。例のバイク男を・・乾燥大麻を持っていました。逮捕して今裁判所からガサビラが出るのを待っています。元宮興業には行かれますか・・」
「行って見るよ。木島の顔も見て見たいしな。ビラが出たら教えてくれ」
「係長もし物が出たら本家の河瀬組のガサ入れもする事になりますが・・」
「河瀬組のガサ入れとなると、今の署の人員では無理だろう。容疑車両の捜査と聞き込みに大量の人員を割いているしな・・成り行きで考えるとしょう」
話している内に刑事部屋のドアが開き生活安全課薬物取締班の係員が家宅捜査令状が出たと告げて来た。徳平は着古した上着を羽織り席を立った。
元宮興業事務所に生活安全課員と刑事それに地域課警察官、総勢八人が木島に令状を示し捜索に入っていた。徳平は捜査車両の中にいた。捜査用車両が止まっているのは元宮興業の一階駐車場だった。黒いベンツとその横に白い国産高級乗用車が止めてある。徳平は無線でその高級乗用車のナンバーを告げ、所有者を調べる様に北星警察署に指示した。
回答は直ぐに来た。無線は木戸口の藤川伸平の所有車両と告げていた。徳平は車を降りて元宮興業の二階事務所への階段を上った。
事務所入り口ドアの前に制服の警官二人が立っていた。徳平が上がって行くと一人がドアを開けた。徳平は軽く会釈して事務所に入った。カウンターの向こうのソファーにテーブルに足を乗せタバコをふかしている男がいる。刑事二人が室内を捜索していた。奥の部屋に一人チンピラ風の若者が椅子に座って刑事の様子を眺めていた。
徳平が事務所に入って行くとソファーの男が鋭い視線を送って来た。
「今日は亀川と戸崎の姿が見えないが・・」徳平がソファーの男の視線に目を合わせた。
男が慌てて灰皿にタバコをもみ消し、テーブルから足を下ろした。
「松葉・・さん・・ですか。その節は・・」徳平は手で制して事務机の上に出された帳簿をパラパラとめくって見た。竹沼美紀の三万円が赤ボールペンで消されていた。帳簿から目を離すと、おもむろに木島に尋ねた。
「木島君・・木島社長と呼ぶべきかな。駐車場に止めてある国産の高級乗用車だがあんたの車なのか・・それとも・・」尋ねられて木島の顔に焦りが出た。
「あああの車は借金の形に差し押さえた車ですが・・」
「木戸口の藤川伸平がここで金を借りていたのか・・合点がいかない・・」
「あっその人の息子の借金で・・息子が乗っていた車を・・」
「その息子はどれ程の金を借りていたんだね・・」「それは・・おおよそ五百万円ほど・・」
「一度に五百万円もの金を借りたとは思えないが・・」
「それは二年間に積り積もった借金で・・」「今帳簿を見た処藤川和馬の名前は何処にも見当たらなかったが・・別帳簿でもあるのか」
木島健司の目が踊っている。明らかに動揺は隠せない様だった。
「和馬の借金は姉の顔を立てて・・姉から返させるつもりで帳簿には・・」
「内縁関係の藤川佳世の事かな・・」「あーはい。何でもお見通しで・・」
木島健司が返事に窮していると、奥の部屋の壁際にあるドアが開いて根島刑事と鑑識課員が出て来た。徳平を認めると「地下室が有りますが、もぬけの殻で何もありませんでしたよ」と奥の部屋の突き当りのドアを開け、「そちらは何かあったか」と声を掛けた。そこにはキッチンがあり倉庫の様な部屋で簡易ベッドが一つ。遊具のスロットマシンが三台置いてあった。
その部屋では生活安全課の薬物取締の係員とチンピラ風の若者一人がいた。生活安全課の係員が部屋から出て来て首を横に振った。それを見て徳平は事務所を出た。
夕刻放火事件に関係あると思われる黒色のセダン乗用車の所有者を当たる車当り捜査に出ていた捜査員達が帰って来た。皆一様に疲れた表情をしている。その中に宮田刑事もいた。
徳平は宮田刑事を呼んだ。「どうだ。亀川が所有する車は発見できたか」と尋ねた。
「それが・・市内じゅう探しても何処にも見当たらないのです。ヤサのアパートにも暫く帰って来てないようでした」
「そうか。。引き続き亀川と戸崎の二人も探してくれ。いずれ舞い戻ってくるはずだ」
納屋の放火に二人が関係していると徳平は核心していた。
広瀬地域の集落を聞き込み捜査班が回っていた。倉橋照美見習い刑事は深山刑事に着いて木戸口集落を回っていた。焼けた藤川の納屋を横目に藤川本家を訪れた。
応対してくれたのは本家当主の藤川義郎だった。
「ご苦労様です。何か放火に関係する聞き込みがありましたか・・」事件以来顔見知りとなっている二人に義郎は気さくに話しかけて来た。
「いや・・隣の放火だけでなく山の放火も解決していないので何か事件に繋がる情報はないかと回っているのですが・・」
家の奥から義郎の女房がお茶を入れて持って来た。
「警察の方も大変ですね。お茶でも飲んで休んで行って下さい・・私は少し気になる事があって・・」と女房が話を切り出した。
「お茶をすみません。頂きます。それで気になる事とは・・何でも話してください」
深山刑事は倉橋見習い刑事にもお茶を頂くように勧め耳を傾けた。
「それが・・」言っても良いかと夫の顏を見て女房は話した。
「実はそこの物置倉庫なんですが・・中に積んでいるわら束が何度か少しずつ無くなっていたのです。畑に使うわら束なんかこの辺りの百姓が盗む筈は無いですし不思議に思っていたのです。でも山の放火に藁が使われていると聞いて・・」
「それは・・物置倉庫を見せて貰えませんか・・」深山は身を乗り出して言った。
トタン屋根の物置倉庫は開きの木戸が付いていてカギはついてなかった。鍬や農業用肥料が置かれた倉庫の奥にわら束が積まれていた。床はコンクリートで舗装され、チリ一つない程掃き清められていた。「この床にもわら屑が落ちていて首を傾げていました。後になって考えて見ると山の放火が有った頃の様に思われました・・隣の死んだ和馬がそんな事をする筈はないと思って誰にも言わずにいたのです」
「そうですか・・でも大変貴重な情報です。ありがとうございました」
刑事二人はやっと得た情報を手に帰って行った。その情報は直ちに徳平に伝えられた。
三月。三寒四温、春は間違いなくそこに来ていた。三つもの捜査本部を抱える北星警察署の捜査は進められていた。現住建造物放火はおぼろげ乍ら犯人像が浮かんではいるが、確たる証拠もなく行き詰まっていた。そんな中、徳平の元に一通の封書が送られて来た。
中身の文面はパソコンで打って印刷されたものだった。徳平は文面を呼んだ。
木戸の碕山亀は谷川に至れり 雑木の裏羽なき鳥山に住む
草燃え尽き山女神泣き笑う 願わくば恨み晴らして天に出る
怪文書である。この文章が事件に関係していると徳平は直ぐに理解した。しかしこの文章が過去を示す文章なのか未来を示す文章なのかは直ぐには理解し、解く事は出来なかった。
最初の文面には元宮興業の木島と亀川戸崎の名が散りばめられている。だが後段の文章が理解できなかった。
四月。放火事件の発生は影を潜めた。草木が芽吹くこの時期、山火事などはめっきり少なくなる。広瀬の住人も警察も気を緩めていた。その気分を打ち砕く様に山火事が発生した。
山火事は木戸口集落の裏山だった。今回の山火事は今までと違って午後十時頃の発生だった。
帰宅後直ぐに徳平は署に呼び場され火災現場である木戸口集落に向かった。集落の裏山に薄っすらと煙が漂っていた。徳平を乗せた捜査用車両が放火された藤川の家の前を通った。赤い軽四乗用車が止まっていた。捜査用車両を運転していた深山刑事が藤川本家の敷地内に車を止め、本家の妻を呼び出し物置倉庫に向かった。倉庫の床にわら屑が落ちていた。本家の妻から倉庫の異常を確かめた後裏山に向かった。裏山に続く道は木材切り出しの為の非舗装の荒れた道だった。谷に沿ったその道に集落裏手のため池から引かれた消防用ホースが道の側を上へと伸びていた。木材積み出しのトラックの回転場所だった広場に消防車が三台止まっていた。その後ろに捜査用車両は止まった。消防団長の溝川が待っていた。徳平を認めると溝川は笑顔になって側にやってきた。
「やられましたよ・・まさかこの時期に放火するとは・・もう草木は芽吹いているので秋冬ほど燃えませんよ」と持っているわらの燃えカスを見せた。
「あっ消防団長さんご苦労様です。その燃えカスは何処で・・」
「係長案内しますよ・・着いてきてください」溝川は燃えた藪に向かっつて歩き出した。徳平の後を鑑識課員の徳田が従った。燃えた雑木の藪の中を人一人が通れる小道があった。その中程で歩みを止めた溝川は地面に跪いて指さした。そこにはわら束の燃えカスが残っていた。
「ここで火を点けた様です。でも合点がいきませんよ。季節も時も場所も全てにですよ」
「そうですね。この放火はこの藪だけを燃やすためだけに火を点けた様に思われます・・」
徳平は山の上を仰ぎ見た。雑木の藪が燃えた上は伐採された杉の切り株が残された燃えるものが少ない場所だった。鑑識課員の徳田が放火場所の写真を撮り、燃え残った藁を採取した。
徳平は懐中電灯で燃えた藪の奥を照らして歩き出した。溝川消防団長と鑑識課員の徳田が後に従った。燃えた藪の奥が開けた草地になっていた。明らかに人の手により藪が切り開かれ開墾された土地だった。地面の草地を照らしていた徳平が鑑識課員の徳田に「この草は何か分かるか」と尋ねた。数センチの草を引き抜き草を眺めた徳田が徳平の顔を見た。「係長これはまさか・・」「植えた物ではないが種が落ちていたのかもな。帰って生活安全課で確認してもらえ。間違いなければ、この場所を除草しなくてはならない・・」ーあれはこの事だったのか・・ー
徳平は踵を返し車に戻った。山の火は鎮火していた。
深山刑事の運転する捜査用車両が燃えた納屋の跡地に止まった。赤い軽四乗用車が止まっている。徳平は類焼をまぬかれた母屋に足を運んだ。玄関を開けると線香の匂いが漂い出た。徳平は家の奥に手を合わせ、奥に向かって声を掛けると栗色の髪の若い女が家の奥から出て来た。「入ってもいいかな。佳世さん・・」そう言うと徳平は玄関内の上がり框に腰を下ろした。足元に白とピンクのスニーカーがある。乾ききらぬ山の赤土で靴が汚れている。青い顔で佳世は徳平の前に座った。父親と母親の姿は無かった。
「手紙を読んだよ・・こう言う事だったんだな・・手紙より直に私に話してくれれば良いものを・・行こうか・・」徳平は娘に対する様な、穏やかな自愛に満ちた優しい目で佳世を促して車に戻った。罪を憎んで人を憎まず。深山刑事がハンドルを握って待っていた。
徳平が乗る捜査用車両の後を佳世の運転する赤い軽四乗用車が着いて来て北星警察署に入った。
取調室に倉橋照美見習い刑事が佳世を導いた。徳平と机を挟んで向かい合って座った佳世は終始俯いたままだった。
「佳世さん。今回の放火で自首しようとしていた事は間違いはないね・・」徳平の問いに佳世は俯いたままで小さく頷いた。
「では私の推測を話すが間違っていたなら後で指摘して欲しい・・いいね・・」また佳世は小さく頷いた。
「木戸口の藤川家は閉じこもりの息子和馬の為に家庭騒動が収まらず佳世さんは家を出た。家を出た佳世さんは、世間の口から逃れるため身元を偽り偽名を使った。若い娘心を想うとそれを責める事は出来ないな。木島健司との長い付き合いの中で不安や不信が募り、また父母が家を出るなどストレスは積もりに積もり、弟の見張り役迄頼まれ正常な意識は病に陥った。
そして民家に被害を出さない様に広瀬地域の山に火を点けて回った。その際に使ったわら束は隣の本家の物置倉庫から持ち出したわら束だった。此処まではいいかな」
徳平が話を止めると、佳世の後ろに座って聞いていた見習い刑事の倉橋照美が椅子から立ち上がりお茶を運んで来た。佳世は前に置かれた茶碗のお茶に遠慮げに手を伸ばし口に運んだ。
「続きを話そう・・昨年の暮れから今年にかけてのある日。和馬から車を取り返して欲しいと頼まれた。それを適える事が出来ずにいた処、和馬の口から藤川家の山で木島が大麻を栽培している事を知ってしまった。多分和馬が大麻タバコでも吸っていたのだろう。それを知った佳世さんは木島を詰った。闇金だけならいざ知らず口の軽い和馬から大麻栽培までバレてしまったなら大変なことになると慌てた木島は子分に命じて山林放火で騒がしい広瀬地域にある木戸口集落の和馬が暮らす納屋に放火させ口封じを行った。和馬が焼死し自分を責めた佳世さんは
犯人を知らせる怪文書を作成し私に送った。そして自首を覚悟で山林に放火し大麻栽培の場所を警察に知らせた。これの何処か誤りがあったなら指摘して下さい」
徳平はお茶と灰皿を倉橋女刑事に催促し俯く佳世を見た。
「間違いはありません。和馬が裏山から大麻を採取してきて乾燥させ吸っていたのを見つけ、そのことを木島に言って仕舞った事が和馬を殺す事になってしまいました。浅はかな私の言動で取り返しのつかない結果になってしまったのです。悔やんでも恨んでも、もう和馬は帰っては来ないのですから。せめてこの償いは木島に受けさせたいと覚悟を決めたのです」
佳世の目は潤んでいた。
「大麻の件だが木島は何処に売りさばいていたのか知って居るかな。知らないと思うが・・」
「何処の誰かは知りませんが、木島に頼まれ私はそれらしい段ボール箱を運び相手に引き渡した事が二度あります。その時金が入っていたと思われるアルファベットのエムの一文字のシールが貼られた黒いアタッシュケースを受け取り木島に渡しました。渡した場所は車で半日掛かる県二つを跨いだ田舎の道の駅駐車場でした。二度とも違う人間が受け取りに来ました。二度目の時には一人は東洋人らしい外国人でした」
「そのアタッシュケースだがマンションに置いてあるのかね」
「ハイ私が出かける時確かに部屋に置いてありました。それが何か・・」
「いやいいんだ・・良く話してくれた。佳世さんが大麻栽培に関係していない事はよくわかったよ。木島は捕まるが後悔はしていないか・・」
「後悔なんかしていません。一年でも二年でも長く木島から離れていたいそれだけです・・」
「そうか・・佳世さん・・山林放火は許されるものではないよ。でも自首して捜査に協力してくれたことは減刑に繋がると思うよ。罪を償って新たな人生を歩みなさい」
佳世の目から一筋の涙が流れた。徳平の目も潤んでいた。佳世の後ろの椅子に座っていた見習い刑事の倉橋照美の目元も潤んでいた。
十日後、木島健司は大麻取締法違反で逮捕され、合わせて現住建造物放火と殺人の容疑で取り調べる事になった。藤川佳世は既に検察庁から拘置所に身柄を移されていた。
亀川の所有する黒色のセダンが国際空港の駐車場で発見され、亀川と戸崎は北東アジアに逃亡している事が判明し国際手配された。
時を同じくして太平洋側の港で沈んでいた車が引き上げられた。車内には人は乗っておらず相当以前に沈んだ車と思われた。車のナンバープレートから所有者は北星市の山岸政夫と判明した。
北星警察署にこの報告が届くと、それを聞きつけた泥刑の景浦刑事が徳平の元へやってきた。
「係長。言いそびれていた事がある。以前中屋質店の店主が山岸古物店の店主の顔を一年も見ていないと言っていたが、家族から捜索願も出ていないので気にも掛けないでいた。今思うにあの古物屋の女房が怪しい。あの女は若い頃河瀬組組長と関係があったという噂がある。調べて見る必要がありそうです」
何かを感じたのだろう景浦の顔は笑っていたが目は笑っていなかった。大事な情報の価値が失われた事を本人は知っていた。
山岸の車は北星警察署に運ばれ車内から発見された毛髪と、山林火災現場で発見された毛布に包まれた身元不明者とのDNA鑑定が行われ山岸政夫本人と確認された。未解決殺人事件がやっと動き始めた。俄然北星警察署は慌しくなった。
山岸古物店が調べられた。山岸政夫の妻姫五十五歳についてその経歴が明らかになった。
姫は地元の飲み屋の娘で学生時代から地元やくざの多部茂造現河瀬組組長と友好関係にあり二十歳過ぎに私生児を生んでいる事が明らかになり、その子供が木島健司と判明した。
山岸古物店店主政夫は河瀬組組長とは幼馴染で、多部茂造が河瀬に婿養子に入るまで子分的存在だった。
五年前小料理屋の仲居をしていた姫に出会い、元茂造の女であった事を知りながら店に通い続けて嫁に迎えていた。山岸政夫は商才にたけ多額の資産を蓄えていた。その政夫が死亡した事になると子供の居ない山岸の資産は姫の物となる。調べるうちに山岸古物店と中屋質店は河瀬組の企業舎弟に名を連ねている事も判明した。
身元が明らかになった山岸政夫殺害事件は河瀬組との関係が疑われる様になってきた。
「木島健司は河瀬組組長の隠し子か・・」徳平は腕を組んで天井を睨んでいた。
国際空港管轄の警察署から朗報が齎された。東南アジアに逃走していた亀川と戸崎が帰国して逮捕され北星警察署に護送されてくると言う。徳平は安堵の笑みを浮かべた。
逮捕した木島健司が黙秘を続けている為だった。
護送されてくる二人と木島は近隣警察署に分散留置され、北星警察署には亀川が留置され取り調べを受ける事になった。亀川は徳平と向かい合って対座した。
「久しぶりだな・・」徳平が笑顔で迎えた。「あっ松葉係長・・」亀川が俯いた。
「おい亀川・・顔を上げろよ。取って食おうなんて思ってはいない。ただ悪い事をしたと思っているなら俺に話すのが一番だと思わないか・・俺は仏の徳さんと呼ばれている。判るよな・・」
徳平が笑うと亀川が顔を上げた。青い顔をしていた。
「松葉係長には逆らえません・・・社長は捕まっているのでしょうか・・」上目遣いに亀川は徳平の顔を見た。
「ああ捕まえたよ。一番の悪は木島だからな。お前達は利用されているだけだからな。素直に話せば悪い様にはしないよ・・俺を信用するかい・・しかしだ・・判明している事実と違った
話をすればどうなるか・・良く考えて話を始めろ・・」
亀川には目の前に突き出された警察手帳の苦い思い出が蘇っている。徳平にくぎを刺された亀川は蛇に睨まれたカエルの様に素直に話を進めた。
亀川は大麻の話から始めた。二年前元宮興業に出入りする様になった藤川和馬から家の持山を聞いて、その山に大麻栽培の畑を設けた。藤川和馬が社長の女佳世の弟だと知って居た。
女にはこの事は知らせてはいなかったと思う。その山の畑で栽培した大麻は元宮興業の地下室で乾燥させ袋詰めして売っていた。県外の密売組織には社長だけが接触する事が出来た。我々下っ端には教えて貰えなかった。地下室で乾燥させた大麻の一部を戸崎と分け合い、戸崎はそれを下の者に売らせ小遣い稼ぎにしていた。自分はアパートで一人で使用していた。戸崎の下の者が中学生に大麻を渡した事が判り、その中学生が補導されたことが判ると木島は地下室の道具をかたずけさせた。道具は暴走族の悪ガキの家に分散して隠したと思う。
それから藤川の納屋に放火した件はと話しかけて亀川は喉が渇いたのか水を要求した。
亀川が水を飲み終えると徳平は放火の理由と誰の指示かを尋ねた。亀川は頷き話始めた。
藤川の納屋に火を点けた原因は、和馬が勝手に山から大麻を持ち帰って吸っていたため世間に警察にバレはしないかと心配した社長が俺と戸碕に和馬の住む納屋を燃やす様に指示した。
最初は灯油を撒いて火を点ける予定が、納屋の一階は燃える者が少ないのでガソリンを撒いて火を点けろと社長に言われガソリンを撒いて火を点けた。藤川の家に行くと車がなく和馬は何処かに出かけていると思った。殺すつもりはなかった。ただ警告の脅しのつもりだった。
和馬が焼死したと聞いて怖くなり戸崎と国外に逃げた。
そこまで話して亀川はまた水を飲んだ。額から汗が流れていた。
「そうか。殺すつもりはなく納屋だけ燃やすつもりだった。そうだな・・。では山岸古物店の主人の事を詳しく話して見ろ。嘘は通らないからな。全て判っている。裏付けの為に聞いているだけだ。」徳平が穏やかな目で話せと顎を突き出した。亀川はゴクリと唾を飲み込みかすれた声で話始めた。
一年ほど前の夜、戸崎と二人山岸古物店に来るようにと呼び出され行って見ると床に毛布に包まれた何かが転がっていた。店の駐車場には赤い四駆の軽四乗用車が止められていた。
その車は木島の女の車だった。その車に床に転がっている毛布に包まれたものを三人で積み込んだ。その車は木島が運転し広瀬の山奥の林道から藪の中に毛布に包まれた死体を投げ捨てた。
古物店に帰ってこれで終わりかと思ったら、店主の女房が車のキーを俺達に渡して店主の車を誰にもきずかれない場所に処分する様にと木島のいる前で俺達に命じた。その車は外車で戸崎が運転し俺はその後を自分の車で着いていった。長距離を走り着いた港の岸壁から車を海の中に落とし逃げ帰った。
青ざめた顔の亀川の顏から汗が引いて机の上に乗せた手が震えていた。
「良く話してくれた。推測道理だ・・亀川お前は知らずに死体遺棄に手を貸した。そうだな」
「はいそうです・・」頷いた亀川の顔に安堵の表情が現れた。
「宮田刑事。悪いがお茶を持ってきてくれないか。亀川がお茶を飲みたそうな顔をしている。持ってきてやってくれ。俺にも頼むよ」温和な顔で徳平は亀川の後ろに腰かけている宮田刑事に命じた。
警察署に留め置かれている佳世の赤い四駆の軽四乗用車内の検証が鑑識課員の手で行われ
後部座席から血液のルミネール反応と毛布に付着していたと思われる山岸の毛髪が発見されこの車両が死体遺棄に使用された事が証明された。
山岸姫が出頭してきた。徳平は言った。「貴女は犯人隠匿証拠隠滅の容疑が掛けられている。何故山岸が殺されなければならなかったか貴女が一番知って居るはずだ。木島が貴女の子供だと知って居る。私生児として育った可哀そうな男だと知って居る。母子でかばい合うも良し、しかし真実は一つしかない事を言っておく」
取調室で徳平は厳しい口調で言い放った。
「自宅の古物店で主人が殺された事を知っていながら、主人不在を装った。この不在が永遠に隠しおおせるとでも思っていたのか」徳平の厳しい追及が始まった。
「いえ・・隠し続けるつもりは有りませんでした。でも健司が・・」
血の気の引いた青い顔で姫は俯いた。
「ご主人は健司が殺したのか・・それとも貴女か・・」俯いたおんなに尋ねた。
「私ではありません・・健司と主人が組に納める金の件で口論になり・・店にあった古い焼き物の壺で健司が主人の頭を殴り殺してしまったのです・・隠して申し訳ございません」
「健司が殺した事に間違いない。貴女はその現場にいてその一部始終を目撃した。間違いないですか・・」「・・はい・・間違い御座いません・・」
姫が犯行目撃を認めると徳平は次の質問を始めた。
「貴女と河瀬組長の関係は若い頃からの知り合いと聞いているが間違いはないですか・・もっと言えば健司は誰の子供かと言うことです。それから河瀬組長とは今も会っていますか・・」
姫は俯いたまま黙り込んだ。「・・黙っていては健司と河瀬組長との関係が判らない。組長が健司にどんな命令を下していたのか・・そこが知りたい。まさか山岸を殺せと・・」
「それは違います。組長は殺せとは言っていません・・」
姫が顔を上げて否定した。
「何故貴女がそれを知って居る。知って居ると言う事は貴方は組長と今も会っている事になる。知って居るなら山岸に焼きを入れる様に健司に命令した組長の組長なりの訳があったはず、単に金だけの問題ではないはずだ。他にも何か別の訳があった・・」
徳平は姫の目を見つめた。姫が目を伏せた。沈黙の時間が過ぎていく。姫の後ろに腰かけている倉橋見習い女刑事が立ち上がりかけて又座り直した。姫が目を見開いた。何かを覚悟した目だった。
「お話します・・。健司は確かに河瀬組長の息子です。組長は薄々は感じていた様です。何故なら健司は若かった頃の河瀬組長によく似ているからです。山岸は上納金を減らしてもらう口実に私と健司、組長の関係を組長の奥さんに告げると脅したらしいのです。奥さんは先代河瀬組の娘で河瀬は婿養子なのです。奥さんは河瀬以上のやり手で河瀬組は実質奥さんが仕切っている言っても過言ではありません。そんな子供の居ない奥さんに過去を知られたらと、河瀬組長は思ったはずです。そこで健司に山岸に口を閉じる様に、焼きを入れるよう指示したのです。その結果が殺人にまで発展してしまったのです・・」
「・・・なるほど・・話の筋は合っています。倉橋君お茶を・・」徳平は倉橋女刑事に顎を上げた。倉橋女刑事が取調室を出て行った。
亀川務と山岸姫の自供により黙秘していた木島健司と戸崎進も自供するに至った。
取調室から刑事課長の甲高い声が聞こえて来る。岩倉刑事課長自ら取り調べを行っているのは河瀬組の組長河瀬茂造だった。
北星警察署に設けられていた三つの事件の捜査本部は解散した。
警察署の車庫にツバメが巣を作った。
南戸ラーメン店に出所して来た夫と三人の子供を伴って砂見加代がやって来た。日暮れには早い春の日だった。
徳平は着古した上着を椅子に掛け机に向かっている。その上着は今は亡き娘が初任給で買ってくれた大切な思い出の贈り物だった。
刑事課の窓の外をツバメが飛んだ。
完