子犬模様に染められて
「もうすぐ春休みだねー」
風呂から上がったばかりの花凛は上気した顔を緩め、肇の肩にもたれかかった。完璧に乾ききっていない髪からは、爽やかなオレンジの香りが漂ってくる。可愛らしいあくびを一度挟んでから、花凛は目を閉じて微笑んだ。
「こうしてお泊り会するのも久しぶりだね。何日ぶりかな」
期末テストの結果がよく、お互いに予定の入っていない土曜日ということで今日は花凛は招いた。家に呼んだことなら何度もあったが、泊まったこととなると、かれこれクリスマスのドタバタ以来ではないだろうか。答えると、
「あ~、そうかもねー。じゃあとっても久しぶりだ」
花凛は心菜のような幼い声を響かせる。頭を撫でると、嬉しそうに息を吐いたのが分かった。
「寝るなよ?」
「流石にここでは寝ないってー。っふふ、ちゃーんと今日は、肇の横で寝るもん」
頭を撫でていたせいか肇の脇腹はガラ空きであり、そこにゆるーく顔を擦り付ける花凛。反対側の脇腹に手が回され、肇は身動きが取れなくなった。子犬がじゃれてくるようなスキンシップに肇の顔も綻ぶ。
「肇?」
しっとりとした声に斜め下を見る。瞑目している花凛は安らかな笑みを浮かべている。
「……お願い」
「なんだ?」
眠気のこもった、けれども一音一音はっきり聞き取れる声だった。こちらの返事を聞いた花凛は笑みを深め、肇の正面で膝立ちになった。
なんのお願いをする気なのか見当のつかない肇は眉を軽く寄せる。辛子色の穏やかな瞳は怪訝そうな様子をよく映していた。
「あぐら、もうちょっと広げてくれる?」
「ん、ああ。こうか?」
「そうそう――」
頷いた彼女は次の瞬間、、「――えい」と流れるような動きで床に座った。広げられたあぐらの、ひし形のようなスペースに、である。
花凛の髪が目の前にいきなり来たことに肇は驚きを隠せない。声を上げて後ろに下がると、すぐに限界を迎えた。腰がベッドの側面に当たったからだった。
「花凛……?」
恐る恐る彼女の名前を呼んでみる。
ん、と心底優しそうな声音の花凛は、肇を一瞥する。やりすぎなんじゃないか、と尋ねる前に、彼女は自ら体を後ろに倒してきた。彼女の体の小ささとか、軽さとか、そういったものは焦りのあまり肇の頭から吹っ飛んでいた。
今までにないくらい花凛と密着している。聞こえは嬉しいが、実際にやってみると生き地獄だ。込み上げてくる衝動と戦わなければならないのだから。
そのキャットファイトにも取れる精神内での戦いを、彼女は微塵も考えていないのだろう。だからそんなにもトロンとした目でこちらを振り返ってくるのだ。
「肇の背中っておっきいねー。……あ、背中じゃなくて胸元だったね」
「それを言うなら、花凛が小さすぎるんじゃないか? 華奢っていうか、肉がないっていうか」
「付くところにはちゃんと付いてるもん」
若干拗ねたような花凛の声に、そこじゃないと思うんだがなあ、と肇は心でこぼす。こちらの反応がなかったからか、花凛は眠そうな目のまま抗議してくる。
「ほんとだよ? ちゃんと、付いてるからね?」
「いや、分かった。分かったからひとまず落ち着け?」
「……もう」
まだ納得していないようだったが、花凛は先程の体勢に戻ってくれた。
しかしやはり、ジャージだからさわり心地はよくないが、彼女の肌の柔らかさはよく伝わってくる。意識しないようにすると余計に意識を向けてしまい、鼓動が早くなるのが肇自身でも分かった。
花凛は上品な笑いをこぼし、口許に手を当てる。
「やっぱりまだ慣れないよねー。肇、ドキドキしすぎてるもん」
「花凛は大丈夫なのか?」
「いや? まさかー」
平気そうな顔に見えるが、ひょっとすると眠気が勝っているからこそ、こんな行動を取れるのだろうか。
肇の右手を掴んだ花凛は、肇が抵抗しないのをいいことに、それを自分の胸元まで持ってくる。弾力のあるものが形を変えたのが分かった。
「ちゃんとドキドキしてるんだよ? もちろん、眠くなきゃこんなことできないけどさ」
言われてみると、確かに彼女の拍動も早い。が、それ以上に気になってしまうものがあるわけで。服を内側から押し上げる姿を見てはいたが、実際に触ってみるとマシュマロのように柔らかい。
「抱きしめてくれない?」
「へ?」
「その……抱きしめて、くれないかなーって」
小首を傾げて様子をうかがってくる花凛はまさに小動物だ。突拍子のないことにいちいち驚く肇はまさに小心者だ。
さて、心持ちだけは菩薩のように。実際の心内なんて荒ぶりに荒ぶっているけれど、肇はそれをひた隠し、花凛の要求に応える。
花凛の両肩に手を回し、自身の手を、花凛の胸元で絡める。すっぽりと収まってしまうくらいに花凛は小さい。
花凛は最初に「うわあ~……」という蕩けた声をあげていた。
「何これ……すっごくあったかいね~」
ここで肇は、初めてイタズラをしたい欲求に駆られた。されてばかりでは情けないという男心と、もっと花凛のいろんな姿を見たいという興味からだった。
柑橘系の匂いを振りまく髪へと顔を進め、やがて花凛の耳に到達する。数秒ほど、なんと言おうか考える。
「好きだ」
結局思いついたのは陳腐な言葉だ。けれども花凛は耳まで真っ赤にしてくれて、今までの眠気が嘘のように茹でダコになる。プシュ~、とそのうち湯気でも出てきそうだ。
「好きだ」
「わっ、分かったからっ」
恥ずかしそうに、花凛は早口で言葉を重ねてきた。肇としてはその様子が見られただけで満足だった。吐息をこぼすと、花凛が「むー」と声を出す。
「別に怒ることはないだろ」
「怒ってないもん」
「じゃあ拗ねてるな」
「拗ねてもないっ」
「そうか」
十中八九拗ねているのだが、まあ、触らぬ神に祟りなしだ。抱きしめる体勢のまま、短く会話を切った。
と、花凛が手を掴んできた。っふふ、と満足げに吐息している。
「あったかい」
「風呂上がりの花凛のほうがあったかいだろ」
「どうだろうね。女の人のほうが体温が低いらしいから、どっこいどっこいだと思うけどなー」
生理からの日数で体温が上下したりもするそうなのだが、そのあたりはどうなのだろう。疑問に思ったが、花凛に訊くと苦笑されそうなので口にしなかった。
「そういえば、肇はお風呂入んなくていいの?」
「あっ、忘れてたな……でも俺が最後だし、もうしばらく入らなくてもいいんじゃないか?」
「そんなことないと思うよー? 洗濯できないって、花凪子さんが怒りそうだから」
「そうなったら面倒だな」
花凪子からの小言は心臓に刺さりまくるので、花凪子の導火線に火がつく前に入ることにした。風通しのいい心臓になるなんてまっぴらごめんだ。
「立ちたいから、少し避けてくれないか?」
「分かった。肇が来るまでここでゆっくりしてていい?」
「ああ、いいぞ」
「うん」
ベッドに腰掛けたまま眠りそうで怖いのだが。寝るときはきっと横になるだろう。
手早く着替えなどを準備して、風呂へと階段を下りた。
はたして肇の予想通り、肇が歯磨きや風呂洗いまで済ませて戻るころには花凛が横になっていた。足がベッドから綺麗にはみ出ているから、ベッドに腰掛けた状態で後ろに倒れたのだろう。
「まったく……」
愚痴をこぼす肇に嫌悪の色はない。肩を竦め、微笑ましさから口角が上がる。
「さて、俺もそろそろ寝たいから、ベッドにちゃんと横になってもらわなきゃ、な……!」
花凛の膝の裏に手を回す。肩甲骨のあたりにも手を滑り込ませ、彼女を軽く浮かせて回転させる。枕に頭が乗るようにも配慮した。
一息ついた肇は、普段はあまり見ない寝顔を見つめる。どちらかといえば学校での様子に近い。あどけない顔だ。
しかし雰囲気は大人のもので、開いた胸元のチャックから鎖骨が覗いている。腹にかけてのラインもまた、花凛が言うところの”付くところには付いている”が曲線美を描いている。
眼福すぎて心臓に悪いというのは、アニメなどでも聞かない新ジャンルだ。この姿を守りたいと心から思える。
腹の底から込み上げてくる衝動に負けてしまう前に電気を消そう――立ち上がろうとすると、手首がちょうど掴まれた。幸せそうな花凛が掴んでいた。
「……一緒のクラスだね」
だらしなく緩む顔を見て、肇もまた頬を緩める。気がつけば深く息を吐いていた。なぜだかは分からなかった。けれど、マイナスの感情はないと断言できる。
「二年になっても三年になっても、現実だって同じクラスだろ」
少し眩しいが、電気は消さずに寝よう。少しばかりの明かりがあったほうがよく眠れると言うし、それの効果を試しているだけだ。本当はこの手を振りほどくのが忍びなかっただけだ。
「おやすみな、花凛」
首元に優しくキスをした。あのときのお返しをするかのように、ありがとうと礼を言うかのように、普段言えない分の愛情を込めるかのように、優しく。
映画館で彼女が話しかけてくれなければこの関係はなかったし、守りたいと思う人ができたからこそ頑張れる。彼女にその自覚はないだろうけれど、花凛が手を引っ張ってくれるから肇もついていけるのだ。
前に進んでいるせいで折れそうになったときはしっかり支えるし、寄り添うだろう。こうして『人のために』と考えられるようにしてくれたのは――。
花凛と歩く道は、途切れない。
読んでいただきありがとうございました。これにて拙作『子犬模様に染められて』は完結です。これからの投稿などについては活動報告にて書かせていただきます。




