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ペース崩しの鬼と金棒

 夏場だったら出歩けたであろう時間帯。この時期だとすでに真っ暗だ。傘を差した肇は、街灯の光が若干ばかり当たる場所で立ち止まり、花凪子に今から帰ると連絡した。


 バイトが終わるはずだった時間はもう二時間も前になる。しかし人が足りず、また、来店する客が多く、あがれずにどんどん押していった。

 誰と会う約束をしているわけでもない肇は、クリスマスは働き詰めなんだなと、抵抗の意思を全く見せていない。むしろ予想通りとさえ思っていた。


「そういえば花凛から連絡入ってなかったな……」


 ケータイを取り出しても、やはり入っていない。時間的にはメッセージを入れられていてもおかしくないはずだ。

 十秒以上立ち止まって考え続けた挙げ句、肇は待つことを選んだ。家に着いたらもう一度確認しよう、それくらいにしか考えていなかった。


 大通りに出ると、ひとり歩きしている人はほとんどいなかった。代わりに、相合い傘をする幅広い年齢層のカップルがいた。若いところだと同年代。もちろん、手を繋いで歩く老夫婦もいた。


 その中を一人、肇は歩き抜ける。


 花凛がいたらペースを落とす場面だった。手を繋ぐ場面だった。彼女は今、家で勉強でもしているだろうか。アニメを見ているだろうか。

 バイトを休んだ連中は『恋人とデートする』らしい。生憎と、肇と花凛は、その理由で休めるほどの関係になっていなかった。


 人と人の間をスルスルと歩く。たまたま空間があった。肇はそこでペースを落とす。


「なろうと思えば……どうだろうな」


 嫌われてはいない。それだけが確信できることだった。あわよくば好意を抱かれている――そんな思考は、天を仰いで吹き飛ばす。

 目の前を歩くカップルはどちらから告白したのだろう。やはり男子からなのだろうか。


 ため息を一つ、追い越していく。自宅がある通りに入るまで、しばらく人の波に揉まれそうだ。


 自宅近辺となるとやはり人が少なかった。商業施設がないからだろう。

 人の波を駆け抜けたためか、やっと休めると思って足取りが重くなった。ゆっくり歩いても誰の邪魔にもならない。


 あたりを見回した。街灯が雨を照らしている。近くの家の電気はまだついている。道端に気持ち程度積もった雪を見つけた。


「……俺の負けか」


 悔しさは特になくて、事実を受け入れる余裕があった。実際のところ話す口実になるのだ。花凛のことだし、お願いと言っても肇にデメリットはないだろう。


 自分が勝っていたら――そこまで考えて肇は首を振った。すっかり歩みは止まっている。


「告白でも、していたのか……?」


 自分自身に言うようにゆっくり話す。顎に手を当て数秒、


「好きか嫌いかの判断ができてない時点で無理か」


 妙に得心の込もった声が出た。『一緒にいたい』という感情がどっち寄りなのかは肇も分かっていた。けれど、頑なにそれを認めないようにする思いもあった。人生の中で恋をするなんて、思っていなかったのだから。


 ため息をついて、どんよりとした空を見上げて。何回か繰り返したところで足が動いた。


 ズボンの裾が冷たくなっている。靴下にまで染み込んだ水が、早く帰ろうとする肇を引き止めるように寒さを運ぶ。傘を差している右手にも冷たい雨が当たっている。

 雪も大概勘弁してほしいが、この時期の雨というのもまた、骨身に染みるため勘弁してもらいたかった。


「……風邪ひくな」


 背中に悪寒が走った。家に着いたら暖かいリビングでホットコーヒーを飲もう。クリスマスなのに花凛と出掛けないのかなどと母親から質問されそうだ。肇は回避の言葉を考えながら、亀の足取りを進めた。


 玄関前でケータイを取り出す。母からメッセージが入っている。肝心の花凛からは――肇は顔をしかめた。


「入ってない……?」


 九時を回ろうかという時間だ。花凛は何をしているのだろう。

 後頭部に手を回した肇は、気をそらすように軽く掻く。


「約束を破るタイプじゃないしな……」


 思案顔のまま、ひとまずケータイをポケットに入れた。ドアノブに手を掛ける。回して、ノブを手前に引いた。暖かい空気が逃げてきた。

 眼前の光景を視認して、肇はさらに険しい表情を深める。


「――っ! ……?」


 花凛がいることに別段驚きはなかった。驚いたのは、彼女がキャリーケースを側に従えていたことと、母に抱きついていたことだった。

 母はというと、肇ですら見たことのない慈愛の表情を浮かべて、花凛の背中に手を回している。


 母がちゃんと母親しているだけで、問題があったことは理解できた。傘を畳んで一歩踏み出す。

 母から鋭い目線が飛ぶ。顎で後方を指された。意図を汲み、開けっ放しのドアを閉めた。


「……、……?」


 クチパクと表情でなんとなく伝える。対して母は首を横に振る。待って、と口が動いた。

 背中に回された母の手が再び動き始める。赤子を揺するような温かみのある動きだった。


 肇は音をたてないように息を吐き、玄関の壁に背を預けた。下半身の体温がありありと下がっていたけれど、彼女の安心には代え難く。

 花凛の透けた制服はできるだけ見ないようにしていた。時計を確認する仕草にかこつけて薄桃色のラインを追ってしまうたびに、肇は歯を食いしばる。


 グズ、と鼻をすする音が聞こえた。顔を上げると、母が花凛の背中を二度叩いた。

 無理に明るい声で花凛はお辞儀する。


「っ、もう大丈夫です。ありがとうございました」

「別にいいわ。本物の娘が甘えてきたみたいで嬉しかったし」

「でも……本当によかったんですか?」

「ええ、困ったときはいつでもうちに来なさいって言ってたじゃない。うちの子は可愛げも何もなくて、話すのがちょっとアレだから」

「……あー」


 残念そうな目でこちらを見て「ちょっとアレ」とは何事だろうか。若干の間を置いて頷く花凛も花凛である。

 肇は不必要なディスに眉をひそめる。花凪子はジト目で応戦してきた。一人、まだ涙声だけれど平和な空気を漂わせている。


「肇は……普段は確かに可愛げがないんですけど、でも、可愛いところもあるんですよ?」

「そう? 家だといつも仏頂面よ?」

「二人で出かけたときは全然違いますって! もっと表情豊かなんですよ! 微笑んだり、恥ずかしがったり、キリッとした顔になったり!」

「……へえ」


 その流れでなぜこちらを見た。『だ、そうよ』なんて声が今にも聞こえてきそうだ。あの余裕そうな顔はろくでもないことを考えているときの顔だ。


「肇、実際どうなの?」

「知らん。もう靴脱いでいいよな?」

「構わないわ。で、実際のところ」

「――ちょ、ちょっと! えっなに肇、ずっといたの? 嘘だよね?」


 花凛の横に並んで靴を脱ごうとしたとき、目を丸くした花凛が胸元を掴んできた。向かい合う形になった。

 花凛のほうが身長が小さいため、彼女の目を見つめると否応なしに薄桃色まで視界に入る。可愛い趣味だなとか、決してそんなことは思っていない。


 沈黙から察した花凛は服を掴んだまま重く息を吐いた。聞かれたものは仕方ないと観念する息だった。頭をそっと寄せてくる。

 ところで、ここには花凪子がいる。


「……、あー……寒いな」

「うん、冬だから」

「た、体温も低いんじゃないか? 風呂とか、いいのか?」

「肇が温めて」

「いや、そうだな……あー、そうだな」


 リラックスしている甘い声と、焦りに焦ってしどろもどろな声。

 誰とは言わないが、空気を読んで立ち去ってもらいたい。そんな「あらあらうふふ」みたいな笑みを浮かべなくてもいい。口元に手を当てなくてもいい。


 頭どころか体全体を預けてきた花凛を抱きとめる。肇でも簡単に包み込めるくらいスレンダーな彼女の体は、冷えていた。肇はすっかりポカポカしていた。


「あったかい……私が冷たいのかな?」

「そうじゃないか? だって、びしょ濡れだろ?」

「一応傘は差してきたんだけどなっ。なんか、頭の中ぐちゃぐちゃしてて、ちゃんとさせてたか自信ないよ」

「……そうか」


 腕の中で笑う花凛だけれど、その笑みが作り笑いだと分かったから。腕に少し力を入れた。

 母が手を叩く音が聞こえた。


「さて、お風呂はもう湧いてるから、入れるなら一緒に入っちゃいなさいね。過ちが起きても私は」

「おい」


 重低音が、行動開始の合図となった。

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