食べ物の好み
昨日は結局、日付が変わったあとも二人で話していた。そのせいか肇と花凛が目覚めたのはほぼ同時刻で、花凛のほうがあとだった。
久しぶりに見た彼女の寝顔は微笑ましさを与えてくれるもので、出来心で撫でてしまった。頬が大福だった。
すでにベッドから出ている肇は大きく伸びをする。対照的に、花凛はベッドに座っている。花凛は目を閉じたままで、今にも寝てしまいそうなほど静かだ。
「うう……まだ眠い」
「二度寝するか?」
「いや、起きなきゃいけないんだけどね……」
両手を使って立ち上がろうとするも、力が出ないのかベッドにストンと落ちる。二回それを繰り返して、ため息をついた。
「力が出ない……肇、立たせて?」
「いや、やめといたほうがいいんじゃないか? 今日も休みだし、朝が少し遅れても問題ないだろ?」
「花凪子さんとポトフ作る約束してるんだよね」
そう言われて渋々花凛の手を引いたが、彼女が包丁を使うことに不安を感じえない。起きているときなら料理上手なのだろうが、今のような状態は怪我上手なだけだろう。包丁を使って目が覚めたとは冗談でも言ってもらいたくなかった。
立ったままぎゅっと目をつむった花凛は、先程の肇のように伸びをする。両腕を上げたときに胸の膨らみが強調された様子を、肇はしっかり見てしまった。朝から煩悩まみれである。
肇はわざとらしく扉に目をそらす。いつもの調子に近い声が背後から聞こえた。
「私、顔洗ってくるから、先に着替えててくれない?」
「分かった」
足取り軽く部屋を出ていく花凛。階段を下りきる音が聞こえるまで、肇は着替えなかった。
肇も花凛も、着替えが済んだあと一緒にリビングに向かった。戸を開けて最初に向けられたのは不満そうな花凪子の顔だった。
「昨晩は楽しんだようね。朝のこんな時間に起きてきて」
「昨日見た映画は確かに楽しめたな。そのせいか寝る時間が遅くなったが、まあ、まだ七時前なんだからこんな時間って言うほどでもないだろ」
「ふーん」
「多少は勘弁してくれ」
向けられた半目に、肇はひらひらと手を振って応答する。これ以上話す気はないという意思表示が伝わったのか、花凪子は花凛に視線を移した。
「それで、ポトフの件だけれど」
「すみません……今から作りますか? 朝ごはんがその分遅くなっちゃいますけど」
「お昼に作りましょう? 私のお腹が空いてしまって、もう用意してしまったのよ」
確かにテーブルには皿が並んでいる。サラダとコロッケ二つという質素なもので、これにポトフが付く予定だったのだろう。花凛と花凪子のはコロッケが一つだけだった。
「肇もそれでいいかしら?」
「ん? ああ」
相槌も適当にご飯を盛って、肇は席に着いた。三人の盛り付けが終わってから挨拶をした。
「そういえば、花凛ちゃんはそろそろ帰らなくてもいいのかしら?」
十分ほどの雑談が途切れたタイミングで、花凪子は一口大のコロッケをつまんでそう言った。花凛の目を見てもう一言、
「そろそろ大晦日だし、大掃除をしなくてもいいの?」
「……心配するところはそこなんだな」
「年の暮れには掃除するでしょう? それをしないと部屋が大変なことになるわよ?」
「いや、まあ、な」
新年は家族と過ごさなくてもいいのか。普通ならそう訊くのではないだろうか。あえて掃除のことを心配したのは、さては花凪子なりの気遣いなのか。真面目な顔でボケるタイプは、どこでふざけているのか分かりづらい。
花凛に目を向けると、咀嚼することをやめてテーブルを見つめている。んー、と長い間唸ってから、言葉を探すように慎重に話す。
「明日には帰らないとって思ってました。父さんが帰ってくるので、きっと話もしやすいと思いますし」
「ならいいわ」
「あ……そうですか」
花凛はしばらく呆気にとられていた。続いて出るはずだった言葉を失い、口が開きっぱなしになっていた。
一方の花凪子は食事を進める。家族と連絡をとって、いつ帰るのかをちゃんと考えていたのなら、何も言うつもりがないらしい。長年の付き合いからか、花凪子が話を流した理由が肇には分かった。
この空気は何、と花凛から目で問われているような気がした。肇は箸を置いて顎に手を当てる。説明しようにも説明できない。フィーリングの部分が大きいからだった。
「そのうち慣れるだろ」
「そうかな……?」
「ああ。いつか気付く日が来ると思うぞ」
そういうことにして、肇は説明を投げた。花凛は分かるような分からないような、そんな表情で首を傾げていた。
○
朝食は取ってから、肇は机に向かっていた。家事の合間に部屋を訪れる花凛と話す限りでは、彼女は花嫁修業に精を出しているらしい。花凛が頑張れば頑張るほど花凪子がぐーたらするという構図ができあがっていた。
お昼ご飯ができたと呼ばれて、肇は勉強を中断しリビングに向かった。入った瞬間に味噌の香りが鼻孔をくすぐり、食欲を掻き立てる。テーブルにはチャーハンが一人分ずつ置いてあり、どうやら外国文化の昼食なようだった。
挨拶をして真っ先にポトフを飲んでみる。聞いたとおりにコクがあって、不思議とまろやかだ。ウインナーなど具材も豊富に入っていた。花凛と花凪子はおいしいと言っているが、肇はカリフラワー入りのほうが好きだった。
昼食を食べ終わってもなお、口内にはまろやかさが残っていた。肇はどうやら、ポトフは爽やかなほうが好みだったらしい。隣で食器を洗っている花凛が不思議そうに見つめてくる。
「静かだけど体調でも悪いの?」
「いや……体調はいいぞ」
「そう?」
肇の言い分に納得できず、自身で原因を考えたのか花凛はあっと声を漏らす。
「お昼ご飯が合わなかったとかじゃない? そのときからなんか変だったし」
「あー、そうだな」
これは正直に答えてもいいのだろうか。作ってもらっている身のため「好きではなかった」と伝えることにいささか抵抗があった。
肇がそうこう悩んでいる様子を見て、花凛は察したらしい。朗らかに笑った。
「苦手なものは苦手って言っても大丈夫だよ。今度から気を付けるから」
「……そうか?」
「うん。っていうか肇にも苦手もなものあったんだね。ないと思ってた」
「大体は食べてきたからな」
好き嫌いがないのは花凪子のせいであった。今となっては花凪子のおかげと思えるが。遠い目に心あたりがあるのか、花凛は同情を込めて頷いていた。
「花凪子さんだから食べさせそうっていうか……たぶん、そういうことだよね?」
「ああ。出されたものは食べる努力をしろって教えられてな。母さんに好き嫌いがないから、本当にいろんな物がテーブルに並んだよ。……だからだろうな」
あー、と花凛は共感してくれた。苦笑とも取れる笑みが二人には浮かべられていたが、皮肉なニュアンスは込められていない。苦しかったが乗り越えられた過去を思い返すような、しみじみとした懐かしい笑みだ。
「花凛には好き嫌いってあるのか?」
「んー、私もあんまりないかな。病院の入院食っていろんなもの出るじゃん。だからかな」
分かり味が深い言葉が飛んできた。今度は肇があー、と頷く番だった。食器をこちらに渡しながら、花凛は声をあげる。
「でも私、コーヒー飲めない。苦いもん」
「それはまあコーヒーってそういう飲み物だからな……」
「あれがアイスティーとかストレートティーくらいフレーバーで飲みやすければいけたんだけどねー」
「それもうコーヒーじゃないだろ」
コーヒーが紅茶の仲間になっている世界線はどうかしている。コーヒーは葉を乾燥させるわけでも発酵させるわけでもないし、渋みだってないのだ。
心で語っていることを口に出しても、花凛はおそらく首を傾げるだけだろう。肇は一人で頷くにとどめた。
「母さんも飲めないし、まだ飲めなくてもいいんじゃないか?」
「えっ? 花凪子さんも飲めないの?」
「ああ、おそらくだがな。飲んでるところを見たことがない」
緑茶や炭酸は何度か見た。それに、肇がコーヒーを飲み始めたとき、父さんに似たのかしらともこぼしていた。つまりそういうことだろう。
ねえねえ、と花凛がいたずらに笑った。
「ちょっとさ、花凪子さんにもコーヒー出してみない? 私も久しぶりにチャレンジしてみたいし」
おやつの時間に三人分用意したが、飲めないと訴えてきたのは一人だけだった。それは肇が美味しくいただいた。




