第五章
五
宮本武蔵は変わった人物だと思って居た。
勘四郎の想像では、無口でひたすら剣のみに生き、人を避け、野山に生きる獣の様な生活を送る孤高の人、それが勘四郎の中の宮本武蔵なのだった。
しかし実際に目の前に居る武蔵はそうではなかった。
風体こそ噂通りだが、話好きで身なりは清潔、始めこそ恐ろしい印象を受けたが、こうして話してみると、どこか人懐っこささえ感じてしまう。
風呂を上がった後もこうして武蔵の部屋へ誘われて、夕膳を共にして居る。
気に入られたのだろうか・・・
勘四郎からすれば、憧れだった人物に誘われて、断る理由などどこにもない。
実際に宮本武蔵は、旅の途中で身寄りのない子供を拾って、自分の養子にして面倒を見たりして居る、それも一度ではない。
人間嫌いの孤高の人、孤独な人なのではなく、本当のところは人が好きだったのではなかろうか。
そんな武蔵の人柄につられたのか、勘四郎は身の上や、これまでの経過などを全て打ち明けた、武蔵は話し上手でもあり聞き上手でもあったのだ。
「ほう、生駒家と言えば名門ではないか、武者修行などと、ご両親も心配しておろう」
「はい、でもどうせ自分は家督を継げるはずもなく・・・何のために自分はあるのかと、いつも考えておりました」
「ふむ、それで剣術を・・・」
「はい、自分は剣の世界で名を上げとうございます」
「して、その剣術で人を殺めてみて、どうであった」
「わかりません、ただ怖かったです」
「ははは、お主は正直じゃのう、しかしその怖いと言う気持ちは大事と考えよ、恐れを知らぬ者は早死にするからのう」
「武蔵様は怖くないのですか」
勘四郎は思い切って一番聴いて見たかった質問をしてみた。
「怖い」
返って来た返答に、勘四郎の方が面を食らってしまった。
「お主があまりにも正直に語るもんでな、拙者も正直に申すと、実は怖い、死にとうはない。 死にとうないので準備は怠らない、それこそ考えうるであろう全てのことを思案する。 万全の準備をして戦いに望む。 準備もせずに試合に望むは阿呆のする事じゃ。 負けるは死に直結するでな。 卑怯な勝ちも致し方無い事じゃ、卑怯を想像出来ぬ輩は、その時点で拙者に負けて居るのよ。 命は一つしか無いでな、勝ちに綺麗も汚いもないのよ、拙者はそうやって今まで勝ちを収めて来たのじゃ、それが兵法だと拙者は思うて居るし、これからも変わる事は無い。 だから拙者は負けると思うた試合はせぬ。 それを普段から心掛けて居るから油断もない」
武蔵が堂々と言い切った。
体力もあり、技術も持ち合わせて居る、武蔵ほどの兵法者であっても、毎回細心の注意を払って試合に望む、負ける試合は始めからしない、それは道理である。
目から鱗が落ちる思いであった、武蔵が語った事は当たり前の事ではあるが、その当たり前の事を念頭に置いて、日々送る者が果たして何人居る事だろう。
勘四郎は感心しながら、ふと右側に置いてある、武蔵の太刀が眼に入った。
それは当たり前の光景である。
武士の刀は左差し、刀を右手で抜くので、左側に差すのだ。
だから鞘ごと刀を右手に持つ行為は、相手に他意が無いと言う証しなのである。
左利きは行儀が悪いとされ、勘四郎は左利きであったのだが、幼き頃より厳しく右利きに治された経験がある。
それは相対して座る際も同じで、刀を置く時は右側に置くのが礼儀だ。
勿論勘四郎も右側に置いて居るし、武蔵のそれも右側である。
勘四郎は、少し意地悪な質問をした。
「武蔵様、武蔵様は今右に指物を置いておられますが、それは油断されて居るのではないのでしょうか」
幼き頃に、左利きであった勘四郎だから気が付いた質問である。
「ん、勘四郎がいきなり斬り掛って来た場合に、どうするかと言う質問かな」
「あ、いや、すみません、分が過ぎた発言でした」
武蔵の言葉がお主から勘四郎と呼び捨てに変わって居る、やはり気を許して居る。
「勘四郎は左利きか」
「いいえ、違います」
「そうであろう、先ほども言うたが生駒家は名門であろうから、行儀作法などは厳しくされたであろう」
「はぁ、まぁ、その通りです」
「まぁ勘四郎の立ち居振舞いを観て居れば、それは解るのだが・・・じゃあ、今度は拙者の方からの質問じゃ」
「あ、はい」
勘四郎は背筋を正した。
「もし拙者が左利きなら何とするか」
「あっ」
武蔵がにやりと笑った。
宮本武蔵は、左利きだったと考える歴史家は多い。
一本より二本の方が有利と思案して、武蔵は二刀流を使うようになったと言う。
二刀を自在に振るうのに、勿論武蔵の怪力も必要であったであろうが、右利きの場合、左手がそれに付いて行かないのだ。
元々利き腕が左だと、右手がそれに順応するのはそれ程難しくはない。
後に二天一流と言う流派を開き、数多き門弟を抱えるのだが、最後まで名のある名人は生まれなかったと言う。
余談になるが、勘四郎が使う小野派一刀流は、数々の流派に分流して居るが、小野派一刀流は今現在も続き、警視庁の武道専科生は剣道のみならず小野派一刀流を学んでいる。
一刀流は万人が学べる剣術であるが、二天一流は剣の天才である宮本武蔵個人にしか使えない剣術だったのであろう。
「すんまへん、お客はん」
外居から、店の者が声を掛けて来た。
武蔵が返答を返すのを確認して、店の店主が襖を開けた。
「お話し中どうもすんまへん、お客はんは宮本武蔵様でいらっしゃいますか」
申し訳なさそうな顔で店主が訪ねた。
しばらく武蔵は何も答えず店主の顔を見詰めていた、勘四郎はどうして良いか解らずに武蔵の顔と店主の顔を見比べた。
武蔵は名前を尋ねられて、どう返答するべきか思案して居るのだろうか。
店の店主も、どうしたら良いか解らない顔になって小さくなって居た。
「いかにも、拙者が宮本武蔵である」
やっと返答した武蔵に、店主が安堵した様子を見て、勘四郎も安堵した。
「宮本武蔵様に、お客はんが、お越しになっておられます」
店主がそう告げると、武蔵が怪訝な顔をして、またしばらく店主の顔を見詰めた。
小さくなって居た店主が、さらに小さくなって居た。
「何人だ」
「は、はい、お、お一人でございます」
息も絶え絶えに店主が答えた。
まるで蛇に睨まれた蛙の様だ、勘四郎は店主が可哀そうになってきた。
「風体は、姫路の藩士か、浪人か、性別は、どんな様子で参った、刀は持っておったか、今何処で待たせて居る」
矢継ぎ早に詮索する武蔵の質問に、店主は順を追って答えて行く。
まるで役人に詮議を受ける罪人の様だ。
「ところで店主、なぜ拙者が宮本武蔵と解った、他の部屋には寄らずに、真っ直ぐこの部屋を訪ねた様に見受けたが」
今度は勘四郎がぎょっとなった。
今の今まで勘四郎と普通に談笑していたのに、外の気配まで感じ取って居たのだ、勘四郎は全然気付かなかった。
「お客はんが、宮本武蔵様だと、姫路の皆が噂しとります・・・」
最後の方は聞き取れなかったが、武蔵程の有名人にもなると、何処へ行っても噂されるのであろう。
「通せ」
武蔵の言葉にやっと解放された店主は、返事もせずに駆け出して行った。
その男は旅の町人風で、先程の店主に案内され部屋に入って来た。
武蔵の前に礼儀正しく正座をして、私は八郎と申す者ですと名乗った。
武蔵は何も言わず八郎を見詰めている。
八郎もそれ以上は何も言わず、笑顔で武蔵の視線を受け流していた。
「忍びか・・・」
八郎が一瞬、おっ、と言う顔になったが、直に笑顔を取り戻した。
「さすがは宮本様、まずは失礼をお詫び申し上げます」
「その忍びが拙者に何用であろうか」
「はい、御用が御座いますのは私の主人で御座います。 宮本様を招待して、夕膳でもご馳走したいと申しております」
「ほう、それは残念なこと、夕膳なら今そこの若者と食ったばかりでのう・・・して、その主人と申すのは、どこの御仁かな」
「はい、柳生兵庫助様に御座います」