人の未来を食べるモノ
ホムンクルス 瓶の中の未来 Ⅲ
夜十時ごろになって、アパートにたどり着いた。
くしゃくしゃに丸められた紙屑のような体が、そこにあり、震える指で部屋の明かりを灯した。
着ているものを、無造作に脱ぎ捨て、羽毛布団の上へ倒れ込む。柔らかく、温かい生地が包み込む。
小さい頃からそうだった。何か嫌なことがあると、とにかく布団の中に身体を滑らせた。
中一の時、親父が交通事故で死んだときもそうだったし、二十歳の時、母がガンで亡くなったときもそうだった。布団の中に潜り込んでいれば、時がすべてを忘れさせてくれると思っていた。
布団の中に、何かが紛れ込んでいた。まさぐり、手にして見る。
なぜ、こんなモノがベッドの中にあるのだろう。
ベッドの中にあったのは、あの瓶だった。瓶の中に、あの異様なモノもいる。
つぶさに見てみると、異様なモノは変容していた。ダークグリーンの髪が肩まで伸び、陰部には黒々とした陰毛が生えている。焦点の定まらなかった灰色の瞳は、知性の片りんを見せ始め、幼児体型だった身体が、少年のそれになり、そいつは、まるで、私を憐れむように嗤って見せたのだった。
嗤う…………。確かにこいつは嗤っている。口角をつり上げて、嫌らしい笑みを浮かべている。
「馬鹿な!」
私は、思わず叫び声をあげた。
ありえない……。ありえない……。ありえない……。人形が嗤うなんて……。
私の危惧を、覗き見るかのように、瓶の中でそいつは嗤い続けた。
声が聞こえる。人を嘲笑うかのようなしわがれた声だ。こいつは声を出し、嗤っているのだ。
(やめろ…………やめてくれっ。なぜ、嗤う…………。確かにオレは就職活動に失敗し、女に振られた…………)
私は、瓶を握りしめた。窓を開け、瓶を外に投げ捨てた……。
机の上の置時計が午前二時を指していた。だが、眠ることなどできやしない。冷蔵庫にある缶ビールをとり出し、むさぼるように飲んだ。缶ビールを五本、空にし、冷蔵庫の中にあった鳥の空揚げを、口の中に放り込んだ。アルコールで、頭を麻痺させ、胃の中に食物を詰め込めば、夢の中に逃げれると思っていた。
だが、眠れない……。ベッドに戻り、目をつぶってもだめだ。頭が冴えて眠れない。疲れ果てた身体が鞭打って、私を責め続けているのに…………。
音が聞こえた。玄関の戸を叩く音だ。戸を叩く音に紛れて、耳障りな声が、直接頭の中に響いてきた。
なにを言っているのか分かりやしないが、人語だ。
辺りを見渡した。私の他に人などいやしない……。
〈なにをキョロキョロしている? 僕を探しているのかい。僕はここにいるよ。ほら、おまえの後ろに〉
私は、振り向いた。振り向くと、そいつはいた。机の上にいた。
どうやって、この部屋に戻って来た? 窓から投げ捨てたはずなのに……。
夢でも見ているというのだろうか。私は、瓶から目を逸らした。
〈なぜ、顔を背ける。僕のことを嫌いなのかい?〉
瓶の中のそいつは、瓶の中から、私に話しかけていたのだ。
「おまえ…………。何者だ」
私はそいつに尋ねた。
〈僕? 僕はあんたの未来。いや、おまえの未来を食べるモノ〉
「俺の未来!? 俺の未来を食べる者だと!!」
私は、思わずそいつの言葉を繰り返していた。
〈言っておくけれど、僕はまやかしじゃあないよ。僕をまやかし、幻想のたぐいだと思えば、僕は幻であり、うつろうモノだろう。…………僕は、人の未来を食べて生きるモノ。おまえの苦悩が、僕の養分になり、おまえの苦しみが、僕の生きる糧になる。おまえが悲観するたびに、おまえの悲しみのエキスが瓶の中に注がれ、僕は成長する〉
「ふざけるな!」
私は、瓶を掴むと、アパートを抜け出した。
外に出ると、アスファルトの上に、瓶を思い切り叩きつけた。だが、瓶は割れない。
もう一度、瓶を手に取り、何度も何度も、アスファルトの上に叩きつけた。しかし、瓶は割れなかった。
近くに小さな公園がある。そこに、こいつを埋めてやる。
私は真夜中の道を急いだ。
こんなものに憑りつかれてたまるか……。こんなものに憑りつかれてたまるか……。こんなものに憑りつかれてたまるか……。
疲れ切った身体のどこにそんな体力があったのだろう。気が付くと、私は、星一つない暗い道を全力で走っていた。
公園に着いた。公衆トイレを探した。黄色のフェンスと、公衆トイレの間に、五十センチほどの隙間がある。その隙間の土の下に、こいつを埋めてやるのだ。
おまえのような気持ちが悪い生き物など、ここで朽ちてゆくがよい。
私は手でそこを掘り起こした。幸い湿った土なので、造作もなく掘り起こせた。それでも指が血だらけになったが……。
血にまみれた指で、瓶を掴み、それを地中深く埋める。
二度と、私の前に現れるな。おまえはここで永久に眠り続けるのだ。
私は唾を吐いて、その場を去った。
翌日、矢田が私を訪ねてきた。
私は居留守を使った。顔を見せたくなかった。
いまの私の顔は、おそらく幽鬼のようにやつれ、憔悴しきっているだろう。
そんな顔を見せて、どうする? 馬鹿にされるだけだ。
私は、何度もドアを叩く矢田を、無視し続けた。
「おいおい、居留守を使ったって無駄だ。何年の付き合いだと思っているんだ。中にいるんだろう。話がある。ドアを開けてくれ」
「…帰ってくれ。いま、誰とも会いたくないんだ」
「遠いとこ、せっかく来てやったのに、帰ってくれってことないだろう」
「悪いけど、お願いだから、帰ってくれ」
私は、矢田の来訪を拒み続けた。
「おまえ、郁子と別れたんだろう。そのことで話があるって言ったら?」
「えっ!?」
なぜ、矢田が、私と郁子の間に起こったことを知っているのだ。誰にも、話していないのに……。
私は、ドアのカギを開け、矢田を中に招き入れた。
部屋に入った矢田は、私の顔も見もせず、たった一つしかない椅子に腰かけた。椅子に座ってから、ベッドに腰掛けている死人のような私と対峙した。
カーテンを閉め切った部屋に沈黙だけが訪れる。しばらくの間、言葉は交わさなかった。ただ黙って、そうしていた。
どれだけ時間が経ったのであろうか。
日が落ち、夕闇迫った頃、矢田は、私と知り合ってからのことを、訥々と話し始めた。
高校時代、野球部のレギュラー争いで、ピッチャーのポジションをとられて悔しかったこと。偶然同じ女生徒を好きになり、二人で同時に告白して、矢田が振られたこと。クラスの成績の順位が、いつも私より低かったこと……。
矢田は、ネチネチと同じことを繰り返し、おまえさえいなければ、おまえさえいなければと、私を責め続けた。
なぜ、いまになって責める。 私は、こんな矢田を見たことがなかった。
矢田と私は、いつもふざけてばかりいたが、互いのことを認め合い、口には出さないが無二の親友としていままで一緒にやっきた仲のはずだ。
なのに、なぜ?
「葛西! いいことを教えてやる。おまえ郁子に振られただろう。おまえの愛しい愛しい郁子ちゃんに…………。郁子ちゃんに、男でもできたんだろうな。おまえよりも優秀な男がな」
矢田は、椅子から、立ち上がった。
「俺は、郁子の新しい男を知っているぞ」
矢田は、えへらえへら嗤いながら、私に毒づいた。
「その男は、おまえの良く知っている男だよ」
矢田の唇が、醜く歪む。
知っている男……。それはどういう意味だ。私の周りにいて、私と郁子のことを知っている男ということなのか。
私は、訝しげに矢田を見つめた。
「俺だよ、俺。俺がおまえの大事な郁子ちゃんを、おまえから奪ったんだよ」
「えっ!」
「えっじゃあないだろう。聞こえないのか。俺が奪ったと言っているだろう。おまえの婚約者をな」
矢田は、高らかに笑った。
= Ⅳに続く =