第八章
八
池田利隆は家老職の伊織の元を訪ねた。
姫路城内である。
「じい、儂は怖いのじゃ」
「若、どうされたのですか」
「昨日、小坂部が参った」
「なんと、もう参って来たと・・・」
「余も父上の様に、喰い殺されるのであろうか」
「そのようなことは・・・」
「恭順にして居れば、契約は継続すると言っておった」
「なんと図々しい・・・」
その契約を知って居るのは、一部の人間だけ、最高幹部のみなのである。
これが世間に漏れでもすれば、池田家の名が下るであろう、妖怪に脅されて、領地の民や下級の藩士を食い殺す事を黙認しているのだ。
「じい、余はどうすれば良いのじゃ」
「はぁ・・・その・・・」
「父上やじいの申す通りに対応したが、あれが毎夜訪ねて来るかと考えると、恐ろしゅうて、恐ろしゅうて、頭がどうにかなってしまいそうなのじゃ」
「しかし、若・・・」
「あのように恐ろしい思いをせねばならぬなら、余は家督など継ぎとうない」
「何を申されるのか、まだ殿の葬儀も終わって居ないのに」
「嫌じゃ、嫌じゃ、それに余はこれ以上家臣や民が食い殺されるのには、我慢が出来ないのじゃ」
「若、その様なことを大きな声で・・・あれに聴かれたら、ただじゃ済みませぬぞ」
利隆は口をつぐんだ。
「それに若、まだ幕府に届も出して居らぬ内から騒動でも起こそうものなら、我が池田家はお取り潰しになりますぞ」
とうとう利隆は、下を向いて黙り込んでしまった。
「若、今はお家の為、辛抱の時で御座いますぞ、殿が殺された今、じいもこのままで良いとは考えて居りませぬ」
「ほ、本当か、じい、何か良い方法があると申すのか」
「はい、このじいに少し思案して居ることが御座いますゆえ、今は殿の葬儀を無事に済ませることの方が大事で御座います」
「わかった、じい、余は辛抱する」
「はい、後のことはこのじいに任せておいてくだされ」
利隆が少し安心して退散するのを見送った後、伊織は腕を組み考えた。
片桐伊織、我が片桐家は先々代の恒興の代より家老職を仰せつかって居る。
この先も、池田藩の家老職は約束されて居る誇りある家なのだ。
自分の代で終わらせる訳には行かない。
池田の家がお取り潰しに成ろうものなら、我が片桐家も路頭に迷ってしまうのだ。
利隆のあの様子では長くは持つまい。
前の輝政の様に割り切った考えの持ち主ならば、この様な心配などせずに済んだのに、始めからこれでは先が思いやられる。
良い案などあるはずもないのだが、ああでも言ってやらねば解放してくれないだろう。
今は輝政の葬儀の手配で忙しいのだ。
伊織も小坂部姫なる化け物の事は、全て承知して居る。
初めて輝政に打ち明けられた時は、天地がひっくり返る程に驚きもした。
その驚きは、輝政の気が狂うたのではないかと言う驚きであったのだが・・・
二、三度この眼で目撃するまでは、その様な物がこの世に存在するのかと、疑って居たのだ。
契約の話しも聴いて居る。
始めはその様な大事な事を、勝手に決めた輝政に腹を立てたものだが、よくよく考えてみると、やはり黙認する以外は方法が無いのである。
それに黙認さえしていれば、この姫路の城は守られ、池田家も安泰と言うこと。
さすれば我が片桐の家も安泰と言うことに成るのだ。
そんな事よりも、今は利隆が家督を相続出来るかどうかの方が、何よりも大事。
その為に榊原康政の娘を徳川秀忠の養女として、それを利隆の正室に迎えると言う離れ技を遣って退けたのは、この伊織による、下拵えの苦労があってこそだ。
その際に、将軍家から松平の性まで頂くと言うおまけまで、取り付けて来たのだ。
当たり前に行けば利隆の家督相続は安房なのだが、最近の幕府と言えば、何かに付けては大名をお取り潰しにして居るのだ。
輝政の死は病死と言うことにして、徳川幕府には今朝届けの使者を送ったばかりだ。
付き合いのある大名たちにも知らせないといけないし、輝政程に名のある大名だ、その葬儀は盛大な物にしなければ、他家に恰好が付かないだろう。
その日取りさえまだ決まって居ないのだ。
伊織の考えなければならない事は、山住みなのだ。
それなのに、利隆の小心には困ったものである。
小心の癖に、一人前に正義感を持ち合わせて居る・・・
とりあえず葬儀が終わるまでは、利隆の方はごまかす事は出来るであろう、しかしあの妖怪をどうにか出来るのであろうか。
先程利隆に伝えたことは、口から出たでまかせで、良い案など何もない。
我が藩に居る手練れの剣士共を集めて、退治させてみようか・・・しかしそれが失敗に終ればどの様な目に遭わされるのか。
今の池田家にはそれ程の剣士は居らぬ。
比叡山の高僧であっても、あの有様でないか。
伊織は一部始終、息を潜め隣の部屋から盗み覗いて居たのだ。
一撃の蹴りで阿闍梨はこと切れた。
多少の手練れでは敵うまい。
機会は一度しかないのだ、失敗すれば池田家は終わるであろう。
報復に移ったあの鬼を想像してみる。
伊織は思わず身震いしてしまった。
きっと、わが身もただでは済むまい。
退治を試みるならば、それは天下に名のある剣豪で無ければならぬ。
伊織は心に思う剣の使い手を、指折り数えてみた。
まず柳生宗矩、これの無刀取りなる技は、天下無二と聞く・・・しかし宗矩は将軍家に近すぎる。
この騒動を、将軍家に知られるのは不味いのだ。
あくまでも、隠密裏に行わなければならないのだ。
それを考えると、次に思い浮かぶ、小野次郎衛門とて同じ事だ。
宗矩と共に将軍家の兵法指南役なのだ。
伊藤一刀斎、宮本武蔵、柳生兵庫助。
これらは武者修行で放浪の旅をして居ると聴く、何処に居るやら消息が分からぬ。
伊織はふと思いついた、佐々木小次郎はどうであろうか。
この時、巌流島の決闘を、伊織はまだ知らされていない。
細川家の家老職である、長岡殿とは昵懇の仲である。
ここのところ政務が忙しく、しばらく文のやり取りはしておらぬが、儂が頼めば隠密裏に事を運んでくれよう。
佐々木小次郎は細川家の剣術指南である。
これは良い考えである。
佐々木小次郎であるならば、きっとあの妖怪を討ち果たしてくれよう。
良き考えじゃ、良き考えじゃ、伊織は自分の考えに有頂天になった。
しかし・・・
いくら昵懇の仲とはいえ、他家の揉め事の為に、細川家にとって大事な剣術指南役を貸してくれるであろうか。
他藩の騒動に他藩から藩士を使わせてもらったなど、そんな話しは聴いたことがない。
そもそも、この様な奇怪な話し、長岡殿は信じてくれるのであろうか・・・
ついさっきまで有頂天であった伊織であったが、今度は落胆してしまった。
文だけでは駄目であろう、でも実際に遭うて、膝を突き合わせて話しをしてみればどうであろうか。
長岡殿とて儂の話しを信じるであろうし、力を貸してくれるはずじゃ。
その為には、儂の方から小倉へ赴かねばならぬだろうのぅ。
しかし葬儀が終わらないと、伊織の身体は開かないのである。
ん、葬儀・・・
そうじゃ、葬儀じゃ、輝政の葬儀の折に、細川家の名代として、長岡殿に来てもらえば良いではないか。
この時期に小倉より細川様が姫路まで、わざわざ足を運ばれるはずはない、必ずや名代をおたてになるはずじゃ。
そして長岡殿はそれに相応しい家老の身。
今度こそ自分の考えに合点がいって、伊織はまた有頂天になった。
そうと決まれば早速長岡殿に文を書こう。
折入って相談したき義があるゆえ、今度の葬儀の時には、名代として来られる様に取り計らって欲しいと伝える。
長岡殿なら、きっと上手く事を運んでくれるはずじゃ。
行ける、この策で必ず行ける筈じゃ。
伊織は、まだ見ぬ佐々木小次郎に思いを寄せた。
「これで小坂部もおしまいじゃ・・・」
伊織は思わず口ずさんでしまい、慌てて口を噤んだ。
辺りは静まり返って居た。