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夜は静かにするべし

 泣き止んだ花凛は何一つ状況を理解していなかった。花凪子が来たことすら知らない有り様なのだから、この問題は肇の力でどうにかするしかない。昼食が近いことを利用して早めに解決する算段だった。


 肇の隣に体育座りで座っている花凛は未だに目を赤く腫らしていて、それを花凪子に見られたくないと言って昼食の時間を伸ばしている。もう知られているはずだが、肇はあえてそれを言わなかった。


「目、こするのはよくないぞ」

「ああ、そうだったね。癖なのかな」


 花凛は服の袖で掬うように涙を拭く。拭き終わったあと、花凛が突然笑ったので。


「どうした?」

「いいや、前にも言われたなーって。……本当に肇の前で泣いてばっかりだね、私」

「まあいいだろ」

「肇が冷たい~! 私また泣かされる~っ」

「そういう泣くじゃないと思うんだがな……」


 かわいこぶった声を作って、花凛は両手を胸前まで持ち上げる。それにツッコミをいれると、今度はキョトンとした顔になって数秒。花凛が不敵に笑った。


「おや、では肇くんは、私を泣かせたことがないって言ってるのかな?」

「……実際はそうだと思ってるぞ? 嫌がることとかしてたか?」


 していたのならすぐにでも謝る。これから長い付き合いになる上で、ちょっとしたストレスの軽減は大事だろう。けれども彼女はキョトンとしたまま、呼吸をするように、


「優しい言葉を掛けて泣かせた。安心させてくれて泣かせた。好きって言って泣かせた」

「……それって、俺が泣かせたんじゃなくて、花凛が泣いたんじゃないのか……?」

「そうだけど、ほら、肇が私を安心させすぎたから私が泣いたわけじゃん? だから、肇が私を泣かせてるじゃん」

「ん?」

「要するに安心させすぎないでねってことかな」


 これはおそらくボケているのだろう。時空を歪めるような理論すぎて途中まで理解できなかった肇だが、ツッコめばいいことに気付いた。


「だいぶパワーワードだな」


 そう言うと、花凛は満足そうに笑った。


「さて、漫才も済んだしお昼ごはんに行こっか」

「これは漫才なのか?」

「漫才じゃないの? えっ、コントではなくない? 設定とか小道具を用意したわけじゃないし、ただお話ししてただけでしょ?」


 満月の瞳を見つめる。おそらく彼女は、肇に理解できない内容を真剣に話している。

 天然な人が場違いなことを言ったときのような独特な沈黙が走った。それを破ったのは肇の腹の虫だった。


「……悪い」

「いや。私もお腹空いちゃったし」


 立ち上がった花凛に合わせて肇も立ち上がる。腹をさすっているうちに花凛は部屋から出ていっていた。

 何も知らないというのは、本当に強い。誤解を解くという、ともすれば魔王よりも厄介なボスに挑まなければならない肇の胸中は、嬉しさよりも苦さのほうが勝っていた。


 さて、いざリビングに入ってみると、そこには日常が広がっていた。入る前の数十秒の祈りはなんだったのだろうと肇は心内でため息をつく。

 片耳のイヤホンを外した花凪子がこちらを怪訝そうに見つめる。


「入ってきていきなりため息とはどういうことかしら」

「ちょっとな」

「……肇ってため息してました? 立ってただけじゃないですか?」


 椅子に進めていた足を花凛の言葉で止める。カマをかけられたのか。花凪子を見る。何食わぬ顔でイヤホンを耳に戻していた。


 今度は盛大にため息をついてしまった。ここで花凪子のペースになるのはよくないのだ。相手の誤解を解くためには、まず自分のペースで話さなければならない。最初から鬼門である。

 花凛が、肇の分の箸と器をテーブルに並べた。「食べよ?」という声で肇は我に返った。彼女の隣の椅子に腰掛ける。


「今日は焼きそばなんだな」

「みたいだね。野菜たっぷりだよ」


 花凪子が両耳のイヤホンを取ったのを合図に挨拶して、昼食をとった。花凪子のセリフ一言一句に気を配ったところ、少なからず、昼食中は変なことを言っていなかった。


 三人分の食器を持って花凪子が流しへ向かう。鈍い音がしてから花凪子は振り返った。


「片付けは私がやっておくから、二人は何か楽しんでいていいわよ。……せっかくの休日なんだしね」

「ん、ああ。ありがとう」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」


 花凪子の言葉には妙な含みがあったのだが、肇は流して対応した。きづいてないであろう花凛も一礼するのみだった。

 花凪子がテレビ近くのテーブルに目を向ける。


「そこに二つ紙があるから、どっちかずつもらいなさい」

「二つの紙?」

「そう。半分に折り畳まれてるB4サイズの紙よ。奥のテーブルにあるでしょう?」


 二人を揃って振り向くと、言葉通りにに紙が二枚置かれている。花凪子に視線を戻した花凛。


「確かにありますけど、何に使うんですか?」

「新年のおみくじよ。ただ引くだけでいいわ。肇が初詣に行っていないから、ここでやろうと思って。花凛ちゃんは行ったの?」

「私も行ってないですね。ずっと家にいたので」

「ならちょうどいいわ。運試しよ」


 神様の加護も何もない、いわばそれっぽいことが書かれた紙なのだが。乗り気な二人に水を差すのもどうかと思ったので肇は黙っていた。花凪子が微笑んだので、ここで肇は何かを予知した。


「ちなみに、大凶と大吉しかないから」

「ずいぶん極端だな……」

「当たる確率は他のどの神社よりも高いと思うわよ?」

「二分の一だからな」


 花凪子との会話を切って、テーブルに向かった花凛を追う。んー、と顎に手を当てる花凛は二枚を交互に見ていた。


「おみくじに書かれてることは信じるのか?」

「うん、いいことだけ。信じる者は救われるって言うから」


 ロジカルな人ほど信じないと思っていたのだが。花凛は案外、信じるタイプらしい。


「肇はどうなの?」

「現実性で信じるかどうか決めるな。あまりにも漠然としたことが書かれてるものは信じない」

「……なんか特殊だね。おみくじに現実性を求めるとか」

「そうか?」


 誰にでも当てはまるようなことが書かれているものは胡散臭いのだ。その点、自分にしか当てはまらないようなピンポイントなものは信用できる。ハイリスクローリターンだから、儲けを出したい人はやらないはずである。

 前かがみになって紙を凝視した花凛はやがて、私こっちと、勢いよく右側を取った。


「じゃあ俺ももらうか」

「ここで読む?」

「いや、部屋で読むつもりだったな。何が書かれてるか分からないし」


 見ていないから、花凪子が書いたものだから。文字通り何が書いているのか予想できなかった。

 イベントを面倒くさがる花凪子が新年に合わせてイベントを起こしただけで天変地異のような部分があるのだ。多少の警戒はしてもいいだろう。


 軽い足音を背後に従え、重い足音は自室へと向かった。ドアを閉めるなり花凛は紙を開いて、はっ、と驚きの息を吸った。口をぽかんと開ける花凛は、何度も瞬きをして肇を見る。

 大吉か大凶か分かりづらい反応だったが、肇としては、花凛に大吉を引いてもらいたかった。


「どっちだったんだ?」

「だ、大吉……」

「おお、そうか」


 この時点で肇は悟りを開いた。もはや何が書かれていても驚くまい。不思議な安堵感があった。


「おお、やっぱり大凶か」

「肇ちょっと喜んでない? 気のせい?」


 心配の色を含んだ声色だった。引いているときの声色ではないと思いたい。ひとまず気のせいということにして、書いてあることを目で追った。


 おそらく花凪子の自筆、加えて言えば筆ペンか何かで書いたのだろう。まるでフォントを変えたかのように墨痕(ぼっこん)鮮やかな行書が広がっていた。無駄に凝っていて、大凶を引いたとしても、肇の胸におかしさが込み上げた。

 花凛と横目が合う。彼女は微笑していた。


「なんか、すごく凝ってるね」

「ああ。おそらく今年一番の頑張りになるだろうな」

「ええ……? 新年入ってまだちょっとだよ? 今年一番が早すぎない?」

「内容も読んだか? 筆跡だけじゃなくてこっちも濃いぞ」

「本当?」


 紙にもう一度目を移した。


 勉強。今まで通り英語を武器にしていけば未来は明るい。さいきん数学が伸びてきているが、それでも英語の偏差値を落とそうものなら雷が落ちる。すべからく武器は磨くべし。

 金運。交渉には乗らない。自身でやりくりするべし。

 生活態度。とてもよい。堕落すれば母親が鬼になるだろう。


「なんだこれっ……」

「ね」


 どちらともなく笑っていた。こんなのおみくじではない。けれども、どこか信憑性(しんぴょうせい)がある。花凪子にしか作れない代物だった。


「書かれてることが私にしか当てはまらないんだけど、私が大吉ってことはもう見越してたのかな」

「そんな感じがするな。こっちも俺にしか当てはまらないようなことが書かれてる」

「恋愛のとこなんて書いてた?」

「ん、ああ……二重線で消されてる部分は読まないぞ。新しく書き足されてる箇所には『泊まったり仲睦まじくしたりして過ごすのは構わないが、責任を持った行動をし、彼女を傷つけないこと』って書いてるな」


 へえ~、とニマニマして頷いた花凛。花凛にはなんと書かれていたのか聞いたところ、大事にして、という要約した答えが返ってきた。

 肇が呼んだ部分も『彼女を傷つけないこと』に続きがあるので、多少の隠し事はあってもいいだろう。


 クリアファイルに入れて持ち歩くと語る花凛は、心の底から嬉しそうだった。

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