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励まされ慣れてる

 曇っている空を見上げ、学校の玄関前で肇はため息をついた。

 冷や汗のせいでワイシャツが濡れている。昼休みから放課にかけて、真夏の日を疑われるくらいには汗をかいただろう。


 玄関から出ていく人に視線を向けられることはないものの、自意識過剰になっているせいか、妙に怯えてしまっている。服の胸元を掴んで軽く風を起こす。生温かく、汗のにおいが強い風で余計に気分が悪くなった。


「帰ったら風邪ひきそうだな……」


 後頭部に手を回して掻くと、自然と吐息が漏れた。


「冷や汗が風邪の原因とか……笑えないな」

「もしかしたらインフルエンザと合わさって最悪な症状になるかもね」

「……花凛か」


 右後ろから聞こえた声に振り向くと、笑みを浮かべる花凛がいた。隣まで歩いてきた彼女はそこで足を止める。


「それで、風邪がどうのって聞こえたんだけど、今の時期に風邪ひくことってあり得るの?」

「あるんじゃないか? 風邪に時期はないだろうし」

「そう言われるとそうだね。じゃああれなのかな、インフルエンザだと思って病院に行ったら風邪って診断されて落ち込むってこともあるのかな」

「あるだろうな」

「いいのか悪いのか分かんないね」


 出席停止だと思ってたものが欠席扱いになるのだし、そうなのかもしれない。


「学校に行かなくてもいい! って思ってたのに次の日から学校に行かなくちゃいけないから、しんどいよねー」

「ん? ああ、そっちか」


 予想と違っていた。何が違うの、と首を傾げた花凛に肇は思っていたことを伝えると、彼女は少し乾いた笑顔で、真面目だね、と言った。


「実際、花凛も俺と同じように考えてると思ってたんだが。欠席は進学にも就職にも響くだろ?」

「先生たちはそうやって言うよねー。でもほら、クラスメートの意見としては、私が言ったことで合ってるでしょ? 学校って一般的に面倒なものだし」


 花凛は周りに合わせた意見を言っただけらしい。彼女は学校を休みたくないらしく、確かに毎日、学校内で彼女を見つける。

 おそらくだが、花凛は肇と同じく、勉強に遅れたくないから休まないのだろう。彼女と過ごしていて、どれだけ真面目かは分かっているつもりだ。


「そういえばさ、昨日、私が話しかけたのに、肇はあんまり話したそうじゃなかったじゃん」


 会話が途切れた沈黙の後、彼女は不意に口を開いた。花凛は曇った空をじっと見つめている。

 肇は彼女の目を見て答えた。


「ああ。悪かった」

「ん? あっ、いや」


 虚を突かれた顔で考え込んだ花凛。意を決したように頷きながら、いや、ともう一度否定した。


「その……謝ってもらいたかったんじゃなくて、肇が私と話さなかったのがどうしてなのか気になっただけで。肇に理由があるなら、私は、今日みたいに話さなくてもいいと思うし」

「俺が昨日話さなかった理由を教えてもらいたいってことか?」

「うん、そうなるね」


 花凛と話してもいいか疑問に思っていたからなのだが、これを言うと彼女はどう思うのだろう。嫌われることはないだろうが、いい印象を持たれないこともまた事実だ。

 好きだからこそ嫌われたくないという心理が働いているのか、理由が分かっていても肇は二の足を踏んだ。


「肇が好きって言ってくれた日のこと、覚えてる?」


 そう尋ねる花凛の顔は赤かった。辛子色の瞳をまっすぐこちらに向けてくる彼女はけれども躊躇わなかった。そこが自分と違っていて、肇が答えることを更に足踏みさせた。


「あの日、学校でも話していいんだよねって私訊いたはずなんだよね。覚えてないかな?」


 思い返してもそう言われた記憶はない。あの日は、花凛に告白して、了承されて抱きつかれて更にテンションが上がって、気付けば母親の足音が迫っていて焦っただけだ。

 三回リピートしたが、学校でも話していいんだよねなんて訊かれていない。花凛に伝えると、彼女は眉尻を下げて頷いた。


「んー……私の記憶違いだったのかな。もしかするとそうかもね。付き合えることが嬉しくてちょっと記憶がおかしくなったとか」

「記憶がおかしくなることはないと思うんだが」

「夢で見たのかもしれないし」

「夢か……」


 夢には人の欲望があらわれるというけれど、それが本当なら、花凛は――。そう喜ぶのも束の間、肇は気付いたことがあって現実に戻った。

 どの場面で彼女が言ったのか分かっていないのだ。訊くと彼女はすぐに答えた。


「私が肇に抱きついてるときかな。感情が爆発したあまり今まで思ってたことを一気に言っちゃったから。私の記憶が正しいのなら、その場面で間違いないよ」

「あっ」

「思い出したの!?」

「いや……」

「あっえっ? 違うんだ」

「ああ、悪い」


 どうやら肇が聞き逃したらしい。花凪子の足音が聞こえたせいで焦ってしまい、花凛の質問に適当に答えた。この推理が妥当だ。

 花凛にそれを話して頭を下げた。すると彼女はなぜか首を捻った。


「花凪子さんって肇の部屋に来たの? 私はそこを覚えてないんだけど」

「……何?」

「あれ?」


 片や眉間にシワを寄せ、片やキョトンとした顔で。五秒は互いを見つめていた。花凛がくしゃっと笑ったのにつられて肇も笑みを浮かべた。


「もう、あれだねっ。この話は終わりにしよっか! お互いに記憶が食い違ってるんだもん、どっちが正しいのか全く分かんないや」

「そうだな。もうやめとこう」


 一瞬だけ花凪子に真相を問うことも考えたが、やめた。今回の真実は闇のままでいいだろう。

 ひとしきり笑って、花凛は乱れた髪を耳にかけながら、


「今日からは話してもいいってことだよね?」

「ああ。不自然にならないように心がけはするが、たぶん、不自然になるだろうな」

「それは私も同じだよ。学校だと素を出してないから、明るい感じで肇と話すのには練習がいるだろうし」

「いっそ学校でも物静かな感じでいったらどうだ? 座り方とか仕草とか、洗練されてて俺は好きなんだが」

「洗練は言いすぎだよ。目立たないように、静かに、って動いてたらいつの間にかそういう動きになってただけだし」


 言葉では否定する彼女も、表情までは作れなかったらしい。でも嬉しいね、とやがて言葉でも認めた。


 肇は、昨日花凛と話さなかった理由を伝えていないことを思い出した。もともと肇は、周囲にバレることを恐れて会話を避けたのだ。バレてもいいという度胸があれば、たとえ花凛の確認を聞いていなくても会話できたことだろう。

 はっとした顔をしたのか、花凛は疑問符を浮かべる。


「昨日、花凛と話さなかったこと。もう一つ理由があったんだ」

「そうなの?」


 真剣な感じで話してしまった。合わせてくれたのか、花凛も顔を引き締める。ここで楽しげな会話の流れを止めてしまうあたり、やはり会話慣れしていない。その反省が空気を重くした。


「実は、花凛と話したら関係がバレるかもしれないって思ったら話せなくて。俺、ただの雑談も避けてただろ?」

「言われてみればー……そうなのかな? ていうか私との関係がバレるのは嫌だったの?」

「嫌じゃないんだが、できれば、避けたかったな。花凛は人気者だから、そんな人と俺が付き合うのはおかしいって思う人もいるだろう?」


 似合っていると幸一には評されたが、それが万人の評価ではない。寧ろ少数派の評価であると肇は認識していた。

 肇を見上げる花凛は優しく目を細めた。


「肇が誰と付き合っても、私が誰と付き合っても、そこは個人の自由なんだから。堂々としていてもいいと思うよ? 論理的な文句なんて言えるわけないし。ただの僻み(ひがみ)か、もしくはクレーム、イチャモンかなあ」

「……そうか?」

「そうそう。それにさ、私たちはお似合いのカップルですよって見せつけて周囲を納得させるのも面白そうじゃない?」


 いたずらに笑った彼女の目が本気だったので。肇は苦い笑みを浮かべていた。冷や汗のかきすぎで脱水症状というのが現実に起こってしまうかもしれない。

 まだ恐怖のほうが勝っているけれど、肇はそれが改善されることを願う。


「ありがとな、色々」

「気にすることじゃないよ。励まされ慣れてるから、人を励ますときの語彙は豊富なつもりだし」


 自信満々に励まされ慣れてると言える花凛が羨ましかった。そろそろ帰ろうかと歩き出した彼女の手を、肇はそっと握った。

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