日本帝国海軍航空隊 九九式艦上戦闘機の影響
第2次大戦における枢軸国の航空機中で、1機種だけ登場が1年早まった架空戦記です。
航空ショーへようこそ!
今、上空を3機編隊で飛んでいるのが九九式艦上戦闘機です。
太平洋戦争で活躍した日本帝国海軍航空隊の九九式艦上戦闘機。
日本軍では「キューキュー」「ツクモ」などと呼ばれ、米軍では「ナインナイン」「ダブルナイン」などと呼ばれました。
皇紀2599年(西暦1939年・昭和14年)に制式採用されたので九九式艦上戦闘機となりましたが、採用が一年遅ければ、日本軍では「零戦」、米軍では「ゼロファイター」と呼ばれたでしょう。
昭和12年に十二試艦上戦闘機として海軍から航空機メーカーに要求された性能は、空戦力、速力、航続距離いずれも高いレベルを求めるものでした。
それらの性能を並立させるために開発は難航しましたが、突如として昭和13年中に開発はまとまり、試作機の飛行にも成功しました。
試作機の飛行には何も問題はなく、テストパイロットが怪我をしたり、ましてや殉職するようなことはありませんでした。
あまりにも試作機が良すぎるので、関係者からは冗談混じりに「タイムマシンで未来から完成した機体を持ってきたようだ」と言われました。
それを聞いた設計主務者はやはり冗談混じりに「未来の記憶が私の頭に流れ込んできた」と答えています。
設計主務者をモデルにした有名なアニメ映画では、その発言を元に、未来の記憶が主人公の頭の中に流れ込む幻想的なシーンがあり、アニメ映画史上に残る名シーンとなっていますが、もちろん事実ではないでしょう。
九九戦の戦場における活躍については過去に書籍や映像で多数語られているので、九九戦その物ではなく、九九戦が日本の航空戦力にもたらせた影響について今回は語りましょう。
昭和14年5月に発生したノモンハン事件に制式採用されたばかりの九九戦は参戦しました。
空戦性能でソ連空軍を圧倒し、制空権を確保すると、低空に舞い降り、20ミリ機銃でソ連陸軍の戦車や装甲車を撃破しました。
ノモンハン事件は日本側の「やや優位」で終わりました。
戦場で見た九九戦の性能に惚れ込んだ陸軍は陸軍航空隊でも九九戦を制式採用しました。
これが日本の航空戦力に大きな変化をもたらす切っ掛けでした。
陸上から運用する戦闘機は陸海共用とした方が良いという考えが広まり、海軍は艦上戦闘機の開発に専念することになりました。
日本海軍は局地戦闘機の開発を中止し、陸軍が開発した戦闘機を採用することにしたのです。
もし、日本海軍が局地戦闘機を開発していれば、リソースがそちらに取られ、九九戦の後継機である「烈風」の開発に失敗していたと言われています。
他の影響と言えば、陸軍の重爆撃機と海軍の陸上攻撃機の装備品があります。
機体を共用するまでは行きませんでしたが、陸海共同で「誘導噴進弾」を開発しました。
陸軍ではソ連陸軍の要塞を目標として想定し、海軍では米海軍の艦艇を目標として想定していました。
陸海航空隊が協同作戦ができるように陸軍航空隊の一部の部隊では洋上航法の訓練をするようになりました。
昭和19年6月のマリアナ沖海戦ではマリアナ諸島に陸軍航空隊の戦闘機隊と重爆撃機隊が進出しました。
空母機動部隊には「烈風」が大量配備されるようになっており、マリアナ諸島の海軍の基地航空隊、陸軍航空隊、そして母艦航空隊の三つの部隊が協同で米海軍機動部隊を攻撃しました。
まず、陸軍の重爆隊が空母を護衛する巡洋艦・駆逐艦を誘導噴進弾で攻撃し、防空陣が混乱したところで海軍の雷撃隊が空母に向けて突撃しました。
攻撃は成功し、多数の米空母を撃沈破しました。
マリアナ諸島の攻略に失敗した米軍は、日本本土にB29で本格的な爆撃が可能な基地を確保できませんでした。
米国から見れば一時的な手詰まり状態でしたが、時間をかければ空母機動部隊を再建し、日本海軍を圧倒できるのは明らかでした。
しかし、その時間がありませんでした。
大戦末期、ナチス・ドイツを打倒したソ連が満州・朝鮮半島に攻め込んだのです。
ソ連は千島列島・樺太南部へ侵攻する計画もありましたが、日本海軍は健在だったため断念しました。
満州の関東軍は南方に部隊が引き抜かれていたため、ソ連陸軍の侵攻を防ぎきれませんでした。
しかし、陸海軍航空隊の活躍により、満州まででソ連軍の侵攻は止まりました。
朝鮮半島がソ連との最前線になりました。
ここで、米国が介入してきました。
日本に条件付き講話を申し込んできたのです。
条件は太平洋戦争開戦後の占領地からの撤退、軍備の一部制限でした。
米国は日本に無条件降伏・軍備の放棄を求めていましたが、ソ連の脅威に対抗するためにある程度の軍備を残すことにしたのでした。
日本は米国の条件を受け入れ、戦争は終わりました。
朝鮮半島は住民投票により「朝鮮王国」として独立することになり、朝米安保条約と朝日安保条約により、在朝米軍と在朝日本軍が駐留することになりました。
朝鮮も独自の軍備を持つことになり、朝鮮空軍は九九式戦闘機を練習機としてライセンス生産しました。
日本が九九戦の生産を終了し、機体を全機退役させた後も、1960年代ごろまで朝鮮軍では現役でいました。
現在、航空ショーなどで飛んでいる九九戦はほとんどが朝鮮王国で生産された機体です。
今、飛んでいる3機の内1機が太平洋戦争中に日本で生産された貴重な機体で、残り2機が戦後に朝鮮で生産された機体です。
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8月1日午前0時で予約投稿するつもりが、間違えて投稿してしまいました。
フライング申し訳ありません。