留意するように!
一足先に肇の家へとやってきた花凛は、箱の入った袋をぶら下げていた。おそらくこれがケーキなのだろう。
心菜と一緒に作った様子と完成したものが写真で昨日送られてきたので、どんなケーキなのかは一応知っている。
恭しく頭を下げた彼女をリビングへと招き入れて、袋から取り出した箱を冷蔵庫に入れる。昨日のうちにスペースを作っておいて正解だった。
「今日は花凪子さんいないの?」
リビングとダイニングを見回した花凛が呟いた。
「今日は一日中空けてもらったんだ。父さんと朝食を食べてから、どこかに買い物に行くって言ってた」
「夫婦水入らずの買い物なんだね」
「いや、どうだろうな。父さんは今日も仕事だろうから、一人で何か買いに行くんじゃないか? 遠くのスーパーに行ってみたいっても言ってたし」
花凛は苦そうな顔で頷いていた。まるで、どうフォローすればいいのか分からないと語る顔だった。
フォローも何もこれが肇たちにとっての普通なのだが、育った家庭によってはこの家族関係を異質に思う人もいるのだろう。それは肇も理解していた。
「これが普通だから、気にするなよ」
「そう?」
「ああ。とりあえずそっちのほうに座っててくれ。今飲み物準備するから」
カーペットが敷いてあって、ソファが近くにある、花凪子がいつもテレビを見ている場所に彼女を誘導した。そこの机なら四人が同時に勉強できる十分な大きさがある。
そこに横座りした彼女は、羽織っていた甘いカーディガンを脱いだ。スタイルのよさがあらわれる中着だった。
「心菜は紅茶飲めるのか?」
「飲めないよー。あと、緑茶もダメだって本人が言ってた気がする」
「なんとなく予想はついてたな」
幸一が紅茶を飲めないことは知っていたので、麦茶のペットボトルをあらかじめ買っておいた。緑茶は飲めない人が多いと聞くので買わなくて正解だった。二人には麦茶を飲んでもらえればいいだろう。
冷蔵庫を開けて、例のペットボトルがあることを確認して数秒、花凛を見る。
「まさか、心菜、麦茶まで飲めないっては言わないよな?」
「っふふ、流石にそれはないよ」
「だよな。少し安心した」
ティーバッグにカップと、お湯の入ったポットを持って、花凛の隣に腰を下ろす。お湯を入れようとすると、それくらいは私がやるよと花凛が立ち上がった。
ロールアップしたデニムパンツの隙間から、クマのスニーカーソックスと白い足が覗く。お湯を入れている最中に、結んでいない髪がお湯に入らないようにと格闘する姿が可愛らしかった。
「はいどうぞ」
「ありがとな」
彼女からソーサーを受け取って机に置く。視界の端で、よいしょと座った彼女の丘が揺れていた。
「女の人がさ、よく、『私、男の人の視線には敏感なんです』って言うじゃん。あれどう思う?」
「どう思うって?」
「確率的に変だと思わない? 男の人が自分を見ているのに気付く確率なんだから、百パーセントに決まってるんだもん。だって、男の人が自分を見ているのに気付けなければそれは分母に含まれないわけだし」
彼女の言っていることが分からず無言が続いた。彼女が紅茶を一口含んだ。
「じゃあちょっと私目線に立って考えてみてよ」
「花凛目線?」
「そう。それでちょっと例え話するから」
肇が花凛の胸を見ているとして、花凛はそれに気付いた。気付く確率は百パーセント。しかし、肇が花凛の胸を見ていたが、花凛はそれに気付けなかった。これでも、花凛目線では気づく確率が百パーセントのまま不動なのだという。
なぜなら、花凛がそもそも気付いていないのだから。
分かったような分からないような、肇の心の霧は晴れなかった。おそらく今の自分は眉間にシワを寄せていることだろうと思う。
そもそもなぜこの話をしたのか花凛に問うた。彼女は優雅に紅茶を飲み、そしてカップを置いた。”カタ”、もしかすると”コト”とも取れる神秘的な金属音が耳に届いた。
「肇が私の胸を見てたから、胸に関係する話をしてみようと思っただけだよ」
抑揚がなく感情の分からない声色だった。怒っていることはなさそうだが、かといって喜んでいるわけでもなさそうだ。恐る恐る彼女を見る。
「気をつけたほうがいいか?」
「公共の場だったら、って感じかな。だからといって、家の中でジロジロ見られるのもアレだけど」
彼女が赤らめた顔をそらしたせいだろうか、肇のほうも恥ずかしくなって空中に視線を彷徨わせる。気まずさを紛らわすために紅茶を飲む。温かくも渋い味わいが口いっぱいに広がった。
「こういう話はやめとくか」
「うん。そういう関係になるのはまだ早いと思う」
「高一だもんな」
「高一だからね」
言い訳がましく何度か『高一』と言い合ったところで、インターホンが鳴る。ちょうどよく『幸一』が来たなあと笑えるところを、今はなぜだか笑えなかった。
結局玄関の戸を開けたのは、インターホンが鳴ってから一分以上経過してからだった。開けて早々半目が刺さる。
「お前ら何してたんだよ」
「……いや、何もしてねえよ」
「だからといって待たせすぎだろ。いつものお前ならすぐ出るところを」
「紅茶のティーバッグをなんだかんだしてたんだよ。とにかく入れ、寒いだろ?」
待たせたのはどっちだよというツッコミはさておき、二人を中に入れる。二人は律儀にお邪魔しますと頭を下げた。
「今日は母さんも父さんも出払ってるから、気楽にしてくれ」
「はーいっ」
心菜は甘ったるい声で返事をして、花凛のもとへ向かっていく。一方で、幸一は何も言わず目を丸くしていた。
「意外だな。リビングで過ごすことになるとは思わなかった」
「俺の母さんも、まあ、二組のカップルがお邪魔してる空間にいるのは耐えられなかったんじゃないか? そのあたりは普通の感性であると願いたいんだが」
どうだろうなと肩を竦めた幸一も心菜の近くに歩いていった。
ひとまず飲み物を用意すると、幸一が待ちきれない様子で語った。
「早速ケーキ食おうぜ、ケーキ!」
「待て。お前、今日の目的分かって言ってるのか?」
すっと表情の抜け落ちた幸一が答えて曰く、バレンタイン会。勉強だからと息の合ったツッコミを三方向から受ける。
「心菜まで言うのかよ……ここに来るまではバレンタインの話ばっかしてたのに」
「そ、それはここに来るまでの話でしょっ!? わた、私はここに来る理由をちゃんと知ってたもーん」
「若干どもってるのはなんでだろうなあ?」
「そ、それはっ……」
この二人の茶番に付き合っていると勉強が進まない。花凛はスルーを決め込むことにしたのか、それとも肇が止めると思っているのか、自身の勉強の準備を進めている。
止めるのも疲れそうだったので花凛の隣でノートを広げると、幸一は納得していなそうな顔つきだったけれど、二人ともノートを取り出した。
○
二時間は勉強を頑張っていた。途中から幸一が飽き始め、やがてしょうもないイタズラを肇と心菜にし始めたので、勉強会は休止となった。昼ごはんの準備を女子二人が進めてくれている間に、男子二人はケーキを切り分ける。
花凪子にも渡したいと花凛が言ったため、五等分に分ける必要があった。幸一は包丁を持って片目を瞑る。
「九十度だったら簡単なんだがな……」
「七十二度となると、角度が分かっていても失敗しそうだな」
「本当にな」
そう言いつつも、幸一は勘か何かで手際よく切っていった。意外なことに均等である。幸一のドヤ顔がウザかったのであえて褒めない。
「こういうのは悩んだら負けだよなっ」
「……そうだな」
悔しさが顔から滲み出ていたのか、おやおやあ? とニヤついた幸一が肇の顔を覗き込む。心底ウザイ。
「ひょっとして出る幕なしで悔しいのかなー?」
「……謙虚だったら正直に褒めれるんだがな」
豪快な笑い声を響かせた幸一は肇を見据えて、今度は爽やかに笑う。
「謙虚な俺とか気持ち悪いだろー?」
「まあな」
「うわ即答かよ……まあいいや。褒められてるって思っとくわ」
「そうだな。褒められてるって勘違いしておけ」
「なんで棘のある言い方してくるかなこいつは……」
どちらともなく呆れたように笑った。
肇が肩を竦めて手際を褒めると、幸一も肩を竦めて礼を言う。
「さ、あとはあーんだな」
リビングに立つ二人を見て言った幸一。それを見て、肇は、午後からのとてつもない心労を直感したのだった。




