Zero/星海脱出
————私は、いろんな夢を見る。
例えば、果てのない草原を駆け回る夢。
私を妨げるものはそこには何もなかった。
これは私の願望……というか、羨望の表れなのかもしれない。果てのない草原は自由の象徴。駆け回っているのは、この不自由から逃げたいという強い想いからか。
遠い遠い、世界の彼方。見たことがないような風景の数々。夢の世界は私にとって理想の世界であった。
夢の世界はどこかの歓楽街だったり、はたまた透き通るような青色の海だったり。いろんな世界を見てきたのだけれど、この日だけは特別違った。
現実的な風景が崩れていく。全てが夢だったと言うように————明るい世界は真っ暗になってしまった。
だけど、いつも視るような暗闇ではない。
世界に灯りがあった。
蒼く輝く一つの綺羅星。
なんとなく、私はそれに手を伸ばしてみる。
当然ながら、届かない。掴めない。
「んぁ————」
閉塞的な世界で生きてきた私にとって、この暗闇は広すぎる。狭い世界から手を伸ばしても、広い世界の彼方にあるあの星にはどう頑張っても届かない。それは例え、夢の世界であったとしても変わらない。
致命的な現実に、少しながら絶望する。
絶望しながらも、少女に直感が走る。
「あの星は、きっと」
————私を、現実へと連れ出してくれる。
根拠はない。けれども、これまでもそうやって『直感』だけで生きてきた。
やりたいことをやりたいようにする。私は私の運命を変えたい。だから————
自らの命を投げ打ってでも、あの星に会いにいく。
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極東、日本大陸。国が有する最南端の島からさらに南下した位置にある異常地点。常人では観測すら不可能である、位相の“ズレ”により生まれた『空白』。
位相とは、一言で言えば世界の繋がりのこと。
世界の繋がりがズレた場所には必ず『間』が生じる。
何も無い『無』の空間。その中央に、黒い城塞が存在している。漆黒とも呼べるほど、完全な『黒』で塗装された城は否応なしに格調の高さを感じさせる。
城塞内部。一般的に『玉座』と呼ばれる空間。
外装の淡白さに対して煌びやかな内装。扉から玉座まで丁重に敷かれたレッドカーペットの左右の傍らには剣士の銅像が配置されている。そして現在、王族が暮らしているような厳格な空間には、一段と緊張が走っている。
その緊張を破るように、玉座に座る男が口を開く。
「え〜……皆さん。今回召集されたのは、何故か。
わかる人は、いますか」
限りなくけだるそうに。無造作に髪を伸ばした男は、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
玉座の前には城塞の兵士が膝をつき、頭を下げて、これ以上なく美しい均衡を保って並んでいる。
気の抜けた声が響いたにもかかわらず、尚も兵士たちの間には緊張が走っている。
だが、この雰囲気の圧に屈することなく手を挙げる兵士がいた。
「アリス様が、脱走なされたから、ですか?」
恐る恐るも、兵士は意見を述べる。その答えを聞いて、玉座の男は頬杖をついて不機嫌そうにため息をつく。
「イグザグトリー、正解。こちらで何度も特定探知術式を実行したけど、見つからなかった。これは緊急事態だ、と判断して君たちを招集した次第だ」
男は疲れているのか、機械的に、淡々と事実を述べていく。
「まあ、だいたいこの後どんな指示をするかはわかるとは思うけど、一応伝える。可及的速やかな魔術式の保護。及び牢獄の強化。それぞれ班分けして行う。意見のある者は挙手を」
その質問に反応する兵士はいない。
全員賛成、完全な意見一致だ。
「オーケー。では班分けを発表する。兵士名『ロスリック』『レオン』『ヘカーティア』はここに残り、牢獄の強化を」
「「「はい!!」」」
そうして、男によって指名された三人の兵士は牢獄の強化へと向かった。残った2人の兵士は、先ほど呼ばれた兵士とは明らかに外装が異なっている。
片方は、王道派騎士のような。
片方は、胡散臭い占い師のような。
外装の違いは位の違いを感じさせる。ガシャガシャと兵士たちが玉座を離れ、再び静寂が戻り始めた頃。
「ジャック、マリー。君たちにはアリスの保護に出向いてほしい。アリスを二度ならず、三度までも脱走させた失態、この功績を以って返上を」
「「御意」」
そう言って、二人はそれぞれ足並みを揃えて玉座を後にする。男以外もいなくなった玉座で、ポツリとつぶやく。
「なぜ。そうまでして外に行きたがるのだ」
▼
————脱走は容易だった。魔術の一つや二つを上手く使えば簡単に壊せるザルな監獄だ。
夜空を思わせる黒い城塞の周りには何が広がっているのかと期待を寄せていたが、想像以上に面白みのない光景だった。見渡す限りの暗黒。
結局は夢と同じなの————と、落胆しているような余裕は、少女にはない。
心機一転。暗黒の海から現実の海を繋ぐ『ズレ』を目指して、少女アリスは泳ぎ始める。
ここは静かな海域だ。まさしく音のない宇宙を感じさせる静寂さを有している。
海というのは比喩であり、実際にはただの『虚無』でしか無い。波は立たないし、生物も暮らしていない。
現実とここを隔てる空間————
「はぁ……はぁ……」
息が荒くなる。先ほど魔術を二連続で使ったからか、体力が底をつきそうだ。あの城からどのくらい離れたのかと後ろを振り返ると、
「!!」
追手が来ていた。想定していたことよりも早かった。
しかも、その追手は見慣れた顔の人で————
休憩する暇はない、と。先ほどよりもさらに根気を入れて、泳ぎ始める。
勘ではあるけれど、多分『ズレ』はもうすぐだ。
追いつかれるのが先か、泳ぎ抜かるのが先か————
「勝負だね、マリー……!」
マリー、というのは鬼気迫る勢いで私の追手のこと。さっきチラッと視界に入った時には、かなりの重装備だった。左手には音響強化用具、右手には拘束用反致死傷性短銃を握っている。
『こちらマリー。脱走者は直ちに停止せよ』
メガホン越しの女性の声が聞こえる。
当然、止まるわけがない。
『こちらマリー。再度忠告する。直ちに————」
「あっ」
再度の停止を促す声が聞こえたような気がするが、そんなことがどうでも良くなるようなことが起きた。
ズレを見つけた。ここに飛び込めば『現実』に出れる。踊り出す感情を抑えながら、飛び込もうとした時。
ガシッ、と。
マリーに左足首を掴まれた。
「なっ————」
右手の短銃はフェイクだったの……!?
「捕まえたわ。さあ、城に戻るわよ。アリス」
フルフェイスのマスク越しだけど、勝ち誇ったような顔をしているのが容易に想像できる。
……左足首を握る力は段々と強くなっていく。
ここで抵抗をしなかったら、間違いなく連れ戻される……!
「……っ!」
唇を強く噛み締めながら、この状況を打開する方法を模索する。魔術を使って終えば簡単だけど————
間を開けずに次を撃てば間違いなく死ぬ。それでは本末転倒。
なら、今ここにあるモノを利用しなくては。
マリーが持っているもので、利用できそうなものは……。
簡単に見つかった。マリーは今、左手で私を抑えており————右手には依然として、短銃を持っていた。
これを利用しない手はない。
「……大人しく帰る心の算段はついたようね。ならば結構。肩の力を抜いて……」
何の抵抗を示さない私を見て、諦めたと思ったのか。
マリーは私の顎に短銃を突きつけようと、右腕を上げていく。
瞬間。
「いっ————」
勢いよく彼女の右手を右脚で蹴り上げた。
短銃本体を蹴り上げたところで多分状況は変わらない。仮にアレがマリーの手の元を離れたとしても、すぐに回収されるのオチだ。
だったら、痛みを与えて動きを止めればいい。
とはいえ、17歳女性の蹴りでは成人に大したダメージを与えることはできないけれど。時間稼ぎにはなる。
私はこのまま『ズレ』に飛び込もうとしたとき、マリーが叫ぶ。
「待ちなさいアリス! 無謀な真似はやめなさい! 貴方は狙われているのよ。外の世界になんて出たら、よその人間に何をされるかわからない!」
「……」
沈黙。マリーはいつもそうだ。
外の世界が等しく恐ろしいなんて決めつけている。
「私は行くよ。マリー」
風は吹いていないはずなのに、アリスの美しいツヤのかかった黒髪が靡く。
「…………」
マリーは黙り込む。
「やりたいことをさせて、お願い」
「……貴方の気持ちはわかります。ですが貴方はもう、そのように気軽に外を出歩けるような状況では————」
私は、マリーが言葉を紡ぎ終わる前に、『ズレ』へと飛び込んで『現実』へと帰還する。
暗黒の大海に取り残された女性ひとり。
先ほど蹴られた右手を左手で優しく撫でながら、『ズレ』へと視線を向ける。
「…………アリス」
思い残した感情を漏らすように。
マリー、と呼ばれる女性はポツリとその名を呟いた。