ダブルデート
いつも以上の気だるさを身に纏い、マスクを付けている肇は階段をのぼった。自身の教室に入るためには廊下を端まで歩かなければならず、駄弁っている生徒とすれ違うことが多い。その生徒たちから向けられる視線が今までと違っていることは、体調の優れない肇でもすぐに分かった。
横目で見てくるのだ。あれが噂の日比谷肇、とでもいったところか。見るならバレないように見てもらいたいのだが、まさか注意するわけにもいかず。むず痒いまま廊下を歩いた。
教室の戸を開ける。温かくも乾燥した空気とクラスメートの視線が肇を襲った。
担任が来たか? いや、なんだ違うじゃないか――そんな一連の空気ではなかった。明らかに、肇が来たぞというものであった。戸を閉める手に人知れず力を入れる。
行き先を読んだのか、すでに肇の机の脇に控えている幸一。ニッと笑われても応じることはできなかった。
リュックを机に置くのに合わせて幸一が話しかけてくる。
「体調はよくなったのか?」
「微妙なところだ。ただバイトに行っても倒れなかったから、ある程度は回復してるだろ」
「目安適当かよ」
日常生活を送れるなら体調は良好であろう。それを伝えても幸一は納得しなかった。まあいいと独り言が聞こえる。
そういえば、ノートの写真を送ってもらったことに対して直接礼を言っていなかった。
「ノート、助かった。ありがとな」
「別にいいって。それとも何か奢ってくれるのか?」
「食べたいものでもあるのか?」
現金だと思いながらそう返すと、幸一は考える素振りを見せ、やっぱいいわと言った。怪訝な目で見てしまった肇は悪くないだろう。
「てっきり弁当でもなんでも注文されると思ったんだが」
「あ? ……ああ、まあ、日頃の分でチャラだろ。病人からたかったってこっちが嫌になるだけだろうし」
「……不気味なほどにちゃんとした人間だな」
「言いすぎだろっ!? 普段の俺はそんなに酷いか!?」
「酷くはない」
「その言い方だとよくもねえじゃねえか!」
笑いながら言葉を濁し、頼りにしてると伝えると、幸一は気恥ずかしそうに窓を見やって頭を掻いた。
リュックを置いて席に戻る頃には、すっかり教室の空気にも慣れてしまった。肇のワークを読んでいた幸一がそれを閉じる。小テスト対策はもういいらしい。
「金曜日は看病してもらったのか?」
「……ん?」
「いやだから、金曜日は看病してもらったのかって。心菜がメッセージで言ってきたぞ。花凛が楽しそうに買い物してるってな」
「病人宛の消耗品を買うときに嬉しいも何もあるかよ。たまたまだったんじゃないのか?」
「いやそれはねえだろ。たまたま楽しいって怖えし。送られてきた画像あるから、それ送るわ」
「送る前に見せてくれよ」
わざわざ二人揃ってケータイを開く。何枚か送られてきた画像はどれも、花凛が商品を選んでいる様子だった。かなり真剣に選んでいる。
ところで、花凛は勝手に撮られてもいいのだろうか。
「写真は許可とって撮影したとよ。ちなみに送るのも許可取ってるらしいな」
「……その報告いるか?」
「お前のことだから許可取ったのかとか気にするだろ? 分かってるぞ」
「はいはい。で、肝心の楽しそうってところが引っかかるな」
「まあ全く楽しそうには見えないよな。むしろ悩んでるって言ったほうが正確な気がする」
どうやら幸一も同意見らしい。その時の会話の様子も送られているらしいので、そちらを聞かせてもらうことにした。
リュックまで行こうと立ち上がったときにはたと気付いた。疑問顔の幸一を見る。
「そういえば俺イヤホン持ってきてなかった」
「じゃあ俺が要約して伝えるわ」
「頼む。……変なふうに吹き替えしないでくれよ?」
「コメディーショーみたいに大袈裟にやってやろうか? セリフとかも大幅に変えて」
「それを世間では改悪っていうんだぞ」
「悪化すること前提なのかよ」
会話を聞いた幸一曰く、花凛は肇のことを思ってものすごく真剣に選んでいたらしい。また、理系っぽい考察や普段の様子から見て取れた好みなどを嬉々として話していたと。
幸一からの報告なのにも拘らず、顔が熱くなるのが分かった。幸一は目を細めてしみじみと言ってくる。
「お前も愛されてるよなあ」
頬が緩まないように力を入れつつ顔の温度を気にしているような状態では、とても反論できなかった。
「逆にお前、花凛の好み知ってるのか?」
「どうだろうな。なんとなくではイメージできるが」
経験として花凛は、アニメと可愛いものが好きだ。それを教室内で言えるかと問われれば、花凛の積み上げてきたキャラクターの都合上言えない。他人が知らないものを知っている優越感がある。
「お前もちゃんと知っとけよ? 持ちつ持たれつが崩れた瞬間に恋愛は終わるって言うから」
「難しいこと言うな……」
「言ってねえだろ」
先輩からのありがたーいお言葉は聞いておくべきだろう。具体的なことは何一つ言われなかったけれど。
担任が扉を開けた瞬間に颯爽と自席へ戻る坊主を目で追った。
「バイトのシフトってあるか?」
四人で昼食をとっているとき、唐突に幸一は肇を見た。答える前に、肇は理由を尋ねた。
「何に使うんだ?」
「ちょっとな。悪いことには使わねえから、貸してもらいたい」
全く理由になっていない。それでも、悪いことに使わないと言うなら信じていいだろう。
クリアファイルから取り出して幸一に手渡す。心菜も一緒になってシフトを見始めた。
肇は背筋を伸ばしたまま箸をすすめる花凛に顔を向ける。
「何か知ってるか?」
「ん? ああ、二人が肇のバイトを気にしてること?」
「それだ。今まで訊かれたことないからな」
考える素振りを少しだけ見せた花凛は、呼吸をするように言った。
「ダブルデートとかじゃない?」
彼女の顔があまりにも涼しげだったので、肇は最初、自分の耳を疑った。花凛と見つめ合う謎の時間が生まれる。
「ダブル、デート……?」
「うん。それ以外に肇のシフト気にする理由が分からなくてさ。私も朝に訊かれたし、ってことは私と肇の予定が絡みそうじゃん?」
「そうか……ダブルデートか……」
「そんな未知の単語みたいに連呼しなくても。聞いたことがないわけではないでしょ?」
「ああ、もちろん。聞いたことがあるにはあるぞ。映画とか昼ドラとかでな」
リビングで昼ドラを見る花凪子のメンタルは強いと思う。聞こえてはいけない単語が聞こえたときのあの空気を物ともしないのだ。
幸一と心菜が未だに悩んでいるようだったので、花凛は会話を続けた。
「あんまりアニメでは見ない場面だよね」
「花凛でさえ見たことないのか?」
「いや、あるんだけど……ちゃんとしたダブルデートじゃないというか、ね? 主従関係からしょうがなく付き添ってる場合とか、ただの買い物とか、恋人のふりをしてとか。ダブルデートを目的としたアニメはあんまり見ないかなあ」
箸を置いて考えたようだが、結局見つからなかったらしい。花凛は難しい顔をしたまま箸を手にとった。
「来週の日曜でどうだ?」
それまで黙っていた幸一がおもむろに口を開き、それから肇と花凛に目をやった。
「俺は大丈夫だな」
「私も何もないよ」
「じゃあ決まりだな」
ニヤリと笑った幸一につられて、三人とも表情を崩す。それからは普通の昼休みだったのだけれど、肇には引っかかる部分が一つだけあった。
帰りのホームルームが終わってすぐに幸一の机に行き、尋ねる。
「なあ、デート……っていうか、ダブルデートとかもそうなんだが、あんなに簡単に決まるものなのか?」
何いってんだこいつ、と言わんばかりに不思議そうに眉を寄せた幸一は、
「そりゃだって、予定が合う日を探して、その日に約束を入れるだけだろ? そう難しいことでもないだろ」
そう述べた。幸一の言ってることは正しいと分かるのだが、やはり釈然としない。なぜだろう。
教室に人がいなくなるまで考えて出した結論は、
「幸一に論破されたからか……?」
「お前今すっげえ失礼なこと言ったからな?」
幸一はそう言い残して教室を出たのだった。リュックの中を確認してから、肇もまた教室を出た。




