ゆっくり休んで
もとより体が冷えていたことは分かっていた。花凛を駅まで送ったあとに急いでバイトに向かった結果、汗をかいてしまったからだ。
教室は暖房が効いているので汗が冷えることを心配しなくてもいい。しかし今は冬。かいた汗が冷えて体の熱を奪った。
その日の夜に、なんか頭が痛いなと感じていた時点で肇は菌にやられていたのだろう。朝に熱を測ってみると、病人のそれだった。そしてそれは夕方五時を回っても下がっていなかった。まだ薬の効果はあらわれていない。
浅い意識の中、暖房の延長を押すために肇は立ち上がる。ふらふら歩いて、暖房機器の前で腰を下ろした。勢い余って尻餅をついてしまった。
延長を押す前にため息。
「こんなときに花凛なら」
「部屋入るよー? 安静に――ってこんなとこで何してたの?」
「花凛か。こんなときに花凛なら、重力に負けそうな足腰って言うんじゃないか?」
「…………ん? えっ、何?」
ノックと同時に入ってきた花凛は下を見て固まった。尻餅をついて困り顔をしている肇が原因だったのかもしれないし、あるいは意味の取れない言葉を投げられたことが原因かもしれない。とにかく、花凛はビー玉よりも大きな瞳を惜しげもなく開いて固まっていた。
そろそろ温風が当たりすぎてつらくなってきたので、ピッとボタンを押した肇は布団に腰掛け、マスクを付けた。と、心配そうに花凛が見ていた。
「足取り不安定だね。まだ熱下がってないの?」
「おそらくな。病院から戻って測ったが、七度後半だった。症状次第だと明日も休むことになりそうだ」
「……明日って土曜日だよね?」
「そうなのか?」
「見てみないと分かんない」
スクールバッグからケータイを取り出した花凛。やはり明日は土曜日らしい。カレンダーはバイトの有無しか見ていないので、もう少し詳しく見ようと思った。
「ゆっくり休めそうだな」
「勉強が遅れる心配ないから?」
「それが大きいな。メンタル面でなんの負担もないし、土曜日はバイトが入ってないし」
明後日のバイトまでには治るだろう。風邪は治りかけが移りやすいと言うので、そこは経過次第だが。
別日の予定を考えたからか視野が広くなって、ふと思い出したことがあった。
「幸一からノート見せてもらわなきゃいけないな」
「……私を見て言うの?」
「あ、悪い」
「いや、いいんだけどさ? そこは私を頼ってくれるんじゃないかなーって少しだけ思ってたんだ」
「クラスが違うから無理だな。勉強の進度も違えば、教えてる先生だって違うだろ? 幸一から見せてもらうのが一番いい」
『ん』と『む』の中間くらいの声で唸る花凛。おそらく彼女も分かっているから反論できないのだろう。
「幸一くんってちゃんとノート取ってるの?」
あくまで純粋な疑問のような声だったが、ふてくされた感じが隠しきれていなかった。答えは残念ながら、彼女の望むものではないだろう。
幸一は賑やかしいが、真面目なのである。色々な人たちから頼られ、イベントごとは学級委員と合同で進めている。クラスに馴染めない肇がハブられない理由の大きなところは、そんな幸一と親しいからだと肇は感じていた。肇が休んだとなればノートを写されることを見越してまとめるだろうし、基本的にナイスガイなのだ。
「悪い、関係ないところまで話してたな。熱に浮かされたか」
「そんなことないよ? 幸一のことよく見てるなーって思った」
「そんなまじまじと見てるわけじゃねえって。近くにいることが多いから、あいつの立ち位置が分かるんだよ」
ふーんと頷いた花凛は悔しそうな表情だった。四年ほどの付き合いだから、こればかりは分かってくるのだ。
長く付き合えば花凛のことも分かるようになるだろう。それを伝えると、花凛は顔を綻ばせながら「そうなのかな」と首を捻った。
「そういえば花凛はなんで俺が休みなこと知ってるんだ? 誰にも教えてないはずなんだが」
「昼休みにお弁当食べに行ったもん、それは分かるって。幸一くんも、肇は体調不良で休みだって言ってたし」
本当に伝えた覚えはないのだが。欠席の連絡をした担任からでも聞いたのだろうか。
「とりあえずお見舞いに行こうかなってゼリーとか買って、インフルエンザだったらどうしようかなって思いながら来た」
「俺がインフルエンザの場合は考えてなかったのかよ」
「その場で考えてもなんとかなりそうじゃん。だからあんまり考えないで来た」
花凛は肩を竦めて笑った。嬉しかったが、それはいいのかと思う部分も多少あった。
「風邪だったらちょっと話そうかなって思ってたんだよ? あんまりうつらないだろうし」
「そうか?」
「ううん、適当に言ったんだけどね。でもほら、何かの病気にかかったときって人が恋しくなったりするし、もし肇がそう思ってたんだとしたら一緒に居たいじゃん?」
「ん、あー……」
彼女が言うと説得力があった。人が恋しかったわけではないが、話すことに集中することで熱やだるさが気にならないというのはあるのかもしれない。肇が上を向いて考えている間に、話題は次にいっていた。
「お昼休みにA組に行ったときにね、幸一が、肇は花凛に熱があって休んだって吹聴してやるーって言ってたよ」
「花凛はそれ止めたよな?」
「いや? 私は全然構わないし、寧ろ幸一が言ってくれたほうが穏便に進みそうだからさ。あと、肇は外堀を埋めてからじゃないと動かなそうだし、そう言って回るのが効果的なんじゃないかって思ったんだ」
「あー……合ってるんだが、そうだなあ」
もはや完全に行動を読まれているようで、退路が見当たらない。『肇は花凛に熱があって休んだって吹聴してやる』と言った時点で吹聴も何もないのだ。それとなくクラスメートに伝えるどころか、どストレートに意味深な発言をしやがっている。
肇の手はこめかみに伸びていた。
「頭痛いの?」
「ああ、なんだか風邪の痛みとは違う頭の痛みがあるな」
「熱冷ましのシート貼る? 買ってきてるけど」
「いや、あー……せっかくだし貼るか。買ってきてもらったんだしな」
嬉しそうに頷いた花凛は部屋から出ていった。足音がやけに軽かった。
彼女が戻ってくるまでの間に時間を確認すると、夕飯ができていそうな時間になっていた。さて、花凪子はお粥を用意しているだろうか。少し怖い。
「熱冷まし持ってきたよー。せっかくだし貼ってあげよっか?」
嬉々とした顔で尋ねてくるので、しばし考えた肇は貼ってもらうことにした。首に貼るのがいいんだってね、と豆知識を披露しながら彼女はシートを一枚取り出す。
「上向いてもらっていい?」
膝立ちの花凛の指示通りに顔を上げる。少し冷たいからねー、気をつけてねー、とあやすように言葉を掛けられる。冷たく粘性のあるシートが首元を襲った。次いで、優しく撫でるような手の動きが伝わってきた。
横目に見えた花凛は至って真剣な顔つきだ。表情と指の動きがギャップがあった。
「首って、頸動脈っていう太い血管が通ってるんだよね。だからそこを冷やすといいっていう話を聞いたよ」
「てっきり額だと思ってた」
「それはパッケージがそうだからじゃない? 脇の下とかもいいらしいよ」
そのうちに手が離れた。軽く首を動かしても取れる気配はない。礼を言うと花凛は優しく笑った。
もうしばらく休んでで、と言い残して部屋を出ていった花凛が肇を呼ぶ頃には容態も落ち着いていた。彼女が作ってくれたらしいお粥は、体の内側を元気づけてくれるような梅干しの酸っぱさがあった。




