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白の教典

作者: 天透 奎

朝、目覚めてすぐに顔を洗い、歯を磨く。髪を梳いて二つに結う。

陽の光を浴びて身を清め、フードが付いた長袖の白い衣服を身につけ、目元を覆う仮面を被る。物心ついた時から当たり前の、私の日常。

穢れを焼き尽くし寄り付かせないように。下界の空気に少しでも長く触れないように。瞳の色は争いの種となるため広く晒さないように。

私たちは、人々を導くため天使様に選ばれた存在。教えを守り信心深く生きることで、人は誰でも天使になれる。天使様の教えを広め、現世を天界へと変えることが私達の使命。

部屋に飾られた、天使様を模した小さな像に一分間の祈祷をしてから、部屋を出る。


正確に昨日を辿るルーティンに、新しい仕事が加わったのはつい最近のことだった。

シンと静まり返るドアの向こうに声をかける。中の声量では身じろぐ音すらせず、大きな声で、扉の先に眠る彼女の名前を呼ぶ。

「ウリ!!」

ようやく瞼を開いたらしい彼女の、ふやけた声がドア越しに聞こえてくる。

「おはよぉ、ミカ。ねえ、布団が離してくれないの…ちょっと、部屋に入ってきて引っ張り出してくれない?」

「素顔を他者に晒すべからず。仮面をつけていない状態での接触は禁じられています。貴方はいつになったら天使様の教えを全て覚えてくれるんですか」

「あんなに沢山、覚えらんないよう」

「では正しい時間に一人で起床する、これは今覚えられましたね。早く寝具から出てください」

「天使様は寛大なお方なんでしょ?これくらい許してくださるってぇ」

暫しの問答を経ても起きてくる気配が無い。わざとらしくため息をついてみせる。

「ではウリは教えを破ろうとした挙句起床時間を守る気が無いようです、とマザーに伝えておきますね」

「分かった分かった!起きるから待って!五分、五分で支度するから!」

ようやくドアの向こうからドタバタと忙しない音がして、再びため息をつく。彼女がここに来てからというもの、私の生活は思い通りに行かないことが増えた。以前から新しくここへやってきた人達の教育係を務めることは少なくなかったが、彼女ほど自由奔放な者は初めてだった。

「お待たせ!じゃ、朝ごはん早く食べに行こ!」

ドアが開き、短い髪の少女が姿を現す。私より高い背丈、顔半分が隠れているのに口元だけでよく分かる満面の笑み。大人びているようにもあどけないようにも見える、不思議な風貌だった。

「髪をもう少し整えてください。だらしなく見えますよ」

「えー、頑張ったけど今日の寝癖酷くてさぁ」

頬を膨らます彼女の前で三度目のため息をつきそうになって、踏み留まる。いついかなる時も慈悲を忘れない。家族たる教徒の面々に対しては尚のこと。これもまた、天使様の教えだった。


全員揃っての朝食の後は各自に仕事が振り分けられる。と言っても子供達に与えられる仕事は簡単なものだ。ここにいる時間が長いとはいえ私もまだ十五歳、今日の仕事は大天使像付近の草むしりだった。

「暑い!こんなに太陽が照りつけてる中、外で、しかも長袖のまま草むしりなんて!」

「声を抑えてください。天使様の御前ですよ」

相変わらず教えに不平を漏らす彼女、ウリに注意しつつ、草を根元から抜いていく。彼女とは同じ仕事につくことが多かった。ぶつくさと言いながらも、彼女の仕事ぶりは何をさせても意外と上出来で、その点はここのリーダー的存在である「マザー」からも好評だった。体力を削られる分、炎天下の外の作業は流石に堪えるようだが。

私達を見下ろす、天使を模した大理石の像。大天使像と呼ばれるもので、下界で最も天使様に近い存在だ。穢れなき正義の象徴たる天使の対となる、あらゆる悪の根源である悪魔から、天使へと近づいている私達を護ってくださっている。

いかなる理由があっても大天使像を穢すべからず。

それは数多ある教えの中で最も破ってはならない、絶対的なルールだった。

「先程から時折手が止まっていますよ」

「あはは、ごめんごめん。ほんと暑くて…」

「これではいつまで経っても終わりません。少し休憩してから再開してください」

「やったーっ!じゃ、あそこの木陰行こうよ!」

「私は問題ありません。作業に滞りが出るほど疲れてはいませんから」

「さっきから人一倍頑張ってるんだから、ちょっとくらい休んでもバチ当たんないって。ほら、こっちこっち!」

制止する暇も与えられず、腕を引っ張られ木陰へ連れていかれる。こんなに軽やかに走る元気があるなら、休憩なんて言うんじゃなかった、と後悔した。

「本当に、貴方という人は…」

「たまにはいいじゃん、ミカだって少しは疲れてたでしょ?もしマザーに何か言われたら、全部私が責任取ったげるから。ね?」

そういう問題では、と言おうとした声が掠れる。ほら見ろぉ、と笑うウリを仮面越しに睨みつつ、諦めてその場に座り込む。

「貴方は規則を軽んじすぎています。今朝もそうでした。ガブが残していた野菜を代わりに食べていたでしょう」

「えっ、気づいてたの?」

決められたものを決められた量、選り好みせず食べる。これも規則のひとつだ。年齢に関わらずこれを破った者は軽い罰則を受ける。ガブはここで一番幼い子供だったが、例外は無い。

「だって、おかしいじゃない。誰にだって食べ物の好き嫌いくらいあるのは当たり前。ガブも頑張って一、二口は食べてたし、それだけ頑張ればもう十分でしょ」

「頑張れば良いというものではなく、規則でそう決まって…」

「規則がいつも正しいとは限らないよ」

ウリはいつも通りの口調で、しかしはっきりとそう言った。

私には分からないことだ。規則は私の生活の全てだから。いや、それは私だけでなく、ここにいる者の大半がそうであるはず。彼女はあまりに、違いすぎる。私のこれまで接してきた人々とは明らかに。

「私は、貴方のようにはなれない。決められた規則に抗わず、忠実に従い続ける…貴方の目には、さぞ堅苦しく映るでしょうね」

「いや?実はね、私とミカは意外と似た者同士なんじゃないかって思うの」

「私とウリが?」

思わぬ言葉に耳を疑う。まるで正反対、水と油のような私と彼女に、なにか共通点があるだろうか。

「ミカはガブが野菜を食べられなかったのも、私がそれを食べてあげたのも見てたんでしょ?」

「ええ。それが一体」

「でもそれをマザーには言わなかった」

私は口を噤む。規則違反を報告することなく、見逃したのは事実だ。

「如何なる場合も偽ることを許すべからず。この規則を破って、私達のこと庇ってくれたんだよね」

「…ちゃんと覚えてるじゃないですか、規則」

決まりが悪く顔を背ける。規則を破ることで受けるのは、罰則だけではない。周囲から向けられる罰則者への冷たい視線、疎外、軽蔑。勿論それを向けられる立場になったことはないが、皆で囲み責めたてるようなあの空気が、私は少し苦手だった。

「ミカは頭の柔らかい、優しくて良い子だよ。私と同じ!」

自分で言いますか、それ。そう言う前に、ぽん、と頭に手のひらが置かれる。大きく、暖かな手のひらだった。

伝わってくるほのかな温もり。慣れない感覚だけれど、嫌ではない。ここに居る大人の誰からも、こんな風に触れられたことはなかった。

やはり彼女は違うのだ。私含め、ここの誰とも。

「ウリは、どうしてここに来たんですか」

ぽつりと呟くようにそう言うと、ウリは急な質問に驚いたようで、離そうとしていた手のひらが宙で停止した。

「規則に縛られない、天使様への強い信仰心も見受けられない。そんな貴方が、どうしてここに?」

「…私ね、妹がいたの」

少し間を空けて、ウリはそう切り出した。

「まだ難しいことなんて、なんにも分からない歳の頃。お姉ちゃんになるのよってお母さんから言われて、ベッドで寝息を立てる小さなその子が可愛くて。あぁ、この子私の妹なんだ、って、胸がぽかぽかして。歩けるようになったら私の後ろにぴったりついてきて」

大切な家族だったのだろう。きっと私にしたように、優しく頭を撫でていたのだろう。しかしそれほど大事な妹を置いて、どうして彼女は一人でここに来たのだろうか。

「妹は悪魔に攫われた」

「…え」

「歩けるようになって間もない時。二人で遊んでいたら、私が目を離した隙に悪魔に唆されて、遠くへ行ってしまった。そして二度と帰ってこなかった」

普段とは違う、平坦な声。いや、平坦の奥に、重い憎悪が滲んでいる。

「私は卑劣で狡猾な悪魔が大嫌いなの。ここは悪魔が寄り付かないんだって、天使がいるんだって、そう聞いて来たの。だから今はこうしてここで過ごしてる。けど、いつか私がこの手で、必ず…」

彼女の手のひらが虚空を掴む。色も形もないそれを握り潰すかのように、固く。


「悪魔達を根絶やしにしてやる」


遠くからウリを呼ぶ声がした。草むしりが終わったなら壁の塗り直しをして欲しい、と。

「壁の塗り直しかぁ…高い場所だとちっちゃい子達がやったら危ないし、私行ってくるよ。ミカはもう少し休んでいきな。じゃあ、また後で!」

先程の空気は嘘のように、いつもの明るい笑顔を浮かべたウリが去っていく。一体、なんだったのだろう。早く自分の作業に戻らないと、と思いつつ、私はしばらく呆然としていた。


夜、どうにも眠れず、自室の窓から月明かりを眺める。

あの後も特にウリは変わった様子はなかった。本当に、あの一瞬だけだったのだ。まるで人が変わったように、悪魔への激しい敵意を顕にした彼女の姿は。

天使と悪魔は対の存在。勿論私も含めたここにいる全員も、悪魔は忌むべき存在であると認識している。しかしウリが持つ、悪魔に対する敵意は、私達が持つそれとは毛色が違うように思えたのだ。鋭い切先は、私の知りえない方向を向いているように。

きっと私は、ウリのことをまだ何も知らない。誰にでも優しい反面、きっと心中に沢山のものを抱えている。少しでもそれを知れたら、と考える自分に少し笑った。私も相当、彼女に絆されてしまっているらしい。


突如、廊下から微かに物音がした。耳を澄ます。どうやら、誰かが部屋の近くを歩いているらしい。

就寝時間中に自室から出歩くことは、基本禁じられている。誰が、何の目的で歩いているのか。聞こえる歩調は緩慢で不規則、一足が重く、獲物に静かににじり寄る獣のようだった。

まさか侵入者だろうか。盗み取って金銭になるようなものは、さしてここには無いはず。不安から鼓動が早まる胸を抑えながら、私は恐る恐るドアへと近づく。

少し外を確認するだけ。それだけなら規則違反にはならないはず。自分にそう言い聞かせ、意を決してそっとドアを開け、隙間から外を覗いた。


闇の中、ゆらゆらと彷徨い遠ざかろうとする背中。鮮明には見えない輪郭、しかしそのシルエットには見覚えがあった。高い背、短い髪。

「…ウリ?」

思わず名前を呼ぶ。人影が止まってから、しまった、と思う。仮面を付けていない。咄嗟に目元を覆ったが、彼女が振り返る様子はない。その場にただ静止していた。

「眠れなくて、ちょっとだけ散歩してたの。…それだけだよ」

いつもと同じ調子のようで、どこか違う声色。侵入者の類ではなかったことに安堵しているはずなのに、心音は寧ろ加速していく。

「就寝時間の不必要な外出は…規則違反、です」

どうにか絞り出した言葉。これが限界だった。

「そうだね。もう戻るよ。おやすみ、ミカ」

反論することも無く、ウリは再び歩き出し、夜闇に満ちた奥へと消えていく。その輪郭すら分からなくなったところで、私は扉を閉めた。

嫌な動悸がする。もう寝よう、と思った。今見たのはきっと眠る前に見た、夢と現実の境、幻だったのだ。明日にはきっと元通り、時間通りに起きられないウリがいて、私は彼女を起こしに行くのだ。中々部屋から出ないウリに、呆れてため息をつくのだ。そうして代わり映えのない日常が、また始まるのだ、と自分に言い聞かせて。


私を起こしたのは窓から差し込む太陽の光ではなく、私を呼ぶ声と扉を叩く音だった。

「ミカ。起きなさい。支度が済んだら、急いで大天使像に集合しなさい」

マザーの声だ。まさか寝坊したのかと寝具から飛び起きたが、外はまだ暗く朝日も昇っていない。起床時間より早く起こされることなどこれまで一度もなかった。それに、大天使像前の招集。一体、何が起きているのだろう。

急いで支度をして飛び出すと、外から甲高い悲鳴が聞こえた。

「天使様が!」


眼前に広がる惨状を、私達はただ、呆然と見つめることしか出来なかった。

黒いペンキを全身にべっとりと被った大天使像。純白の羽は見る影もなく、悪に敗れ朽ち果てたようにさえ見える。

「天使様が、どうしよう、どうしよお…」

混乱からパニックを起こしているガブ。いつもなら真っ先に駆け寄るはずのウリは、まだこの場にいない。

悲しみに暮れる者、嘆く者、受け止めきれずただ立ち尽くす者、各々が動揺し平静を欠く中、マザーが前に進み出て静かに手を挙げた。それを合図にシンと静まり返る。

「大天使像が穢されること。これは天使様の加護から私達を遠ざける、許されざる行為です。一体誰が、何の目的で、このような愚行に走ったのか。信じたくはありませんが、この中に…犯行に及んだ者がいるのか」

場に緊張が走った。共に天使様を敬愛してきた隣人の中に、裏切り者がいるかもしれない?そんなはずはない、きっと悪魔の使者が起こした災いだ。皆がそう視線を交わす中、私は衝撃に打ち震える脳の片隅で、ウリのことを考えていた。

悪魔を憎み、悪魔が寄り付かないここを拠り所にしていた彼女がこれを知ったら、何を思うのだろう。

天使になるため規則に忠実に生きてきた私が、いざ最も重い規則が破られた瞬間に考えることが、彼女のことなんて。いっそ乾いた笑いすら漏れそうになる。それほどまでに私も、動揺していた。

「今、この場にいるのならば、名乗り上げなさい。どれだけの懺悔を述べようとも、決して許されることではありませんが…偽ること、それは更なる罪の上塗り。重なり続けた業、その償いが何をもってして行われるか…」

ウリが外に出てきた。大天使像を見上げた彼女の表情は、遠くからはあまり見えない。

それからマザーがなんと言っていたのか、言葉は全て通り抜けてしまった。どうやら指示があったらしく、疎らに皆動き出す。

なんの指示があったのだろう。聞き逃してしまったものは仕方ない、恥を忍んで周囲に尋ねようとしたところで、マザーに肩を叩かれた。

「話があります。ついてきてくれますか」

悪寒が背筋を突き抜ける。嫌な予感がした。それでもじっとこちらの様子を伺うマザーに、私は小さく頷いた。


「貴方は今回の事件について、何も知っていることはありませんか」

「はい。私は天使様の教えを常に忘れず、忠実な教徒として日々…」

「安心なさい。もとより貴方を疑いなどしていませんよ。こうして一人ずつ呼び出し、全員から話を伺おうとしていたのです。貴方はその第一人者に選ばれた、それだけの事です」

マザーの言葉に、肩の力が抜ける。まさか自分が疑いをかけられたのではないかと思っていたのだ。

連れられて向かった先はマザーの部屋。他の部屋とは作りが違い、至る所に天使を模したインテリアが置かれ、本棚には高く聖書が積み上げられ、大きな画面付きの機械や資料が上等な机の上に並べられている。向かい側に座った彼女は、姿勢良く、仮面越しに真っ直ぐこちらを見据えており、優美でありながら安易に近付き難い様相だった。

「しかし、やはり…今回あのような行動に走ったのは、教徒の中の誰かであると見て間違いないでしょう」

「あの…お言葉ですが、マザー。天使を敬愛する私共があのようなことをする理由など…」

「理由はなくとも根拠はあるものです。施設の周りには容易には越えられない高さの塀がありますし、門は内側から施錠しているため外部の人間はここに立ち入ることは出来ません。…仮に、梯子などで門を越えて入り込んだとして」

マザーは私の横を指差した。示された方を見ると、そこには形の歪んだバケツ。中に黒いものがべったりと付いており、ペンキが入れられていたと想像がつく。

「大天使像のそばに転がっていました。おそらくこの建物の最上階、天使像を見下ろせる位置の窓から、ペンキの入ったバケツをバケツごと落下させたのでしょう」

息が詰まる。マザーの仮説が正しいなら、確かに外部の犯行であるはずがない。この建物も就寝時は施錠され、侵入するには窓を割るなど大きな損害を与える必要があるが、事件に気づいてから周辺を見て回ったであろうマザーがそれを見逃すことはまず有り得ない。

「ミカ、昨晩何か変わったことはありませんでしたか。些細なことでも構いません。一見して関連性のない出来事も、真実に繋がる鍵となるかもしれませんから」

昨晩の出来事…それは確かに変わったこと、であることに相違ない。しかしそれを言ってしまったら、ウリが疑われるだろう。深夜に廊下を出歩いていたのだ。

ウリは、違う。犯人ではない。なぜなら彼女は悪魔から逃れるべくここに来たのだから。

「昨晩はすぐに眠ったので、異変には何も気づきませんでした」

部屋中の天使の目が此方を睨めつけているように見える。規則がいつも正しいとは限らない…ウリの言葉が脳裏を過る。そうだ、私は規則に反してでも、罪の無い人に疑いが向けられることを望まない。これは私にとっても、ここにとっても、正しい判断のはずだ。

「本当に?」

ビクッ、と肩が反射で揺れる。威圧感のある声だった。体制は全く変わっていないのに、先程までとはまるで雰囲気が違う。

「ミカ、貴方は私に何か隠していませんか」

マザーは、気づいている。そう確信した。全身が凍りつくような感覚に、思わず身震いする。

「これは由々しき事態なのですよ、ミカ。今悪魔が攻め込んできたならば、天使様も、私達の使命も、全て潰えてしまうのです。規則を破るということは、そういうことなのです…私達はそれを許す訳にはいかない。異分子は全て排除し、白一色の世界であらねば!」

机をダン、と強く叩く音に、肩が跳ねる。

「あらねばならないのです、ミカ」

緊迫した状況にそぐわない優しい声が、俯いた頭上から降ってくる。それは安堵を呼ぶどころか、より恐ろしく感じた。

動けずにただじっとしていると、マザーはいつもと同じ声色に戻り、静かに告げる。

「いいでしょう。貴方の発言を信じることにします。戻って構いませんよ」

唐突な解放の合図に驚き、顔を上げる。マザーは扉を指した。私はふらりと立ち上がる。これ以上ここに長く居るべきではない、と思った。

「貴方には期待してるのです。純真で、従順で、天使に最も近い存在…貴方のような子供が増えたなら、きっとこの現世は天界となることでしょう」

扉の前に立つ背に向け、投げかけられた言葉から、逃げるようにその場を立ち去った。


外に出ると、皆が梯子に登り懸命に大天使像のペンキを落としているのが見えた。勿論梯子だけでは一番被害を被っている頭頂部には届かない。手の届く範囲で、全員が協力しながら大天使像を救うべく奮闘している。私も早く加わらなければならない。

「皆、天使様のことを大切に思ってるんだね」

突如横から声がして、思わず飛び退く。そこにはウリが立っていた。

「いつのまに…貴方は、作業に参加していないのですか?」

「ミカこそ、さっきまで何してたの」

「私は…マザーと話してきました。一人一人から話を聞いていくと仰っていたので、貴方も直に呼ばれると思います。…あの、昨晩廊下を歩いていたことは、言わない方がいいです。きっと、疑われてしまうから」

ウリはそれを聞いて小さく笑った。口元に浮かんだ笑みは歪んでいて、顔色もどこか悪い。

「ふふ、嘘を吐けだなんて、規則違反を唆す悪い子だ、ミカは。でも、私はもっと悪い子」

私だよ。軽い調子で、ウリは言う。

私なんだよ。再びそう言って、彼女は胸に手を当て、笑みを浮かべたまま告げる。

「私が、大天使像を穢した犯人だよ」

それを聞いた瞬間、私はウリの腕を強く掴み、大天使像の反対へと走り出していた。


「ねえ、どうしたのミカ。急にこんな遠いところまで…」

「だって、今のを誰かに聞かれていたら!」

聞かれていたら。ウリは一体、どんな目に合うか。

他の規則違反とは訳が違う。それほど大きな罪を犯したと自白した彼女を、どうして私は、守ろうとしているのだろう?

「だって、だって貴方は、そんなことをする理由なんて持っていない。寧ろ、望んでいなかったはず。そうでしょう?貴方の妹は…」

「悪魔に攫われた。真っ白な羽の悪魔に」

私は立ち止まる。一瞬、息の苦しさを忘れた。

「白い羽の…悪魔?」

「全部話すよ、ミカ。きっともうこの先、話すことは出来なくなるから」

空が白み始める。背後には天使の模様が彫られた白壁の塀。端まで来てしまったらしい。大天使像は疎らに植えられた木々に遮られ、遠くに見えた。

「数年前、とある新興宗教が話題になった。なんでも、教えを守れば人は誰でも天使になれる、なんて謳って、信徒達と奇妙な規則が強いられた施設の中で集団生活をしていた、とか」

人は誰でも天使になれる。規則。集団生活。ここのことだろう。新興宗教…外ではそう呼ばれているらしい。

「それだけなら特に害は無い、よくある普通の宗教団体だった。でもある時、教団のリーダーの意向で、あらゆる地域の幼い子供達が集められ始めた。それは信徒の子供などではなく、全く関係のない、一般家庭の何も知らない子供達。各地で誘拐騒ぎが多発した」

「え…」

「異国の子供を中心に集めたからか、子供達の解放はそう簡単に進まなかった。それも教団のリーダー…マザーと呼ばれる女性の策だったのかもしれない。彼等の家族は今も、天使に攫われた子供を探し続けている」

それが本当だとすれば、ウリがあの日口にしていた言葉は。

悪魔達を根絶やしにしてやる。

「私にとっての悪魔は、妹を奪ったこのカルト教団なんだよ」

美しく見えていたはずの天使の姿が、純白の色が、ぐにゃりと歪んでいく。

ウリの言葉が必ずしも真実だとは限らない。しかし虚構にしてはあまりにも、彼女が纏う憎しみの色は重厚すぎた。

「このまま泣き寝入りなんてできない。私はここの所在を突き止め、潜入した。幸い、若い女性がここに入るのはそれほど難しくなかった。目的は一つ、悪魔を呼び出し全てを破壊すること」

「では悪魔を呼び出すために大天使像を…でも、悪魔はまだ…」

「そう。そこが私の誤算。悪魔を呼ぶ条件は二つ、悪魔を遠ざける物を何らかの手段で穢し、全てを破壊したいと強く願うこと。捧げた願いが強いほど、呼び出された悪魔は長く、強く、目についたもの全てに暴虐の限りを尽くす。…はずだったんだけどな」

ウリは乾いた笑いを漏らした。まるで自分自身を嘲笑するように。

「もし失敗した時、新参者はすぐ疑われるだろうって、入ってすぐはここで信徒に混ざって生活することにした。それが仇になるなんてね。ここの人達は純粋に天使を信じて、規則を苦にも思わず暮らしてる。私のことも受け入れて、ちょっと歪な家族みたいに、皆が一つの目的に向けて団結してる。もっと悪魔みたいな集団をイメージしてたから拍子抜けしちゃった。ついでに、毒気も抜かれちゃってたみたい」

「なら、私の知っているウリの全てが、嘘だった訳じゃないんですか」

「嘘だったら良かったなぁ。私、演技が下手っぴだからさ。ほんとは救いたいもののためなら全部壊したっていいつもりだったのに、願いが半端になっちゃって、なんにも出来ずこの有様。天使にも悪魔にもなれずじまい。…ごめんね、ミカ」

「…どうして、私に謝るんですか」

朝日が昇った。木の隙間から日光が差す。ウリの姿が、より鮮明に視界に映る。

「ミカ。お願い、聞いてくれる」

「お願い?」

「仮面を取って。顔をよく見せて」

お願い。彼女の声は切実だった。

今大天使像に集合している皆の位置から、ここはよく見えないだろう。ほんの一瞬だけなら、気づかれないかもしれない。頑なに守り信じてきた規則だ。しかしもう、天使も悪魔も、何が正しいのか分からない。

私は恐る恐る仮面を外す。目の周囲を囲っていた影が取り払われ、視界が広くなる。

「あぁ…やっとだ。やっと見れた」

ウリが、自分の仮面に手をかける。


彼女の顔を見た時、私はそれを、陽の光が反射して見せた幻だと思った。

なぜなら、私はその顔に見覚えがあったのだ。

鏡に映る、私しか知らない私の顔。愛しげに私を見つめるその瞳さえ、私と同じ色。

「翠の目は、ここから遠く離れた、海の向こうの国に住む人達の瞳。お揃いなんだよ、私達」


ごめんね。迎えに来るの、遅くなっちゃって。


遠い昔、誰かの背を追いかけていた。誰かとじゃれあって遊んでいた。

誰かに愛された朧げな記憶は、とうの昔に忘れ去っていた。

彼女の瞳に、声に、私の中の閉ざされた記憶が、断片的に蘇っていく。

ウリ。いや、これはマザーが信徒に贈る名前だ。本当の彼女の名前は別にある。そしてきっと私にも。私には、ここではない、別の居場所が。


「そこで何をしているのですか」

突如として聞こえたその声に、場の時間が止まったかのように思われた。

いつから気づいて、こちらに来ていたのか。立っていたのはマザーだった。

「素顔を他者に晒すべからず。二人も規則に違反しているとは…特にミカ、貴方まで規則を破ってしまうなんて」

「マザー、私がミカに仮面を外すよう言ったの。そして自分も勝手に外した。だからミカは何も悪くない」

「…本来なら二人共罰則を受けて頂くところですが…今回は特別に、大目に見るとします。何故ならば今日、我々は転換点を迎えるのですから」

マザーはウリ、と名前を呼び彼女を一瞥する。そして、淡々と宣言した。

「ウリ。大天使像を穢し、悪魔の信徒と成り果てた貴方を、処刑することが決まりました」

言葉にならない声が漏れる。処刑。ウリが。マザー直々に、通告された。

「今日の内に執り行います。貴方が悪魔の力を借りられず、今も尚不可能であることは承知済みです。無駄な抵抗は止すことですね」

「マ、マザー!待ってください!どうしてウリを犯人だと断定するのですか!」

マザーはさっきまでの会話を聞いていた?いや、私と話してすぐはまだ部屋にいたはず。

「ミカ、天使様は常に私達を見守っているのです。私は少し…その視点を借りるようにしている」

「マザー、遠回しな言い方はよしなよ。…あーあ、もっと早く気づいておくんだった。仕掛けてるんだね、監視カメラ。至る所に」

「監視…カメラ…?」

聞き慣れない単語だが、意味は理解出来る。監視。塀に彫られた天使の瞳がきらりと輝く。ガラスの類だと思っていたそれが、小型のレンズだったとしたら。

各自の部屋にある天使像、廊下にズラリと並んだ天使像、その全てに輝く瞳は埋め込まれていた。そしてマザーの部屋にある画面付きの機械。まさか私達の一挙一動は、天使を通じ、全てマザーに監視されていたとでもいうのか。

「全ては皆で規則を守り天使と成るため。実際、犯人を特定することは容易かった。ミカが嘘を吐いた時は悲しかったのですよ。それでも許し、こうして私しか知りえないことをお話するのも、貴方に期待しているからです」

「マザーは、犯人も分かった上で、私が彼女を目撃したことも知っていて…あんな質問をしたんですか」

「貴方を試したのです。残念ながら貴方は、そこにいる悪魔に誑かされてしまったらしい。しかし安心なさい、彼女に皆の前で命を持った償いをさせることで、異分子は消滅し、規則の重さを皆に、そして貴方にも理解して頂くことが出来るでしょう」

「…どの口が。私の妹を誑かしたのは、あんたの方だ」

苦虫を噛み潰したような顔でウリが吐き捨てる。

「貴方は彼女が話した、私達教団のことを聞いたのでしょう。ウリの話を聞いた貴方には、私が悪魔に見えますか、ミカ。私には、私達が大切にしているものを穢した彼女こそ、悪魔に思えるのです。私はただ、純真な子供達が国や地域の境など関係なく天使を愛することで、現世はより素晴らしい天界になると信じているだけ。私の理想郷が実現した時、きっと全ての人に理解して頂けるでしょう。私の行いは正しかった、と」

「家族を引き離して実現する理想郷なんて願い下げ。私を殺しても、きっといつの日か、再び誰かが貴方の妄言を否定する。それまで精々、真っ白い箱庭で教祖ごっこに勤しめばいい」

激しい目眩に襲われる。二人の言葉が徐々に聞き取れなくなっていく。

長い時間を過ごし、信じてきた天使の教え。長い間引き離され、それでも私を想い続け、悪魔にさえなろうとした家族。

後者を助けたいと願ったとして、一体私に何が出来るというのだろう。

次第に私の視界から色が消えていき、ぐるりと暗転した。



信じられない。

しかしマザーが言うならば間違いないだろう。

彼女が今回の犯行に及んだらしい。

悪魔を呼び出そうとしたらしい。

なんと恐ろしい話だろう!

なんとおぞましい話だろう!

規則に反する者には罰を。

天使を裏切る者には死を。

天使を裏切る者には死を!


十字架に括り付けられた少女は、悪魔を模した仮面を被り、静かにその時を待っていた。

彼女の名前はウリ。神の炎を意味するウリエルから捩り付けられたその名前は、皮肉にも彼女に与えられる罰に重なった。

悪魔を呼び出そうとした彼女の罪は、炎によって身体と共に全てを焼き尽くすことで償われるのだという。

楽天的だが仕事ぶりは誰からも認められ、幼い子供達には特に親しまれていた彼女は、今やここにいる全ての人間に罰を望まれている。

私も、望んでいるのだろうか。

マザーがウリに処刑を宣告してから、あまり記憶がない。気づいた時には彼女の罪を皆が知らされ、彼女の処刑を見届けるべく大天使像の前に集合していた。

ウリがいなくなったら、私はいつも通りの生活に戻るのだろう。天使の瞳の真意にただ一人気づきながらも、逃げ出すことなんてできやしない。それに規則を守っていれば、何も問題はないのだ。ウリが来る前の日常に戻るだけ。

執行人に選ばれた信徒が、火の灯った松明を運ぶ。彼女の足元に積もった薪に火が移れば、徐々に足元から焦がされていくことだろう。

「ウリお姉ちゃん…」

ガブが小さな声で呟いた。幼い彼女にはあまりに残酷だろう。慕っていた歳上の少女が、目の前で焼かれ命を落とそうとしているのだ。私に出来る唯一のことは、せめて幼い子供が抱える心の傷を少しでも減らす、それだけなのかもしれない。私はガブの手を握ろうと、そっと掌を差し出した。

「嘘つき」

静かに呟かれた声に、触れようとした手が止まる。

「天使さまに酷いことして、悪魔の仲間になるなんて。天使さまの仲間だって私たちに嘘ついてたんだ。嘘つき!嘘つきのお姉ちゃんなんて…死んじゃえ!」

彼女の叫びを皮切りに、次々と周囲から声が上がる。

裏切り者!

悪魔の使い!

裏切り者には死を!

天使を裏切る者には死を!


おかしい。

今、目の前で起きている光景は、正しくなんてない。

確信した。年浅い少女が人の死を懇願し、周囲がそれに同調する。こんなことが正しい訳がない。

ここはおかしい場所だ。

天使も悪魔も、正義も悪も、そういった概念を全て取り払って、私はこの空間を全否定する。

白一色の服は暗転し、黒い集団が奇声をあげる光景が目に映る。

悪魔はどちらなんだ、と私は問う。罵ることに夢中な彼等の耳には届かない。

本当は、天使でも悪魔でも、人間はどちらでもない。自分から見た世界で、勝手にそれを判断している。私はそれに気づいて、それから考える。私にとっての天使と悪魔。

天使は、分からない。天使に惑わされ続けた人生だった。今でもその存在の有無すら明らかではない。

でも、これだけは確かだ。

悪魔は、ここにいる全員だ。

「だってこんなの、おかしい」

松明の火が薪に触れるまで、あと一寸。

「こんな場所、全部壊れてしまえばいい!!」

松明の火が、勢いよく燃え上がる。みるみるうちにそれは肥大し、松明を焼き付くし、巨大な牙を生やし…執行人を一口で呑み込んだ。


悪魔を遠ざける物を何らかの手段で穢し、全てを破壊したいと強く願う。

一人の行いにより大天使像が穢れ、一人の強い衝動をトリガーに、悪魔は呼び出された。

天使を信仰し天使となろうとしたその教団は、人里離れた場所で、外部の人間に悟られることなく、全てを悪魔に燃やし尽くされた。

施設は全焼、教祖の女性を含め信徒の大多数が炎に巻き込まれ、消息を絶つ。

生き残ったのは悪魔を呼び出した姉妹、ただ二人だけだった。


悪魔の召喚者は、悪魔の攻撃対象にはならないらしい。目の前で次々炎の餌食になる人々と、何が起こっているのか分からず呆然としているも無事であるウリを見て確信した私は、ウリの拘束を解き、彼女を連れてその場から逃げ出した。

門を内側から開け飛び出す。敷地の外に出るのは初めてだった。鍵を閉め直す必要も、もうなかった。ひたすら遠く、遠くへと走って、気づけば大きな炎に包まれたその施設は随分遠くに見えた。

「あそこにいた人達、皆死んじゃったんだ」

轟々とうねる焔を見つめ、ぽつりとウリが呟く。

「小さい子供達もいた。私と同じ、待ってる家族がいたはずなのに。私がしようとしてたの、こういうことだったんだ。こんなの、私もマザーと変わらない、いや、それより惨い、立派な悪魔だ」

その場に蹲るウリ…いや、天使から開放された私の姉は、悲痛な声を絞り出す。

「何も無かった」

「え?」

「私達、悪い夢を見てたんだよ。長い間ずっと」

私は笑ってみせる。きっと慣れていないから歪な形だ。けれどもう、天使の教えに従うミカは死んでしまった。今ここにいるのは、ただ目の前にいる少女の妹だ。

「ねえ、帰ろう、お姉ちゃん」

私は彼女に、手を差し伸べる。

「…そう、そうだね。家に帰ろう。私達の家に」

私達は手を繋いで、歩き出す。燃え盛り白き灰となりゆく教典に背を向けて。


いずれまた、罪に向き合うだろう。悪魔を呼び出し人を殺めたのは、結果的に私達の方だ。

それでも今は、ようやく掴んだ家族の温もりを、ただ確かめていたかった。






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